貴族の庭園で行われた、ある婚約破棄の顛末
それは、何組かの貴族家が招かれた、庭園のパーティで起こった出来事だった。
問題を起こしたのは、マルティナの婚約者エベラルドの幼馴染――フロリタという、厄介な少女である。
豊かな金髪の巻き毛、若草色の美しい瞳、薔薇色の頬。
彼女が身にまとう淡いピンクのドレスは、背中から優雅なプリーツが流れ、繊細なレースが袖口を飾っている。
庭園の薔薇に囲まれた姿は、見た目だけなら純粋無垢な、花の妖精のようだった。
フロリタが砂糖菓子のようならば、マルティナはほろ苦いチョコレートのようだ。
濃い茶色の髪は、左右に整えられた巻き髪にしている。煌めく焦げ茶の瞳と、控えめに結ばれた唇が、静かな気品を感じさせた。
マルティナは大人びて見えたが、フロリタは実年齢より幼く映った。
ただフロリタは、小さな顔に浮かぶ無邪気な表情の裏で、思いのほか強かに状況を量っていた。
彼女の中では、「私はヒロイン」「私は愛されている」「邪魔なのはエヴォ様の婚約者」という三点セットが、疑う余地のない真実らしい。
幼馴染とはいえエベラルドを愛称で呼び続けているのも、その表れだろう。
だからマルティナに対する行動も、実に分かりやすく稚拙だった。
パーティの最中、フロリタの頭から、リボンの髪飾りが外れた。
それは絹糸で織られた繊細な薄紅色の品で、幾重にも重ねられた薄布が、光を受けてやわらかく揺れる。
髪を結う細工リボンとしては、かなり上等なものだった。
フロリタはマルティナの目の前で、そのリボンをテーブルに置き、何事もなかったかのように立ち去った。
マルティナがそれを手に取った、その瞬間。
再びフロリタが現れ、声を張り上げた。
「ひどいわぁ! 私のリボンを盗るなんて……っ!」
その髪飾りが、フロリタのドレスとおそろいであることは、誰の目にも明らかだった。
「その髪飾りは、わたくしのドレスと同じ生地で作られた特注品ですの……っ」
しかし、マルティナは取り乱さない。
「こちらのテーブルに置いてありましたわ。ご覧になっていた方も、他にいらっしゃいますでしょう?」
数人の令嬢が、おずおずと手を挙げる。
「決めつけは、よくありませんわ」
その言葉に、フロリタはすぐさま涙ぐみ、芝居がかった声を出した。
「まあ……ひどいですわ。勘違いをしただけですのに……」
責任転嫁の作法だけは、一人前だった。
極めつけは、マルティナとすれ違いざまの出来事である。
フロリタは不自然なタイミングで、自ら派手に倒れ込んだ。
「いたぁーい! マルティナ様……、ひどいですわ……」
一瞬、周囲が静まり返る。
だが、描かれた不自然な放物線。転ぶ前の、妙に気合の入った動き。
そのすべてが、自作自演であることを雄弁に物語っていた。
目撃者は多数。
しかも全員、同じ目線の高さから、その茶番を見届けていた。
なお、婚約者のエベラルドといえば――
「フロリタが嘘をつくはずがないだろう! マルティナ。君が謝るまで、僕は君と口を聞いてやらないぞ!」
感情のままに声を荒らげ、赤茶の髪を振り乱し、濃い青の瞳で真っ直ぐに相手を睨んでいた。
事実確認、論理、因果関係。
彼はまだ、それを理解できていなかった。
マルティナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。――この不条理に、屈したくない。
「……もう、いいですわ」
静かに、しかし毅然と言い放つ。
「エベラルド様。あなたとの婚約は、今この時をもって破棄いたします。さようなら」
マルティナはフロリタの方を向き、「あなたの振る舞いは見逃せません。あなたの家へ抗議させていただきます」と淡々と告げた。
証拠は揃っていた。
髪飾りについての言いがかり。
そして――「エヴォ様は、わたくしのものですわ!」という、あまりにも直球な宣戦布告。
逃げ道は、最初から存在しなかった。
泣き叫ぶフロリタ。
「だってぇ! わたくしがヒロインじゃないと、おかしいじゃない! ずっと一緒にいたんですもの!」
マルティナが空色のサックドレスを翻し、背を向けたその時。
少し離れた場所で見守っていた一人の少年が、静かに手を差し出した。
夜のように濃い髪が揺れ、そこから覗く瞳は、同じ闇を宿しながらも、どこか冷えた知性の光を帯びている。
「……あんな人たちは放っておいて、僕と遊びませんか?」
彼はこの集団の中で、ひときわ高い評価を得ている存在だった。
年齢にそぐわぬ落ち着いた仕草と物腰が、自然と周囲の視線を引き寄せていた。
「……ええ。喜んで」
その瞬間――
「はい、皆さま。外で遊ぶ時間はお終いですよ。そろそろご両親のところに戻りましょうね」
明るい声が、世界を一変させた。
「はーい!」
先ほどまで激しい人間関係を演じていた面々は、一斉に行儀よく返事をし、それぞれ両親のもとへと帰っていく。
「フロリタさま、あくやく上手でしたね」
「つぎは、僕が婚約はきする!」
芝生の端には、使われていない小さな剣が数本、無造作に転がっていた。
復讐も、婚約破棄も、新しい恋も。
それらはすべて、貴族の邸宅の片隅で行われていた、少し背伸びをした「ごっこ遊び」の一幕に過ぎなかった。
もっとも、当人たちは至って本気である。
フロリタは悔しがり、マルティナは誇らしく、エベラルドは理不尽だと思っていた。
だからこそ――数年後、成長した彼らがこの日を思い出したとき、悶絶しながら枕を殴る「黒歴史」になることは、想像に難くない。
少し離れたテラスでは、ティーカップを手にした大人たちが、その光景を穏やかに眺めていた。
「……あの子たち、ずいぶん迫真の演技ね」
「ええ。最近あった、あの婚約破棄騒動を題材にしているのでしょう」
苦笑まじりの声が漏れる。
「ほら、例の伯爵家の件です。ご夫人のご友人の娘が、まるで我が物顔で屋敷に入り浸っていたとか」
「幼馴染、でしたかしら。令息はそちらばかりを優先して、婚約者を飾り物のような扱いをしていたそうですわ」
「……最初から、その令嬢と縁を結べばよろしかったのでは?」
「家格が釣り合わないからと、より相応しい縁談を選んだ結果だそうですの」
「友人であっても、そのあたりは実に現実的ですこと」
「その娘、『私はヒロインなのよ』などと口にしていたそうですね」
「まあ……」
誰かが、しみじみと息をついた。
「子供というものは、すぐに真似をしたがりますからね」
「ええ。とりわけ――大人が本気で揉めた話ほど」
庭園では、何事もなかったかのように、子どもたちが笑っている。
悪役も、婚約者も、裏切りも――すべてを演じ切った満足感だけを残して。
だが彼らはまだ知らない。
それが実際の貴族社会では、決して「遊び」で済まされない出来事だということを。
夕暮れの庭園に響く声は無邪気で、大人たちの微笑みを誘っていた。




