回顧 ――高校一年生 夏―― 4
「とーこさん、お疲れ様です」
カウンターの内側に回りこみながら、手元の本に目を落としているとーこさんに声を掛けた。
彼女は二・三回軽く瞬きをして、顔を上げる。
「……要くん、お疲れ様」
ほとんど動かない表情の、口元だけ少し上げるようにして挨拶を返してくれる。
それを見ながら、彼女の隣の席に腰を下ろした。
瀬田の意味不明な提案を受けてから、既に一ヶ月。
あの時初めてと言っていい程、お互いを知らなかった同じ図書委員のとーこさんと俺だったけれど。
とーこさんとのやり取りも、毎日やってると結構面白い。
まったくの無表情。
たまに目尻や口元の筋肉が動くだけの、とーこさん。
最初は挨拶してもあまり変化は無かったけれど、一週間ほど経った時に気付いた“少し上がる口元”
本を読んでいても、悲しそうとか難しそうとか楽しそうとか、
無表情のその中に喜怒哀楽が隠れているのに気付いてしまえば目が離せなかった。
今日は、どんな変化があるんだろう。
本を読むのも楽しかったけれど、宝探しのようなクロスワードのようなそんなわくわくする様な気持ちは、日々、大きくなりつつあった。
「とーこさん、今日は何を読んでるんですか?」
自分の持ってきた本を手元に置いて、彼女の読む本をひょいっと覗き込む。
とーこさんは読んでいるページに白く華奢な指をのせて閉めると、俺の方に顔を向けた。
俺が話しかけた事を嫌がっていない表情を確認して、少しほっとして笑う。
「萬葉集」
……一言ですか、とーこさん
少し残念な表情を浮かべると、とーこさんは小さく首を傾げた。
「何?」
疑問さえも、一言。
「いえ、古典文学がお好きなんですか?」
確か昨日までは、古今集を読んでいたと思う。
古典文学というか、歌集というか。
しかも必ず原文付の。
とーこさんは一度手元の本に視線を落として、挟んだ指を小さく動かした。
「えぇ」
やっぱり一言。
あまりの端的さに、いっそ清々しく感じる俺の頭の中こそが、清々しいのだろうか。
少しも嫌な感じを受けないのは、とーこさんのなせる業なのかもしれない。
「すみません、お邪魔して」
小さく笑んでそう伝えると、自分が持ってきた本を開く。
昼休みに読んでいた最後のページに挟んであったしおりを、手元に置いた。
そして、来るだろう言葉を耳を傍だてて待つ。
「……邪魔ではないわ」
来た
その声に顔を上げて、こっちを見ているとーこさんに笑いかける。
「よかった」
満面の笑みを向けると、とーこさんはその無表情に複雑な色を浮かべる。
二・三回瞬きを繰り返して、視線を本に落とした。
その姿を見てなんだか満足する俺って、ただの変な奴なのだろうか。
既に本の世界に旅立っているとーこさんから目をそらして、手元に落とす。
俺も人の事言えず、古事記読んでる古典文学好きなんだけどね。
この一週間で分かった事。
とーこさんの周りからのイメージは、本人とは違うって事。
カウンターでとーこさんと一緒に委員会の仕事をするようになって、いくつか彼女に対するイメージを聞いた。
暗い
きつい
何考えてるか分からない
どんな三段論法だっての。
イメージって見る人の感情が入るから、当てにならないことは自分が身を持って知っている。
俺のイメージだって、運動神経がいい、体育会系、無邪気、可愛い。
入学して言われたのは、そんなとこ。
運動神経は悪くないというか普通だと思うけど、無邪気と可愛いはまったく違う。
とーこさんだって。
最初話した時、確かに無表情だなって思ったけど、ちゃんと見ればそうじゃない。
無表情にもちゃんと感情があって、その変化を見つけるのが俺にとって今は楽しみの一つ。
暗いんじゃない、物静かなだけ。
きついんじゃない、事実を述べているだけ。
