5 過去編:死の権化・禍身(マガツミ)。
よすがの戦う姿を、一度だけ見たことがある。町を五体の巨大な獣型の禍身が襲撃した時のことだ。孝里はその時、瑞里のお見舞いのために家を出ていた。突如鳴り響く警報と、筆舌に尽くし難い咆哮、一拍遅れの人々の絶叫と悲鳴が、まず聴覚を襲った。
見える恐怖よりも、見えない恐怖の方が不安を煽った。立ち竦んで音の方角を凝視するしか出来ない孝里を、鳶職の若い男が抱えて地下避難シェルターまで逃げ込んでくれた。
シェルターには大勢の人々で犇めいていた。鳶職の男は、孝里が潰されてしまわないように抱きかかえてくれたまま、奥へと進んだ。
「怖い」
「家族と逸れた」
「退獄師はいつ頃到着するんだ?」
「すごい咆哮だったな」
不安、恐怖、緊張――それらが混ざり合って、雰囲気が淀んでいる。
しかし、騒々しさはすぐに失われた。地上から伝わってくる禍身の振動がシェルター内から声を奪ったのだ。雨音のような振動、這いずるような振動。地下まで伝わるなら、それは巨大な体格なのだろう。地上の禍身から姿は見えていないことはわかっている。だが、誰しもが息を押し殺し、最大限気配を消すよう努めた。
瑞里のことが心配で仕方がなかった。病院の地下にも避難シェルターは備え付けられているのだが、動けない患者はベッドで移送するので廊下が埋まって混雑する。
幸い、禍身の出没地であるこの場所と病院は少し距離が離れている。だが、禍身が患者の命を喰らいに向かわないとも限らない。そうなれば、逃げ遅れた患者たちは食い殺されてしまう。
避難者たちは、地上の様子を中継するモニターに釘付けになった。蜈蚣と蛞蝓の姿の禍身が、画面に映っている。
蜈蚣の禍身の百本の足は腕で、アスファルトの地面を平手で叩くように歩行している。所々拳を握っており、人間を捕まえているのがわかった。男の顔をした頭が近付き、縦に割れた黒い牙が並ぶ口の中に投げ込んでいく。額から生えた触角のような長い腕が踊りの振り付けのようにしなっていた。
蛞蝓の禍身は全身の皮がずるむけて延び、アスファルトに赤い粘液を擦り付けながら移動している。腸か血管かも判別つかない太い管が引き摺られていて、赤混じりの液体と共に、溶けた人間が排出されていく。蛞蝓の元の性別が男が女かは分からない。頭の皮も剥け、鼻は削げ、唇は無くボロボロの歯が歪に並んでおり、白い眼球は充血している。
どちらとも醜悪な姿だ。鳶職の男が、震える孝里の背中を宥めるように叩いた。
――細い影が、画面の端から伸びている。人影だ。避難に遅れたのだろうか。しかし、その人影は、あまりにも呑気なスピードで前進――禍身へと接近している。
やがて、全貌が露わになった。肩から下げたエコバッグから、ネギが飛び出ている。明らかに買い物終わりの主夫だった。孝里は、そのエコバックに見覚えがあった。三人の人物の似顔絵と、上部には「おとうさん だいすき」の拙い文字が書かれている。子供が描いたメッセージ付きの似顔絵をプリントしたエコバッグだ。
似顔絵は、大きさからして大人の男と男女の子供。半月切りのスイカのような赤い口と、黒い虹のような目で笑っている。
恥ずかしいから持ち歩かないで、と抗議しても、嬉しそうに笑って未だに使い続ける、世界でひとつだけのそのエコバッグの持ち主など、孝里が知る限り、たった一人しかいない。
「お父さん」
孝里が呆然と呟いた瞬間、人影もとい、主夫であり父――日澄よすがは、エコバッグを肩から降ろし、所有者が避難で不在となっている軽自動車の中に置いた。
車のドアの開閉音で、禍身は振り返った。そこによすががいるのに気付くと、互いを押し合い妨害し合いながら突進していく――捕食される!
「お父さん!! 逃げて!!」
孝里は泣き声で叫んだ。だが、画面のよすがは至って平淡――むしろ、気怠そうな顔で猛進してくる禍身を見上げている。
蛞蝓の禍身が押し退けられ、コンビニに覆い被さるよう倒れた。蜈蚣の禍身が長い腕の触覚を振り上げた。
よすがの左手が軽く握り込まれ、そして唐突に一振りの黒と赤い鞘の太刀が出現した。
「お母さん……」
その太刀は――干戈は、双子の母であり、よすがの妻・日澄美縁ノ太刀だった。