回顧 ――高校一年生 冬―― 3
「お疲れ……でーす」
いつも通りの時間、いつも通りのカウンター。
座っていた人に声を掛けて、途中で眉を顰めた。
「お疲れ様、間宮くん」
にっこり笑って顔を上げたその人は、とーこさんじゃない人。
内心溜息をついて、席に座る。
そのまま脇に置いた鞄から文庫本を取り出すと、しおりを挟んだページを開いた。
「今日は卒業式の打ち合わせらしいわ、淺川さん」
にこにこの笑顔を向けられて無視する事も出来ず、視線を隣の人に向けて“そうですか”とだけ返事をする。
それでも嬉しいのか満面の笑みを浮かべる先輩であるその人に、小さく頭を下げて文庫本に視線を戻した。
最近、こんな事が増えてきた。
前、とーこさんが怪我をした時にも、代わりの先輩が来た事あったけど。
とーこさん、図書委員だってのに卒業式の手伝いを頼まれたらしくて、最近ここに来ない事が増えた。
それもこれも……
「あ、瀬田会長!」
隣で何か話していた女の先輩が、少し明るいトーンで近寄って来た奴の名を呼んだ。
「お疲れ様」
その声に頭を上げると、いつものように爽やかを絵に描いたような瀬田が、カウンターに手をつく。
――それもこれも、こいつがとーこさんを手伝いに指名したからだ。
恨みがましくじっと見つめると、視線だけこっちに向けて……あっさり流しやがった。
「何か御用ですか?」
今日は卒業委員会の会議があるんじゃ……と続けた女の先輩に、瀬田は小さく頷いて俺を見た。
「そう、蔵書の事で間宮くんに聞きたい事があってね。少しいいかい?」
人に聞いている振りをして、実は強制的なその言葉に従って、仕方なく腰掛けたばかりの椅子から立ち上がった。
手にしていた本に再びしおりを挟むと、既に歩き始めていた瀬田の後ろを追う。
何も言わずに歩く背中は、何か冷たい空気をまとっていて。
怒らせるような事でもしたっけ? と、生徒会の仕事で最近あまり会っていない瀬田の背中を、無言で追いかけた。
階段を上って最上階。
いくつか研究室があり、その一番奥。
手に持っていただろう鍵で、ドアを開ける。
小さな空き部屋は、あまり使われることのないファイルや過去に使用した資料などを詰め込まれていた。
若干の埃臭さを感じて、瀬田が窓を少し開けた。
「一体、何?」
部屋のドアを閉めてから、コの字型になっている長机に、片手を着く。
ざらりとした感触に、瞬間的にその手を引っ込めた。
そんな俺の姿を見て少し笑うと、すぐに表情を戻して傍に歩いてくる。
「最近俺も桐子も帰りが遅いから、なかなか要に会えないからね。言っておかなきゃいけないことがあって」
「言っておかなきゃいけないこと?」
わざわざここに呼び出してまで、一体俺に何を言うわけ?
瀬田は両腕を体の前で組むと、ふぅっと溜息をついた。
「要の喜ぶ事なんだけどね」
「俺の喜ぶ事?」
瀬田が、俺の喜ぶネタを持っているとは思えないんですけどー
胡散臭そうに見返す俺に、肩を竦めて苦笑する。
「この図書館の、現状維持が決まったよ。縮小案は却下された」
「……え、マジで!?」
一瞬真っ白になった思考が、急速に覚めていく。
「じゃぁ、このまま!?」
飛び掛るように瀬田の胸倉を掴んだ俺は、呆れたような同意に嬉しさがこみ上げる。
「やった! よかった!!」
拳を握り締めて事実をかみ締めるように叫ぶと、大きな手のひらが俺の頭を軽くなぜた。
いつもなら振り払うその行為も、今はなんとも思わない。
瀬田も嬉しそうな表情を浮かべていて、細めた目を俺に向けていた。
「要のおかげだよ。ありがとう」
改まったその態度に、少し戸惑いつつ首元に手を当てて軽く笑う。
「照れる照れる、ね、とーこさんは? とーこさん、今どこにいるの?」
とーこさんに会って、一緒に喜びたい。
彼女もこの図書館を守るために、一緒にいた人だから。
「もう、とーこさんに伝えたの?」
伝えていないなら、俺が伝えたい。
笑顔を、見せてくれるはず――
それまで優しく笑っていた瀬田の顔が、すっと冷えるように無表情になっていく。
それに気付いて、見上げたまま動きを止めた。
「――瀬田?」
「という事で、お前の役目、もう終わり」
「……え?」
冷たい声に、思わず聞き返す。
今まで、聞いた事のない、冷たくて低い声。
「え、どうしたんだよ。ちょ……瀬田?」
動揺を隠し切れず、制服を掴もうと手を伸ばす。
「間宮くん」
その言葉に、手が止まる。
「……瀬田?」
そのままの体勢で瞬きも出来ず、目を見開く。
何度も呼ばれた事のない、他人の前だけで呼ばれる苗字。
突然、目の前に壁が出来たかのような疎外感。
瀬田はにこりと笑うと、もう一度口を開いた。
「間宮くん、今までご苦労様でした。君のおかげで、図書館の存続が決まって感謝しています」
今まで向けられたことのない、外向きの笑顔。
笑っていない目が、その目が他人を見るように俺を見下ろす。
「淺川は図書委員を抜けて、生徒会の下に入りました。もう、ここには来ませんよ」
「え?」
もう、ここには、来ない?
「今までカウンター業務のことがあったから仕方ないと思っていましたが、私の家にはもう来ないでくださいね」
もう……
「淺川も私も来年は受験を控えているんです。二年に上がるだけの君に纏わり付かれるのは、迷惑なので」
抑揚のない、淡々とした声が言葉を紡ぐ。
それは、ナイフのように鋭く、心の中に突き刺さってくる。
「あぁ、この部屋の鍵はここに置いておくから。合鍵だし捨ててしまって構わない」
「瀬田……」
呟いた俺の声に、瀬田はわずかに目を細めた。
「それじゃ」
それだけ言うと、呼び止める声に振り向きもせず部屋を出て行った。
しばらく立ち尽くしていた俺は、閉館の鐘の音に崩れるように床に座り込んだ。
夏に初めて会った瀬田。
会長という顔から素の顔に。
それを見せてくれるテリトリーに、いるものだと思っていた。
それが、大切な図書館を存続させるための演技だったって事?
あの笑いが――
脳裏に浮かぶ、瀬田の家で食べた夕食。
笑いあって、普通に話していた。
あれが……
嘘――?