さよなら、あたし
「ぴえん」
あたしは泣いた。
泣けば誰かが慰めてくれると知っているからだ。
別に本当に悲しいわけじゃない。
本当に悲しかったら、人はぴえんなんて泣いたりしない。
──女にはいくつか武器がある。あんたも使いな。
あの日、ママは笑ってそう言った。
「ぴえん」
あたしはただ、誰かに構ってほしいだけなのだ。
「ぴえーんぴえんぴえんぴえん」
場所も気にせずにあたしは泣いた。
誰かはやく、可哀想なあたしを慰めておくれ。
泣き続けるあたし。
でも、今日は誰も声をかけてくれなかった。
こんなに可愛くて可哀想なあたしを無視するなんて、まったくひどい世の中だ。
ずっとずっと泣いてるのに、いっこうに誰も構ってくれる気配がない。
でも、ここで泣き止んではあたしが廃る。
負けるな、あたし。がんばれ、あたし。
あたしはお前らなんかには負けない!
「ぴえーんぴえんぴえんぴえんぴえん」
あたしは泣き続けた。
ずっとずっと泣き続けた。
「ピエーンピエンピエンピエンピエンピエンピエンピエーン……」
気づくと、あたしは一匹のセミになっていた。
「ピエーンピエンピエンピエンピエンピエンピエンピエーン……」
いったいどうして、こんなことになってしまったんだろう。
まさかセミになるなんて……。
嘘泣きで誰かに構ってもらおうなんて考えていたのがいけなかったのかな。
それにしたって、あんまりだ。
今度は本当に悲しかった。
だからあたしは本気で泣いた。
けれど、もう涙は流れなかった。
だって、セミなんだもん……。
人じゃなくなってから泣き方を知るなんて。
あたしは底抜けの間抜けだった。
「ピエーンピエンピエンピエンピエンピエンピエンピエーン……」
──じゃあね。
あたしを呼ぶ、ママの声は遠かった。
ただいまは、まだ聞いてない。
あたしの中で、記憶が溢れて、零れてく。
このままではあたしの身体は大爆発してしまう。
水を入れすぎた風船が破れるみたいに、周りに悲しみを撒き散らすことになる。
だから、あたしは鳴き続けた。
ずっとずっと、鳴き続けた。
悲しみよ、去れとは言わない。
せめて、少しでも遠くに──。
「ピエーンピエンピエンピエンピエンピエンピエンピエーン……」
あたしはこの日、初めて自分以外の誰かのために泣いたと思う。
「ピエーンピエンピエ……ピエ……ン」
七日七晩、泣き続けた。
声は枯れた。
ザラついた樹皮に食い込ませていた足先から、ふっと力が抜けた。もう、しがみつくこともできやしない。
乾いた音を立てて、あたしは木から剥がれて落ちた。軽くなった身体が風を切って落ちていく。
硬い土に背中を打ち付けたのに、こわいくらいに痛みはない。
薄緑色の羽をバタバタと震わせてみるけれど、ひび割れた羽は空気を掴むことなく、土埃を舞い上げるだけ。間抜けな羽音が腹の立つくらいうるさくて、あたしは羽を動かすのを止めた。
もう、どこにも戻れない。
仰向けだ。
死ぬ前の虫みたい。
意識が白く滲んで、あたしから離れていく。世界から自分だけが切り取られたみたいに、孤独の輪郭が鮮明に浮き上がる。
ああ、これが死ぬっていうことなんだ。
悟ってしまえば、ほっとした。
空が見える。
遠くて、青い。
突き抜けるような青色の真ん中で、太陽が輝いている。
いつもうんざりしていた突き刺さるような日差しも、今は少しだけきれいだと思えた。
薄れる視界の中で、青色だけが確かに見えた。
「……ピ……」
最後の熱が空気に溶けて、あたしは死んだ。
気づけば、公園のベンチで泣いていた。
はっとなって自分の身体をぺたぺたとまさぐった。顔も手も人間のものだった。
あたしは夢を見ていたのだろうか。
とてもそうは思えない。
死ぬ時の、土の深くにある棺に閉じ込められたような孤独感。あれは夢なんかじゃない。
そうして地面を見つめながらぼんやりと思いを馳せていると、ぬっと大きな影が割り込んできた。
あたしはびっくりして顔を上げると、目の前にクラスメイトの男子が立っていた。
「泣いてたみたいだけど……大丈夫?」
男子はおそるおそるといった様子で、あたしの顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。
──女にはいくつか武器がある。
耳の奥で鳴るママの声は、いつもより遠い。
あたしは少しだけ考えたあと、男子の目を見てにこっと笑顔をつくった。
「だいじょうぶ。ちょっと目にゴミがはいっちゃっただけ」
震える手で目を擦りながら、あはは、と笑う。
「そっか、なら良かったよ」
「うん、ありがと」
あたしが言うと、男子は照れたみたいに目を逸らす。じっと地面を見つめる顔は、高校の合格発表を待っているみたいに深刻だった。
何かぶつぶつと呟いたあと、きゅっと顔を引き締めて口を開いた。
「よ、良かったらさ……二人でどこか遊びに行かない?おれ、良い目薬売ってるところ知ってるんだ」
「へ?」
あたしは一瞬、真顔になった。
少しして、ついクスッと笑ってしまった。
誘い方がへんてこすぎて、おかしかったから。
男子は後悔したのか、恥ずかしそうにあわあわと慌てていた。
こんな風に笑ったのは久しぶりな気がした。なにせセミになってから泣きっぱなしだったから。
「いいよ、行こう。欲しかったの、目薬」
「え、まじ?」
男子は口を開けて唖然としている。
ハトが豆鉄砲って、こういうことを言うのかも。まんまるな目も、少し似てるような気がした。
あたしはベンチから跳ねるように飛び降りる。新体操選手みたいに両手を掲げて着地のポーズを決めて、振り向いた。
「ほら、はやくしないと。あたしの気が変わっちゃうよ?」
いたずらっぽい笑みをつくって言ったあと、あたしはずんずん先に歩いていく。
「わわっ、待って!行く、行くよ!」
後ろから慌てた声が追ってくる。
──ぴえん。
誰かの声が聞こえた気がして、あたしはとっさに振り返る。でも、男子の他には誰もいない。
ただ、ベンチの下に、セミの抜け殻が転がっていた。
びゅうと、少しだけ熱気の抜けた風が、あたしの頬を撫でて過ぎ去っていく。
抜け殻が、風にさらわれ飛んでいく。もう、戻らないとでも言うように。
ひらり、ひらり。ひら、ひらと。
手を振るように、飛んでいく。
「──さよなら、あたし」
私も小さく手を振った。




