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電車のドア横にもたれながら、真っ暗な外に視線を向ける。
真っ暗なだけに、ドアの窓部分が鏡のようになっていて、俺を映している。
とーこさん……淺川 桐子は、俺の年上の彼女。
って言っても、たった一つしか違わないけれど。
恋人になったのは十八歳だけど、初めて会ったのは俺が高一だったから、もう十三年くらいの付き合いになる。
図書委員だった俺と彼女。
最初は全然興味なかったんだけど、“あるコト”で一緒にいる時間が長くなって。
物静かな彼女に、俺はゆっくりと惹かれていった。
あの頃の俺は、ただの馬鹿で。
感情を隠す事が、凄く下手で。
いつの間にか俺が彼女を好きな事が、噂となって校内に流れていたことに少しも気付かなかった。
溜息をついて、目を瞑る。
脳裏に浮かぶ、階段の下で倒れていたとーこさんの姿。
それを振り切ろうと、小さく顔を横に振った。
彼女は何もしていないのに。
俺が好きになった、ただそれだけの事で、妬んだ同級生に怪我をさせられた。
それ以外の嫌がらせも、たくさんあったらしい。
――なぜ、らしい、か。
とーこさんは誰にも気付かれないように、嫌がらせも何もかも、全て自分の中で抱えこんでいたから。
馬鹿な俺は彼女の優しい嘘に守られて、少しも気づく事ができなかった。
彼女が怪我を負ってしばらくしてから、本当の理由を知った。
彼女ではない、他人の口から。
どれだけ、後悔したか。
どれだけ、自分を罰したかったか。
気づいた時には、全てが終わっていたなんて。
狂いそうになるくらい、あの時、自分を消し去りたかった。
久我さんが苛めをうけて怪我をした時、それを俺たちに隠そうとして倉庫に篭って。
たまたまそこに用があった俺と斉藤と、真崎は彼女を見つけてしまった。
頬を腫らしたまま、泣きつかれて眠る久我さんを。
それを見た時、とーこさんと姿が重なった。
――だからか
最初は無意識だったけど――
あの頃の自分にできなかった事を、久我さんを代わりにしてやり直してた。
ずっと抱え続ける後悔を、少しでも晴らすかのように。
脳裏に、久我さんの笑顔が浮かぶ。
だから。
彼女が幸せになってくれて、本当に救われた。
ほんの少しだけど、自分の中の後悔を雪ぐことが出来た気がしたんだ。
地下鉄を乗り継いでたどり着いたとーこさんちは、十階建てのマンションの最上階。
合鍵を使ってドアを開けると、愛しい人の匂いがして気持ちが落ち着いていく。
彼女は食事の支度をしていたらしく、声を掛けると俯けた顔を少し上げて口元を小さく緩ませる。
が、それをすぐに戻して首を傾げた。
「要くん、何かあったの?」
ソファに腰を下ろしてネクタイを引き抜きながら、キッチンに立つそんな彼女を見る。
「――そう見える?」
Yシャツの一番上のボタンだけはずして、天井を見ながら息を吐いた。
「って、とーこさんには隠せないか」
紅茶を淹れていた彼女は、その無表情な顔に少し笑みを浮かべて、そうね、と呟く。
トレーにティーセットをのせて、俺の座るソファの横に膝をついてローテーブルにそれを置く彼女の姿を目を細めて見下ろす。
ふわりと上がる湯気と、香り。
注ぎ終えたティーポットをテーブルに戻して、立ち上がりかけた彼女の腕を掴む。
表情の変わらない彼女は、小さく首を傾げて俺を見上げた。
「要くん?」
「それを言うなら……」
その腕を強く引き寄せて、彼女の身体を腕の中におさめる。
「あなたの無表情も、俺には通じないよ」
横抱きに近い形で抱きしめられた彼女は、ぱちぱちと瞬きをしながら俺を見上げた。
「……私の今の顔は、どんな風に映ってる?」
ぎゅっと抱きしめて、耳元で囁く。
「俺を、心配してる顔」
「……そう思うなら、あなたは私の心配を取り除いてくれないと」
腕の力を弱めて、顔を覗き込む。
「切りかえし、上手いね。さすがとーこさん」
茶化すように笑うと、彼女の手が俺の頬に伸びる。
「それを仕事にしているだけあるでしょう?」
左の頬にゆっくりと触れるその手は、とても温かくて柔らかくて。
落ち着いていく心と、反対に思い出してしまうさっきの自分の考えに、思わず彼女を抱く手に力が入る。
「要くん?」
「俺はね。あなたを早く助けられなかったことを、後悔してる」
無表情な目元が、少し顰められる。
それは、怒っている風にも見えて、俺の気持ちを沈ませていく。
「最近何か辛そうに感じたけれど、それを思い出していたからなの? もう、十年以上前の話よ。それに、助けられなかった、じゃないでしょう?」
頬に触れていた手を戻して、俺の右手を掴む。
「あなたは知らなかったんだから、何もできるわけない。それを望んだのは、私。要くんが自分を責めるのは、お門違いだわ」
そう言って、少し悲しそうに目じりを下げた。
俺の不甲斐なさを責めるのではなく後悔すること自体がおかしいと、俺に救いを差し伸べてくれる愛しい女。
「……とーこさん」
強張っていた身体から、力が少し抜けて。
彼女は小さく首を傾げる。
無防備に晒されたその口元に、キスを落とす。
「あなたは、俺のものだよ?」
幾度も伝えた、あなたへの想い。
顔を覗き込むと、とーこさんはくすりと笑う。
「……私は、もう大丈夫よ」
――あなたがいなくても
言外に含まれた、意味。
「もう、自由になっていいのよ。……要くん」
幾度も返された、あなたへの想い……
……やっぱり、あなたはそう言うんだね。
十年以上経った今でも、あなたは俺が贖罪の為に一緒にいると思ってる。
……そう、信じてる。
本当は、ずっと考えてた。
いくら俺が彼女を好きでも、そして彼女も俺を想ってくれていたとしても。
それ以上に、俺への後ろめたさを抱えているとーこさん。
こんな関係なら、離れた方がとーこさんの為になるのかもしれないと。
でも……無理だ。
彼女の幸せを考えて、離れるなんて俺には出来ない。
俺は、あなたのように……強くない。
触れたその手を、そっと包み込む。
「……俺は、ずっと自由だよ。俺が、あなたの傍にいたいんだ」
その言葉に目を細めて自嘲気味な笑みを浮かべると、上体を起こして俺の腕を押した。
ゆっくりとその身体を離すと、ソファから立ち上がってキッチンに歩いていく。
ダイニングテーブルに置いてあったベージュのエプロンを手に取って身につけながら、彼女はシンクの前に立った。
その姿から、この話はおしまい、と暗に言われている気がして思わず苦笑する。
――俺の想いは、未だあなたの心に届かない。




