43 匣入り娘―ユウという少女
――起きて……。起きて、孝里。
「……ッ」
孝里は今にも爆ぜそうなほどに激しく鳴る第二の鼓動の衝撃によって、まるでAEDの電気ショックを受けたかの如く激しく覚醒した。髪を掴んで引き上げられるかのように意識が乱暴に上昇し、インフルエンザに罹った時の何倍も酷い頭痛の連打に、意識が再び沈没しそうになるのを堪える。あまりにもの激痛に、意識がブラックアウトとホワイトアウトの間際を行ったり来たりしている。
辛うじて意識を保っている。目を開いているようだが、視界が霞んでいて何が見えているのか全く分からない。そして、疑問は視覚に関してのものだけではなく、聴覚に関することにまで及んでいる。
名前を呼ばれたような気がした。少女の声だったはずだ。近くに誰かいるのだろうか。第二の鼓動が激しく反応していることから、悪穢を察知していることは間違いない。少女の声が幻聴という可能性もあるが、もしも禍身が放った誘引であれば苦痛をおしてでもどこかに逃げ込まなければならない。
そもそも、ここはどこなんだろう。僕、今まで何をしていたんだっけ。
何重にもぼやける視界。徐々にピントが合って来て、程なく逆さまになった少女が目に入った。
「――瑞里……? いや、僕……?」
一瞬、瑞里と見紛い、そして自分と鏡合わせになっているかという錯覚に陥った。すぐに「違う」と思考を掃う。素早く一瞥すると先程勘違いしたように、孝里と瑞里に似た特徴を捉えることができる。しかし、思ったよりも自分達に似ていない。ちゃんと見てみれば他人だ。
顔の距離が近いので、顔立ちの細部がよく見える。一概に美少女と評されるだろう。不健康そうな肌は色白というよりも生白い。烏の羽のような睫毛が目元に濃い影を落としている。漆黒の虹彩の中には、よくよく見れば朱殷が混じっているようだ。
「違うよ。……ユウっていうの」
あどけなさを感じる柔らかな声音は好意的だ。何故、そんな感情を自分に向けられているのか、孝里には当然、皆目見当もつかない。
孝里は未だに朧げな意識の中で感じた違和感を問いかけることにした。
「……どうして、君は逆さまなの?」
「ふふ。孝里がユウのお膝を枕にしてるから」
「え?」
ゆら、と顔を近付けたユウの言葉が信じ難くて、孝里は瞬く間に硬直した。
確かに、厚く柔らかな感触を後頭部の下敷きにしている。そして逆さまになったユウの顔に、彼女が嘘偽り無い事実を述べているのだとようやく把握した孝里は、驚愕と動揺の勢いに身を任せてバネの如く上体を跳び起こした。
「うっ‥…!?」
脳を焼き焦がすような激痛に、再びユウの膝の上へと軌道を戻す。冷たい掌が額にそっと添えられる。それが痛みを少し紛らわせてくれた。孝里は感謝を伝えたかったが、あまりにもの激痛に耐え切れぬ呻き声ばかりが洩れた。
「大丈夫?」
「頭、が……っ! 何で、こん……な……!」
懸命に声を絞り出す。どうして、こんなにも痛むのか。そもそも、ここはどこで、どうして自分はこんな所で美少女に膝枕で介抱してもらっていたのか、全く思い出せない。それなりにとんでもない理由があるはずなのだが、痛みが経緯を思い出そうとしても掻き消してしまうのだ。
第二の鼓動が負けじと胸内を打ちまくる。危険を報せている。自分を守ろうとしている。しかしその激しさが不安と緊張を喚起し、自分の心臓まで呼応して、体調は最悪極まりない。
無理矢理思い出そうとする程、まるで拒むかのように更なる激痛を齎す。
「無理に思い出さなくていいよ。ユウが教えてあげる」
ユウの声は頭痛に霞む思考の中に浸透していき、孝里は言われた通りに無理矢理記憶を抽出することをやめた。すると、わずかばかりではあるが頭痛が引いたような気がする。
「ここはね、釈魂永楽会のホールの近くだよ」
「立入禁止場所じゃないか……」
ますます疑問だ。どうしてこんな所にいる?
