3 小さい背中
「【禍身】相手に足を失っちまえば、すぐに喰い殺されちまうぜ」
禍身。生前に悪行を成し、堕獄した者たち。だが一般的に亡者と呼ばれるその存在が、名を変えて禍身と呼ばれている由縁は、禍身が地獄から脱獄を果し、植物も獣も人間も――生きとし生ける者の生魂を喰らう存在にまで禍々しく身を堕としたことからなる。
禍身による被害は、国内だけでも年間死者数が一万人以上にも及ぶ。生存本能による食欲に旺盛であり忠実で蒙昧。しかし、食った魂……特に人魂の数が多いほどに人間らしい知性を取り戻すものの、理性で行動することはない。そして人魂を喰うことで得るものはそれだけではない。力までも増幅させ、異能を操るようにもなる。
何よりも最も最悪なのは――禍身によって破壊された魂は、輪廻にのサイクルに加わることができなくなる。つまりそれは、転生できないということだ。
命は何度も生の機会が与えられる。肉体が死亡しても、魂は前世を終えて現世を生き、来世へと進み、そうやって廻り生き続けるものだ。だがそれを強制的に破壊されてしまう。それは、完全なる死だ。何も残らず、次という希望までもを奪われてしまう。
凡人では到底敵わない。機関銃や戦車でも足止め程度にしか及ばず、最も有効的に殺傷できる武器こそが干戈なのだ。
禍身は異形と化した剥き出しの魂そのものだ。そして干戈も、武器と化した剥き出しの魂。性質の近いモノ同士をぶつけ合い、生き残りをかけて死闘を繰り広げる。
そんな禍身を干戈を振るって討伐し、完全なる魂の破壊をもたらして生者と現世を守衛する存在こそが退獄師である。当然、殉職率は高い。しかし、国や生者のために命を懸けて戦う退獄師はヒーローで、テレビ越しに見る子供たちの憧れの職業だった。
鈴ヶ谷秀作も、またその一人。特に、両親が退獄師なために、より一層憧憬は強かった。
「んじゃ、次はオレだな。ジジイ、竹刀寄越せ」
やる気を漲らせた秀作は立ち上がって孝里に手を差し出した。
「ええ? もう夕方だぞ。俺は退勤時刻ですぅ」
しかし安西は真逆で、すでに萎えて草臥れた様子を見せている。孝里は空を見上げた。安西との打ち合いが始まった時は、まだ夏らしい青空と入道雲が色濃く広がっていたが、今では薄くオレンジがかって、雲も灰色だ。逢魔が時である。
秀作はもちろん目を尖らせた。孝里の手から竹刀を奪い取り、安西に突き付けて烈火のごとく怒りを露わにする。
「はあ!? 今日はほとんどジジイばっかりが相手してたじゃねえか!」
「当たり前だろ。四か月後には、孝里の退獄師養成学校入学実技試験があるんだからよ」
「オレだって受けるんだぞ!」
「中三になってからな。お前まだ小六のガキじゃん。猶予あるじゃねえかよ」
「成長するのに早いに越したことはねえだろうが!」
この二人の言い合いはすでに慣れたものだが、その内容が自分に関係することであるという肩身の狭さに身体が重くなった。確かに、今日はほとんど自分が打ち合いをしていた。そんな孝里の背中を、寄り添った日華がそっと撫でてくれる。
「でも、お兄ちゃんってすごいよね。お父さん、あんなんだけど乙一級なんだよ?」
甲・乙・丙の主要等級に一・二・三と序列が振り分けられたものが、退獄師や干戈、そして禍身の強さを証明する等級だ。大雑把に概要するならば、甲は上級、乙は平均、丙は見習いや弱小を意味する。
乙一級は甲三級に一番近い。いわば、強者の一つ手前の位置づけだ。まだ退獄師見習いでもない、専門的な知識も浅く実戦経験も無い孝里が拮抗している光景に驚くのも無理はない。
「初めて対人稽古を見てた時から思ってたけど、孝里はどうして、《《戦い方を知ってるの?》》 お父さんから習ってた?」
宮地の質問に返せるのは苦笑だけだった。
「う~ん。父さんから習ったことはありません。ここで初めて、刀の振るい方を習いました」
「あら、そうなの? なら、やっぱり才能かしらね」
「才能なんて、そんな……目指す目標が明確に決まってるから、よそ見することも迷うこともなく、一直線に努力できたから、みんなが褒めてくれるくらいに強くなれたのかも」
「謙虚ねえ」
宮地は口を袖で隠しながら笑った。
「訓練、頑張ってるもんね……秀ちゃん、今日はお兄ちゃんの動きをずっと観察してたんだよ」
「え?」
まさか、秀作が自分をお手本にしているなんて思ってもみなくて、孝里は目を丸くした。
「秀ちゃん、お兄ちゃんに憧れてるんじゃないかな。年も近いし、一番身近な目標、みたいな」
「そ、そうかなあ……」
