八悔目「準備」
「んふふ〜」
「どうなの? 若海先輩とは上手くいってんの?」
「上手くって……、僕らはそういう間柄ではありません」
「おぉ? にぃちゃんも誰かさんと同じこと言ってら」
「藤野君、そこの答はまるっきり違います。方程式を求めるのです」
「話逸らすなよ〜!」
「前橋君がいなくてよかったです。手がつけられなくなります……」
「召喚するぅ?」
「ここは図書館です。静かにしましょう」
「関係ないっ! 若海先輩とラブラブイチャイチャしてるのはわかってるんだから!」
「あなたも化学式が違います」
「もしもし、まえばっし? こっち来いよ。暇だろ? ……何? レベル上げだあっ? 明後日だろっ? 何を暢気にゲームしてんだよ……」
「携帯電話禁止ですよ……! しかも援軍を呼ばないでください……!」
「今日はむっちゃんやなくて、新戸君をディープに掘り下げようや」
未だにこびりついて離れない。
「……」
問題が解けないほどに。
「…………」
かといって何もしないのもまずいので、振りをする。
「……」
あれを見るのは初めてだった。
「……」
にこりと微笑む。ゆっくりと僕を見つめてくる。口元を少し吊り上げ、白い歯を微かにちらつかせ、眼を蕩けさせる。あどけない彼女が見せる大人びた笑み。あまりにも甘い視線に僕はたじろぎそうになる。この一撃は僕の理性をねこそぎ奪い取る。ただし、そこに音声が加わると……。
にこりと微笑む。ゆっくりと僕を“観察”つめてくる。しかし、笑うのは口だけ。意図的に口元を上げると、白い歯が少し見える。眼は頭の中を透かせようと見開く。何かを悟ったのか、口だけの笑みを作る。背中を這い上がる寒気と何とも言えない恐怖感が僕を怯ませる。瞬きも許されない。視線を背けるのは以っての外。すぐにでも何かをされる。僕は理性がそれらで塗り潰されるように感じたのだった。
「…………」
……思い出すだけで今現在の僕でさえ、汗が止まらない。ごくわずかな量。……冷たい。
「……」
何がああさせたのかわからない。僕が野暮なことを聞いたからだろうか? 彼女にとって苦い記憶だ。当然かもしれない。しかし……、
「……“嘘”……か……」
僕は嘘は言っていない。反論する点はそれだ。だが、僕が腰抜けだったので、言い返せなかった。いや、そこでしたら、話が拗れてしまう。ある意味、言い留めたのが正解だったのかもしれない。
「新戸君、これ合っとる?」
向かいにいる奈多弓さんがノートを差し出してくる。ちなみに僕の左隣りは前橋君が、さらに隣には藤野君がいる。
「……そうですね。ただ、答え方がまずいです。ここは訳文で答えろと指示されています」
「あ、そう書いとる。こんなん別にえぇやん……。メンドイなぁ」
呟きながら消しゴムで消す。そして書き直そうとした時、
「あっ…………芯が……」
折れた。渋々シャーペンの芯を入れる。その後改めて記入した。
少しショックなのが、信じてもらえなかったこと……。
「マンネリしとるな……」
嘘にとても敏感な彼女。嘘が大嫌い……。
「まぁ……仕方ないですよ。誰にだって悩み事はあります」
「それが恋患い……」
「……藤野君、足し算が間違っています」
「なぬっ! ケアレスミスじゃい!」
「そうならいいのですが」
「あんた、四則演算ができてないじゃん。何で足し算が先なの? 割りとかけが先でしょ?」
「だから、そんなの誰が決めたんだよ! 本人が合ってるって思えばそれでいいじゃん! 答は皆の心の中にあるし!」
確かにあの性格なら、汚い部分が嫌いそうだ。僕らは平気で使っているというのに……。仲良しの木村副部長でさえそうだろう。
……そういえば、副部長は彼女のあれを知っているのだろうか? それなら雛さんも……、いや、……雛さんは姉妹ではない……にしても知っているのだろうか?
「…………」
それなら他の部員は? 例えば……、
「あんたの心はどす黒いから見えないわよ!」
「めっちゃ澄んでるし」
「黒く澄んでるんでしょ」
今、奈多弓さんの隣にいる時田 雅美さんだ。彼女は誰とも親交が厚い。特に礼香さんと木村先輩とはよく遊びに行くらしい。
「まったく、フジーニョは四則演算できねぇのかよ。我が戦友として恥ずかしいものだ……」
「前橋君は引き算ミスってる」
「ちげーよ、よく見ろ。これは5じゃねぇ……“ち”だ」
「見たことねえよ! 数式に平仮名が使われてんのっ!」
だが、この場で相談を持ちかけたら、野次馬がいて騒がしくなる。タイミング見計らって話してみよう。
今日は13日の土曜日。明後日がテストなので、図書館にこもっているわけだ。ちなみに最初から予定したわけではない。僕が勉強している最中に四人が来たのだ。それで突っ掛かってきて……こんな状態になっている。
この図書館はわりと広い。中央部には本棚が間を作って道を仕切っている。そしてここの端っこに座る空間が設けられているのだ。本を借りたい時はど真ん中にカウンターがあって、本を持ってくればいい。ちなみに、僕らは奥の和室にいた。テーブルの下は穴が空いていて、足をそこに入れて座れるようになっている。
「ところで、新戸君」
「……はい、何でしょうか?」
時田さんが話しかける。ペンをひとまず置いた。
「来週の金曜日に吹奏楽部のミーティングあるからね」
「……なぜ僕に伝えるのですか?」
「テスト返しが終わってからだから、よろしく……って礼香先輩から言伝を貰ってる」
「だと思いました」
後輩想いの先輩だこと。
「にぃちゃん指名かよ〜。別料金かかんぞぉ!」
「代金はワタシのカラダで……ってかぁ! あんたらどんだけやねんっ!」
なぜ時田さんにツッコミを入れる?