まぁ、それをきついと捉えればそうなのかもしれないけれど、それだってちゃんと相手に気を遣って言葉にしてる。
何を考えているか分からないのは、表情がある人にだって言えること。
笑顔の下で何を考えてるかなんて、誰にも分からない。
それに、それ以上に――
「お願いします」
本に目を向けていながら脳内思考に嵌っていた俺は、トーンの高い声に現実に引き上げられた。
視線を上げると、ニコニコと笑う私服の女の人。
多分、付属の大学に通う学生だと理解する。
「はい」
立ち上がってカウンターに出された本を手に取ると、バーコードを読み取る機械にそれをかざした。
小さな機会音が鳴って、貸し出し登録をする。
そこで小さく呟かれる「間宮くん」という声と、横から差し出される返却日を知らせる紙。
――凄く、面倒見がいい人なのだ。
よく気付くというか、かゆいところに手が届くというか。
その上押し付けがましいところが、一つも無い
しかも、こういう時はちゃんと“間宮くん”と俺の事を呼ぶ。
瀬田と違って、凄い常識のある人。
俺はそれを受け取ると、本に挟んでそこに待つ女の人にカウンター越しに差し出した。
「一週間後の返却となります」
「はい、ありがと。あなた、ここの高校生?」
ありがと、とお礼を言いつつも本を受け取らないその人は、ニコニコとした笑みを浮かべたまま会話を続ける。
内心またか……と、うんざりしながら顔を上げる。
カウンターにいることが増えると同時に、こうやって変に声を掛けられる事も増えた。
はっきり言ったら高校一年の俺は、この図書館を使う人の中で最低学年。
下手にぞんざいな対応も出来ないし、はっきり言ってすげぇ迷惑。
仕方なく簡単に返事をすると、女の人の笑みが深まった。
「そうなの。ねぇ……」
「お話中失礼します。間宮くん、会長から電話」
会話を続けようとした女の人の言葉を遮って、硬質な声が控えめに割り込んできた。
「あ、はい」
俺はその言葉に返事をすると、まだカウンターの前に立っていた女の人に小さく頭を下げて差し出された携帯を受け取る。
そのまま椅子からずれて後ろを向くと、それを耳に当てた。
「間宮です」
そう携帯に向かって話しかけると、返ってきたのは――
「――」
無音、だった。
……あれ?
後ろでは、とーこさんがカウンターの本を手に取って、女の人に渡しているらしい音が聞こえる。
横目で見ると、不機嫌そうな女の人がそれを受け取って歩き去っていく姿が見えた。
少し怒っているのか、ヒールの音がエントランスに響く。
その後姿が入り口の自動ドアから外へと消えて、振り返ったとーこさんと目が合った。
「……?」
彼女は小さく首を傾げて、俺が持っている携帯に手を伸ばす。
「……え」
彼女が何をしたいのか分からず携帯を耳に当てたままの俺は、遠慮がちに手の甲に触れた感触にびくりと思わず反応してしまった。
俺の大げさな反応に、とーこさんは一瞬動きを止めて伸ばしていた手を下ろすと手のひらを俺に向けた。
「ごめんなさい、間違えて切ってしまったのかしら」
とーこさんの手の行方をずっと視線で追っていた俺は、その言葉に俺の目線より少し上にある彼女の顔を見上げた。
「重要な事ならまた連絡来ると思うから、ごめんなさいね」
そこでやっと携帯を返してといわれている事に気づいて、慌てて手のひらにそれをのせた。
「すみません、ぼーっとしてて」
右手を左手で握りこむ。
どばっと、全身汗だくになりそうな羞恥心。
恥ずかしさに俯けた俺に、くすり、と微かに笑い声が聞こえた。
「……え?」
今、笑っ……
その声に、弾かれた様に顔を上げる。
「切ってしまった私が悪いんだもの、気にしないで」
でもそう俺に伝える彼女の顔は、既にいつもの無表情だった。
だいぶ、のんびりな更新になってます。
すみません。
生暖かい目で見守っていただけると嬉しいですm--m