性懲りも無く経緯を思い出そうとする前に、ユウの声が先を越した。
「カイがね、ユウ達をここまで送ってくれたんだよ!」
「……カイ?」
中学時代の同級生や後輩、そして上級生にカイという名の人物がいた覚えがある。男に多い名で、珍しくはない。しかし、ユウが言うカイという人物は、確実に孝里の見知らぬ人物の名だった。
「うん。カイはね、ユウと一番仲良しのお友達なんだよ。いつも、ユウの行きたい所に連れて行ってくれるの。今もそうなの。意地悪な時もあるけど、とっても優しいの!」
天真爛漫に華やいだ笑顔で、ユウは友を誇った。カイという人物とはとても仲の良い男友達の間柄なのだろう。
割れて鋭利な刃となっている窓ガラスから、灰色の仄暗い光が差し込んでいる。廃墟なので電気は当然通っていない。鈴ヶ谷の退獄師が定期的に巡回しているが、もちろん清掃する事などないので湿った埃やカビ、吹ざらしの窓から入り込んで枯れた葉っぱ等が散乱している。日中であるにも関わらず不気味な雰囲気を醸し出していた。周囲には誰もいないので、カイはここにはいないらしい。探すように視線を動かした孝里に、ユウは付け加える。
「カイは今ね、こにはいないよ。オモカゲとね、悪い人達の足止めをしてるの」
オモカゲというのが人の名なのであれば、随分と不思議だ。もしかしたら、偽名なのかもしれない。孝里はそう思いつつも、一番引っ掛かったワードを口に出した。
「悪い人?」
「うん」
ユウは深刻そうな顔をした。それでも表情は愛らしいが、目の奥に冷徹な光がギラギラと滾っている。
「――孝里と瑞里を会えなくした人達」
「……?」
ユウの口振りに違和感を覚えた孝里は、如何様にして離れ離れになったのかを思い返した。瑞里は十年前、父である日澄よすがが起こした地獄顕現災害の際に、よすがによって干戈へと転生した。人を斬り、孝里を刺し、そのせいで忌蔵に封印されて、孝里と離れ離れになった――そのはずだ。これが一連の出来事だ。そして当時、瑞里を回収した退獄組織は……黎明社だ。
その瞬間、続々と情報が沸き上がり、孝里の脳はパンクしそうだった。ビデオの巻き戻しのように記憶が甦っていく。
赤い枠と、その先にかかるノイズの光景。赤い狗の面の集団に襲われて、応戦に残る蛍石の玉簪を挿した男。赤い彗星。鈴ヶ谷に集結した青猿の面……遡って遡って、やがて行き着いたのは、廃工場で出逢った孔雀青の眼差しと、左目を縦断する傷跡を刻んだ美貌の男だ。
鳳越さん。
再び記憶を早送りし、現状に至る経緯を組み上げていく。そして孝里は思い出した――自分は、影倚と別れた転移枠のノイズを潜った先がこの場所だったと。
奏士郎とははぐれてしまったのだろうか。しかし、このユウという少女とは、一体どこで邂逅したんだったっけ。孝里が考え悩んでいると、ユウが言った。
「嬉しいね、孝里」
「?」
主旨が分からず首を傾げると、ユウも同じように首を倒した。
「やっと瑞里に会えるよ」
「――っ」
孝里は唐突に、あることに気付いてゾッとした。呼吸が詰まり、やっと平常に戻ろうとしていた自分の心拍が音を体内に響かせるほどに高鳴り始める。
――この子はどうして、僕と瑞里の事を知っている?
一度目は気付かなかった。このユウという少女への警戒心は今の今まで全くの皆無だったので、彼女か瑞里の名を出した事に何の違和感も抱かず当然のように受け入れてしまっていた。
だがこの二度目、孝里の鈍感は砕かれた。
鈴ヶ谷が孝里と瑞里の関係を知っているのは自分が説明したからで、黎明社と禍狩が知っているのは、日本の二大巨頭たる退獄組織としての情報把握義務と、十年前の主戦力を担った当事者であるからだ。
そしてあと一つ、黎明社と禍狩と三つ巴を描く巨大な組織がある。その組織は、この国で最も危険で巨大であるにも関わらず、たったの一度も本拠地と首魁を暴くことことが出来ていない、総人数も戦力も不明な地獄信奉テロ組織――斎場衆だ。
周囲に悪穢は感じないのに、第二の鼓動は激しくなり続けている。危険を報せ続けている。何から孝里を遠ざけようとしているのか? ――このユウという少女に他ならない。
ユウが黎明社に所属する人物であれば、これ程までに鼓動は鳴らないだろう。であれば、禍狩か斎場衆――当然、他組織の可能性も捨てきれないが、祈瀬双子の事情を知るのであれば危険人物であることに変わりない。
孝里の疑念に曇った表情にも気付き、ユウは不思議そうな顔をして首を真っ直ぐに戻した。何を怖がられているのが、全くもって理解不能、という顔だ。
「どーしたの?」
「……ユウちゃん、君はどこの子?」
「どこ?」
先程とは反対側に首を傾げて、ユウは聞き返した。
「君の所属は、どこ?」
ユウは梟のように孝里を見つめ、程なく答えた。
「斎場衆だよ」