「二人とも打ち合わせしたのですか?」
本当に静かな場所に似合わない人たちだ。白い目で見られていることに気付かないのだろうか。
その後は意外に静かになった。時間が経つと、さすがに集中してくる。やっと勉強らしく……、
「あのよ」
「なんや?」
らしく……、
「いいこと考えたぜぃ!」
なってほしかった。
三人は素早く反応した。絶対にいいことではない。
「なんやねん……。あんさんの思い付くことはお見通しやねんで」
「まぁまぁ」
とりあえず藤野君が宥めた。というより、これを待っていたかのようにノリがいい。
「……もし、新戸が陸奥実に負けたら、その先輩にコクれ。勝ったら陸奥実にコクらせる」
「……」
理不尽を極めたと言っていい条件だ。
「名案だろ?」
本の角で頭をかち割ってやりたい。
「そういうのに限って同点になっちゃわない? それはどうするの?」
「もちろん、二人ともコクる」
唯一の逃げ道を塞がれた。
「まえばっし……そいつは名案すぎる!」
「陳腐すぎるけど、おもろくなること間違いなしやぁ!」
僕ら二人はとてもつまらないし、今後の関係が面倒になる。
「そうとなれば……、」
「もちろん断ります」
僕は教科書もろもろを片付けた。付き合っていられない。大体、僕らがそんなものを認めるわけがない。
「えっ? 新戸君やらないの?」
「当たり前です。あなた方が勝負に出ないとはどういうつもりですか? 卑怯です」
「確かにそうやけどなぁ……」
その傍らで前橋君が立ち上がった。トイレだろうか?
「しゃあねぇな……オレがやるぜぃ!」
前橋君がぴんと手を挙げた。
「あんさん、好きな人おらへんやろ……」
「………………」
藤野君がそっと肩を組む。逆に申し訳ない気分だ。
「俺がやるよっ!」
すっと挙手する。
「じゃ、じゃあ私も!」
慌てて、
「そうなったらワイもワイもぉ!」
勢いづいて手を挙げた。そして取り残された僕……。皆からの視線が集中する。このネタ……半分虐めにならないだろうか……?
ここでノラなければ、芸人として……でなくて、友達としてノリが悪いと思われる。
「……」
どうする? 思考時間は短い。選択肢は二つに一つだ。…………………………、
「オレやるぜぃ!」
「ワイやるぅ!」
「俺がやる!」
「私やる!」
皆こぞって手を挙げる。かなり迷惑だ………………仕方ない。
「……」
「お?」
「…………僕…………」
「……うん」
俯きながら、
「……します」
腕を上げた。
僕が勝てばいい。そう、勝てばいいだけなのだ。しかも、これは僕にとっても絶好の機会だ。いい加減な気持ちにならなくてすむ。
「……」
とにかく今は礼香さんについては保留にしよう。目の前のことに集中すべきだ。
「……」
「瑠璃、どうかした?」
「いえ、……何も」
「何だか二人だけで話すのが久しぶりな気がする」
「そうですか? ……」
僕は家に帰り、夕食を食べ終えたところだ。
確かに、虹にぃが土曜日休みなんて珍しいから、会話が少なくなっていたかもしれない。
「……学校は楽しいかい?」
「そうですね。陸奥実君と同じクラスですから。けれど……」
「……けど?」
「さらに楽しくなりました」
「それならよかった。瑠璃はけっこう他人行儀するから心配してたよ」
「? 僕は普通にしてますよ?」
「え、うーんと……、まあいいんだよ。瑠璃がよければ」
「……?」
よくわからなかった。
他愛のない話が続いた。虹にぃの仕事、僕の学校生活、時事やニュース、最近の芸能人のこと、ごく普通でありきたりな話ばかりだ。けど、僕にとっては新鮮だった。
「っと、瑠璃」
「はい?」
「勉強しなくていいのかい? テスト近いんだろ?」
「……そうですね……」
いつの間にか9時を過ぎていた。脳裏にあれが霞む。でも……。
「……虹にぃと話している方が楽しいですから」
「そうなの? ならいいよ」
僕らはその日が終わるまで、ずっと談笑していた。