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マーカーを置いた日

作者: 静原

「ちゃんと説明しているのに、なぜか伝わらない」

「間違っていないはずなのに、手応えが残らない」


そんな感覚を、仕事の中で一度でも味わったことがある人は、

きっと少なくないと思います。


この物語に登場する佐久間は、

声が大きいわけでも、カリスマがあるわけでもありません。


数字には強く、論理も正しい。

それでも、組織が大きくなるほど、不安が増えていく。


変わらなければいけないのは分かっている。

けれど、「どう変わればいいのか」が分からない。


これは、

派手な成功談でも、自己啓発の物語でもありません。


仕事と向き合いながら、

「自分はこのままでいいのか」と立ち止まる、

ごく普通の一人の管理職の話です。


もし今、

「もう少しうまくやりたいのに、うまくいかない」

そんな思いを抱えているなら、

この物語は、あなたのためのものかもしれません。

夜明け前の工場は、音が少ない。


巨大な製造フロアに、機械の低い駆動音だけが規則正しく流れている。

佐久間恒一は、ラインの間を歩きながら、胸ポケットのメモ帳を開いた。

歩留まり、稼働率、改善率。数字は、今日も彼を裏切らない。


「……問題ない」


独り言は、工場の空気に溶けて消えた。

数字と事実の世界にいる限り、彼は安定している。

そこには、迷いが入り込む余地がない。


だが、その安定が、最近はどこか心許なかった。


数日前、人事部からの呼び出しがあった。

「次の組織改編で、佐久間さんには新しい部門をお願いしたいと思っています」

部下は、200名規模。製造技術全体を横断的に見るポジションだった。


「期待しています」

その一言が、胸に残った。


(期待、か……)


帰りの廊下を歩きながら、佐久間は自分の足音を妙に大きく感じていた。

五十名でも、全体の前で話すたびに、どこか手応えのなさを感じている自分がいる。

それが、二百名になる。


(頑張らなければならない)

(だが、本当に――自分に務まるのか)


二つの思いが、胸の中でぶつかり合う。

どちらも否定できないからこそ、余計に重い。


月に一度の全体朝礼。

50名の部下が整列し、視線が一斉に佐久間に集まる。


ホワイトボードには、グラフと数値が整然と並んでいる。

「今月の不良率は0.3%改善しました。設備改善の成果です」


声は落ち着いている。論理も正しい。内容も間違いない。


それでも――部下たちの目は、どこか遠い。

(……伝わっている。だが、残ってはいない)


拍手は、きちんと起こる。

しかし、その音は工場の天井に吸い込まれ、何も残さず消えていく。

五十名の部下が整列する光景が、今日は少し違って見えた。


(もうすぐ、この四倍か……)


そんな折に行われた、「次世代幹部候補研修」。

会議室に集まった九名の顔ぶれは、いずれも将来を嘱望される人材ばかりだった。

誰もが、落ち着いた表情をしている。


(皆、自信がありそうに見えるな……)


佐久間は、無意識に背筋を伸ばした。

研修の中盤、配られた三百六十度評価のシートを見た瞬間、胸がひりついた。


「論理的で安定感がある」

「信頼できるマネージャー」


一方で、

「人前での話が印象に残らない」

「聴衆を引きつける要素が弱い」


(……やはり、そこか)


分かっていたはずの弱点が、改めて形を持って現れる。


しかもそれは、これから最も必要になる能力だった。


講師の言葉が、静かに追い打ちをかける。

「組織が大きくなるほど、1on1では動かせません。人は、”理屈”では動かせません。“感情”で動く生き物です。」


佐久間は、視線を机に向けた。

(今の自分で、本当に大丈夫なのか)

(だが、逃げるわけにはいかない)


焦りと責任感が、胸の中で絡まり合う。


帰宅すると、リビングで小学生の息子が宿題をしていた。

「パパ、これどうやるの?」

佐久間は式を紙に書き、丁寧に説明する。

だが息子は首を傾げたまま。


すると、妻が横から言った。

「それね、“なんでそれをやるのか” を先に言ってあげたら?」


佐久間は一瞬、言葉を失う。

妻は続ける。


「あなた、仕事でも同じじゃない?正しいことは言ってるけど、“想い”を言わないわよね。いつも。。。」


何気ない言葉。

その一言は、昼間の評価シートと不思議なほど重なった。


風呂上がり、昔の手帳をめくる。

若手時代、尊敬していた元上司・山岡部長の言葉が書いてあった。


「管理職はな、“正解”を言う人じゃない。“一緒に進みたくなる理由”を語る人だ」


あの人の朝礼は、数字の前に必ず一つの話があった。

失敗談。現場での気づき。誰かの名前。


(……俺は、あの人みたいになりたかったはずだ)


