3 退獄会社 鈴ヶ谷-憧れ。
「んじゃ、次はオレだな。ジジイ、竹刀寄越せ」
やる気を漲らせた秀作がベンチから立ち上がり、孝里に手を差し出した。
「えぇ? もう夕方だぞ。俺は退勤時刻ですぅ」
安西は秀作とは真逆で、すでに萎えて草臥れた様子を見せている。孝里は空を見上げた。先ほどまでの打ち合いを始めた時は、まだ夏らしい青空と巨大な入道雲が色濃く広がっていたが、今では薄くオレンジがかった薄水色で、雲は白と灰色を混ぜている。
安西の気のない反応に、もちろん秀作は目を尖らせた。孝里の手から竹刀を奪い取り、切っ先を突き付けて烈火の如く怒りを露わにする。
「はあ!? ジジイの方が鍛錬の回数多かっただろうが!」
「一回だけだろっ」
「贔屓じゃねえか!」
「バっカタレ。 四か月後には、孝里の退獄師養成学校入学実技試験があるんだぞ。筆記試験よりも第地団駄。力入れとかなきゃなんねえだろ」
「オレだって受けるんだぞ!」
「中三になってからな。お前まだ小六のガキじゃん」
「成長するのに早いに越したことねえだろうが!」
「まずは孝里が優先だ!」
言い合いが始まってしまった。このふたりの喧嘩はすでに慣れたものだが、その内容が自分に関係しているという肩身の狭さに肩が重くなってわずかに沈んだ。そんな孝里の背中に何者かが抱き着く。首だけを振り返らせると、日華だった。さらにその後ろから。宮地がニコニコと笑いながら歩いてくる。
「お兄ちゃん、お疲れ様!」
「わ、日華ちゃん、ありがとう。僕、臭くない? 汗すごくかいてるんだけど……」
「大丈夫! それにしても、お兄ちゃんってすごいよね。お父さん、あんなんだけど乙一級なんだよ? 一撃当てられたら、甲三級じゃない!」
甲等級への昇格は狭き門だ。たとえ安西に一撃を喰らわせることができたとしても、簡単に甲三級に上がれるような杜撰な評価はされない。そして、甲三級は甲等級に中でも最下であり、甲のトータルで見るともちろん退獄師の人数は多いのだが、そこに至るまでに、大勢の退獄師は殉職するか、死を恐れたり後遺症を背負ったりと様々な要因で退職する。
宮地が近寄って来て、
「アンタ、才能あるんじゃないの?」
と言ってペットボトルを渡してくれた。中身は水だ。孝里は有難くそれを受け取って、キャップをパキッと開けた。
「才能なんて、そんな……目指す目標が明確に決まってるので、よそ見することも迷うこともなく、一直線に努力できたから、みんなが褒めてくれるくらいには強くなれたのかも。鈴ヶ谷のおかげですよ。僕に環境を与えてくれたし、何よりも協力してくれる」
「ふふ、謙虚ねえ」
宮地は機嫌よく笑った。
「秀ちゃんね、ずっとお兄ちゃんの動きを観察してたんだよ。お父さんじゃなくて」
「え?」
「お手本にしてるんだよ。だから、今日の何個かの動きは、お兄ちゃんに似せた感じだったし」
まさか、秀作が自分をお手本にしているなんて思ってもみなくて、孝里は目を丸くした。
「秀ちゃん、お兄ちゃんに憧れてるんじゃないかな。年も近いし、一番身近な目標、みたいな」
「そ、そうかなあ」
純粋に照れる。案外想われているようで、孝里は照れ臭さの次に嬉しさを感じていた。顔を綻ばせていると、孝里の微笑ましい眼差しに気付いた秀作が鵜舌打ちを放った。ヂッ。まだまだ可愛い盛りの小学六年生が放ってはいけない、凶悪な音だった。
「何笑ってんだよ、ジジイ」
「しゅっ、秀作君が僕のことを応援してくれてたって聞いて、嬉しくてさ……」
「あ゙あ゙?」
「どうしてそんなに凄み方がプロなの……」
小学の秀作に気圧される、戦闘職退獄師志望の中三の孝里。あまりにもの威厳の無さに、安西父娘が同じ呆笑を浮かべた。三年前に出逢った頃はまだ優しさがあった。七年前のショックから立ち直れず沈鬱の闇のような日陰に生息していた孝里を、鮮やかに世界を照らす日向へと日華と一緒に腕を引っ張って連れ出してくれた。当時を想起して、しかし言動は今とそう変わらないことに気付いた。否、ほんのわずかにマシだったような記憶が滲むような……しかしまあ、三年前から現在に至るまで、孝里は秀作に敵わない。
「テメエなんかが退獄師になれるわけねえだろ! もしもなれたとしても、初陣で殉職が関の山だ! 身の程を知れや、このクソジジイ! 叶わねえ夢にオレの時間潰してんじゃねえ!」
「ぐぅっ。日華ちゃん、秀作くんって本当に僕を憧れの対象にしてくれてるのかな? 全然そうは見えないんだけど……」
「……は?」