案外想われているようで孝里も嬉しくなった。顔をほころばせていると、孝里の微笑ましい眼差しに気付いた秀作が怒りの舌打ちを放った。ヂッ。まだまだ可愛い盛りの小学六年生が放っていけない、凶悪な音だった。
「何笑ってんだよ、ジジイ」
「しゅっ、秀作くんが僕のことを応援してくれてたって聞いて、嬉しくてさ……」
「あ゛あ゛?」
「どうしてそんなに凄み方がプロなの……」
小六の秀作に気圧される中三の孝里。あまりにもの威厳のなさに、安西父娘が同じ呆笑を浮かべた。三年前にであった頃はまだ……と過去を思い出して、今とそう変わらないことに気付いた。つまり、三年前も現在も、孝里は秀作に負けている。
「テメエなんかが退獄師になれるわけねえだろ! 身の程を知れや、この充血ネズミジジイ! 叶わねえ夢に時間費やしてんじゃねえよ!」
「ぐぅっ。日華ちゃん、秀作くんって本当に僕を憧れの対象にしてくれてるの? 全然そうは見えないんだけど……」
「……は?」
気配が冷めた。相変わらず身体中に纏わりつく空気は灼熱なのに、秀作はまるで冷気のような怒りを放ち、敵意と怒気を盛って、孝里にぶつけている。今まで、何度も秀作の怒りを買った経験がある(理不尽な理由がほとんどだが)でも、この秀作の怒り様は初めて見て、そして初めて宛てられた類だった。
「しゅ、秀作君?」
「秀ちゃん?」
「おい、秀作……」
孝里も安西父娘も戸惑いを隠せない。観戦客たちも、秀作のいつもとは違う怒りの様子を凝視していた。
「憧れ? テメエなんかが、オレの憧れ?」
気に障ったのは「憧れ」――それも、秀作が孝里に憧れているという部分らしい。
「一緒にすんなよ、こんな才能がある情けない奴と」
「……秀作、そりゃいったい、どういう」
安西の言葉尻を蹴り飛ばすように、秀作は怒鳴った。
「欲しい干戈があるから退獄師目指してるって情けない理由が、オレは気に食わねえ!」
孝里は絶句した。安西が叱りつける声音で語気を強めた。
「何だと!? 秀作、お前、孝里がどんな思いでその干戈を求めてるのか知らないからそんなことを」
「知るわけねえよ! 何も訊けてねえんだ、おっさんたちがオレに隠すから! 欲しい干戈が双子の片割れだってことしか知らねえ!」
「……そ、そりゃ……」
安西が急速に勢いを無くし、顔面蒼白になっている孝里に目配せをする。孝里は、目を横に一振りすることさえできず、ただ肺と肋骨を殴りつける激しい動悸に打たれ続けることしかできなかった。
秀作はさらに続ける。
「双子の妹に再会したいだけって理由なら、このジジイは絶対にそれだけで満足する! 退獄師としての才能があっても、一番の目標はそれなんだろ!? だったら……なら……!」
声が震えていた。秀作のそんな弱々しい声を聞くのは初めてだった。
「才能あるんなら! 努力しねえと成長出来ねえ奴の邪魔すんじゃねえよ! オレは、親の仇を討つために退獄師目指してんだよ! ――日澄よすがを殺すために!」
令架地獄顕現災害。九年前、それは、人為的に現世へと齎された。地獄顕現は時々発生させられ、その規模は大小様々だ。退獄機構が迅速に対応し、現世の完全なる地獄化は号外されている。地獄を現世と直通する門が建ち、そこから数多の禍身が脱獄する。だからこそこの世界は禍身が存在しているのだ。
だが九年前のその地獄は、世界観測史上最大最悪規模の範囲となり、甚大な被害を及ぼした。日本全国の退獄師が集結し、大多数の死者や行方不明者の犠牲と、負傷者たちの活躍によって終息した。この災害級事件の首謀者は日澄よすが。彼は、集団テロ組織【斎場衆】とこの事件を企てた首謀者とされている。
拘束され処刑が決行されたものの、正義の刃が首に振り下ろさた瞬間、斎場衆から身柄を奪取されたという。
鈴ヶ谷秀作の両親が、この地獄顕現災害の際に招集され、そして死亡した。秀作は、地獄を、禍身を、斎場衆を、そして――日澄よすがを殺したいほどに恨んでいる。
「何でお前、ここに来た!? よりにもよって、鈴ヶ谷に! ――……お前なんか、来なければよかったんだ!」
全身全霊で怒鳴り付けたその瞬間、ショックを受けて目を見開いたのは秀作だった。日華も安西も、他の観客も言葉を喉の奥で凍り付かせていた。重たい沈黙の中に沈む。
「……ご」
孝里は沈黙よりもさらに重い一粒の声を落とした。
「ごめんね」
無理に明るく気取った声音が痛々しい。
秀作は歯を食いしばって竹刀を地面に叩きつけると走り出した。横顔に涙が浮かんでいて、孝里は思わず腕を伸ばしたが、すでにその背中は遠く、小さかった。
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