佐久間は分かっていた。

少なくとも、頭では。


「理屈だけでは、人は動かない」


研修で言われたことも、評価シートに書かれていた言葉も、妻からの言葉も、すべて、正しかった。


(分かっている)

(……分かっている、はずだ)


問題は、その“先”だった。


佐久間は書斎にこもる。

パソコンの画面には、朝礼用の原稿が開かれている。


「想いを語る」「エピソードを入れる」「自分の言葉で話す」


研修で配られた資料のメモが、横に並んでいた。


だが、キーボードに指を置いたまま、佐久間は動けなくなる。


(……どうやって?)

想いとは、何だ。自分の言葉とは、どこにある。


気づけば、またいつもの構成に戻っている。

結論、根拠、施策。三点セット。

(結局、これしかできないんじゃないか)


原稿を閉じ、天井を見上げる。

(俺は、そういう人間だろうか)


感情を前に出すのが得意なタイプではない。


学生時代も、声の大きい人間の後ろに立っていた。

管理職になれたのは、正しさと安定感のおかげだ。


(今さら、キャラを変えろと言われても……)


二百名の部下がこちらを見ている様子が、ぼんやりと浮かぶ。

(この性格で、本当に引っ張れるのか)


胸の奥に、焦りが滲む。


翌日、工場を歩きながら、佐久間は意識的に周囲を見るようにした。


若手が設備の前で悩んでいる。

ベテランが、黙ってフォローに入る。


(……俺は、こういう場面で何を感じている?)


自分に問いかける。

だが、答えは言葉にならない。


(感じてはいる。だが、話すほどのものじゃない)


そう思ってしまう癖が、すぐに顔を出す。


昼休み、研修で一緒だった同僚と話す機会があった。

「佐久間さん、もう朝礼のネタ考えました?」


軽い口調に、少し救われる。


「いや……分かってはいるんだが、どう変えればいいのかが分からなくてな」


同僚は少し考え、こう言った。

「変えなくていいんじゃないですか。“盛ろう”とすると、余計に嘘っぽくなりますし」


その言葉が、意外なほど胸に残った。


その夜、息子の話を聞く。

学校での出来事を、取り留めもなく話す。


オチもない。


だが、なぜか、自然と耳を傾けている自分がいる。



(……これでいいのか)

ふと、思う。


感情を“語ろう”としていたから、難しくなっていた。

語るほど立派なものじゃない、と決めつけていた。


(事実を、感じたまま話せばいいのかもしれない)


朝礼の原稿を見直す。

派手なエピソードも、感動的な言葉もない。

ただ、現場で見た一つの出来事。

そこで自分が感じた、小さな違和感と誇り。


それを、無理に整えず、そのまま残す。


(これなら……俺でも話せる)

そう思えた瞬間、少しだけ、肩の力が抜けた。


朝礼直前。ホワイトボードの前に立つ。

いつものようにマーカーを手に取る。書こうとした瞬間、手が止まる。

(書くと、また“説明”になる)


今日は、説明しなくていい。“伝えよう”としなくていい。

(感じたことを、そのまま置けばいい)


佐久間は、マーカーを下ろした。



朝礼。

ホワイトボードは、真っ白だった。

「今日は、数字の話はしません」

自分の声が、意外なほど落ち着いていることに、佐久間自身が驚いた。


人の話。想いの話。

視線が集まるのを、確かに感じる。


朝礼後、工場を歩く。

機械の音は相変わらず低く、静かだ。


(不安が消えたわけじゃない)

(でも、向き合う覚悟はできた)


佐久間は、ゆっくり息を吐く。


「……もう少し、頑張ってみるか」

その声は小さい。


だが、確かに以前より、前に進んでいた。


佐久間は、最後に「変わった」わけではありません。


感情豊かな語り手になったわけでも、

カリスマ的なリーダーになったわけでもない。


ただ、

「説明しようとする自分」と

「感じている自分」を、

初めて同じ場所に立たせただけです。


それは、とても小さな一歩です。


けれど、多くの人が踏み出せない一歩でもあります。


人は、正しさだけでは動かない。

けれど、感情だけでも続かない。


その間にある、言葉になりきらないものを

どう置いていくのか――

この物語は、その問いを投げかけています。


もし読み終えたあと、

「自分も、少しだけ話し方を変えてみようかな」

そう思えたなら、


この物語は、あなたの中で静かに役目を果たしたのだと思います。


答えは、いつも派手ではありません。

けれど、前に進む理由は、案外身近なところにあるのかもしれません。

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