気配が冷めた。相変わらず身体中に纏わりつく空気は煮え湯のような湿気を含んだ灼熱なのに、秀作はまるで氷の槍のような怒気を放ち、敵意まで込めて孝里にぶつけている。今まで、何度も秀作の怒りを買った経験がある(理不尽な理由がほとんどだが)でも、この秀作の怒り様は初めて見て、そして初めて宛てられた類だった。
「しゅ、秀作くん?」
「秀ちゃん?」
「おい、秀作……」
孝里も安西父娘も戸惑いを隠せなかった。観客たちも、いつもとは違う怒りの様子を凝視していた。
「憧れ? テメエなんかが、オレの憧れ?」
どうやら、気に障ったのは「憧れ」という部分らしい。
「一緒にすんなよ、こんな才能があるだけの情けない奴と」
「……秀作、そりゃ一体、どういう」
安西の言葉尻を蹴飛ばすように、秀作の怒鳴り声が噴出する。
「欲しい干戈があるからって退獄師を目指してるってだけの情けない理由が、オレはずっと気に喰わなかった!」
孝里は絶句して色をなくし、安西は色を成した。叱りつける声音で、さらに語気を強める。
「何だと!? 秀作お前、孝里がどんな思いでその干戈を求めているのか知らないからそんなことを」
「そりゃそうだろ、知るわけねえよ! 何も訊いてないんだ、おっさんたちがオレに隠すから! 欲しい干戈が双子の片割れってことしか知らねえよ!」
「そ、そりゃ……」
安西の怒りは失速し、たじろいで孝里に目配せをする。孝里は目を横に一振りすることさえできず、ただ肺と肋骨を殴りつける激しい動悸に打たれ続けることしかできなかった。
秀作はさらに続ける。
「双子に再会したいだけって、それだけの理由なら、このジジイは絶対にそれだけで満足する!戦えるのか!? 大事な大事な片割れを使って、禍身と!」
「……しゅ」
「退獄師としての才能があっても、それに努力を重ねても、一番の目標はそれなんだろ! だったら……ならよぉ……」
声がどんどん震えていた。怒りのせいだけではない。その中には、悲しみも込められていた。秀作のそんな弱々しい声を聞くのは初めてだった。
「才能があるんなら! 努力しねえと成長出来ねえ奴の邪魔すんじゃねえよ! オレは、親の仇を討つために退獄師目指してんだよ! ――日澄よすがを殺すために!」
その場にいた全員が、その日、天空を侵食した終焉の赤色ことを思い出した。
令架地獄顕現災害。七年前、地獄は日本の短野県に顕現した。人為的に地獄と現世を直通する巨大な門が建てられ、そこから数多の禍身が脱獄し、現在も多くの人命を屠り続けている。獄顕現は時々発生させられ、その規模は大小様々だ。退獄機構が迅速に対応し、現世の完全なる地獄化は妨害されている。
しかし、その日は違った。
令架地獄顕現災害は、世界観測史上最大最悪規模の範囲となり、甚大被害を及ぼした。日本全国の退獄師が顕現地である短野県に集結し、大多数の死者・行方不明者の犠牲と、負傷者たちの命懸けの活躍によって終息した。この災害級事件の首謀者は日澄よすが。彼は、擬神信奉集団テロ組織【斎場衆】と、この事件を企てた。
――奴らは、現世に神を呼びこんだ。地獄の亡者たちによって祈りを捧げられて神格を得た、擬えの悪しき神を。
そのせいで、被害がさらに増幅したといっても過言ではない。生者の全滅の祈りを根源として創り出された擬神の力は絶大かつ強大で、何百人もの退獄師が犠牲になった。
日澄よすがは、鳳越響を含める甲一級以上の退獄師との死闘の末、拘束されたものの、処刑の直前に斎場衆から身柄を奪取されたという。
鈴ヶ谷秀作の両親がこの地獄顕現災害の際に招集され、そして殉職した。秀作は以来当然、地獄を、禍身を、斎場衆を、そして日澄よすがを殺したいほどに憎悪している。
「何でテメエ、ここに来た!? よりによって、鈴ヶ谷に! ――……テメエなんか、来なければよかったんだよ!」
全身全霊で怒鳴り付けられたその瞬間、ショックを受けて目を見開いたのは秀作だった。安西父娘も宮地もその他の観客も、言葉を喉の奥で凍り付かせていた。薄黒くて重たい沈黙の中に沈む。
「……ご」
孝里は、沈黙よりもさらに重い一粒の言葉を落とした。
「ごめんね」
無理に明るく取り繕った声音が痛々しい。
あ、こんな反応じゃだめだ。孝里は失敗を悟って表情を崩した――秀作には、孝里が今にも泣き出しそうに見えて呆然とした。心の底から本気で思う悲しみに染まるその顔を初めて見て、酷く、深く、こちらが泣きそうなほどに後悔した。
「秀作ッ!!」
安西の怒号に肩を震わせた秀作は、歯を食いしばって竹刀を地面に叩き付けると走り出した。通り抜け様に見えた横顔には涙が浮かんでいて、孝里は咄嗟に手を伸ばしたが、すでにその背中は遠く、小さくなった。




