1 生ける武器の観戦
夏の息吹が汗を滲ませ、灼熱の太陽は全身を焼きつけるかのようだ。アスファルトに寝転がれば、気分はまるでオーブンで調理される肉料理だろう。昼間はとにかく暑くて、熱くて仕方がなかった。耳の中を跳ね回るクマやらアブラやらの蝉の合唱が、物悲しいヒグラシの哀歌に変わって、やっと聴覚は涼みを得たものの、気温には大した変化は無く、未だに地獄の一歩手前ほどの熱さに蝕まれていた。
竹刀の剣戟が響いている。そこは退獄機構系列会社【鈴ヶ谷】の三階建てビルの裏側だ。ビルの壁際の左半分は職員たちの喫煙所で、右半分は洗濯物を干したり、汚染物を洗ったりするために分けられている。三方を囲む堀側は広くなっており、そこは職員たちの剣術や体術の訓練場として使用されている。
現在、使用しているのは二人。片方は黒髪に黒目という気弱な印象を受けるものの整った顔立ちをした少年で、相手は壮年の男だ。喫煙者用のベンチに腰掛けている三人の他に、観客は窓や塀の上にも数人の観客がいる。
祈瀬孝里は翻弄されるように受け身の一方だった。だが持ち前の反射神経と動体視力はずいぶんと優れものらしく、すべての攻撃を巧妙に受け流していた。有功となる一撃を受けず与えず、攻めと防御が拮抗している。
「受け身一手だけど、孝里の奴、安西の攻撃についていけるだけでもすげえよな」
「ああ。初めて見た時から思ってけど、すでに戦い方を知ってる動きをするんだよな」
「ここに来るまで、どこかの退獄社で指南でも受けてたのかな」
「いやあ、そんな話は聞いたことないな」
「はは。じゃあ、あれは才能か。受験の実技合格も容易いな」
煙草の灰を灰皿に落とし、煙を噛みながら観客たちは孝里を讃える。樺色の髪をした目付きの悪い少年が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
均衡が崩れたのは、額から流れ目に染み入りそうな危うい汗を拭うために竹刀から左手を放したその瞬間だった。これが隙となった。さらりと視線を流して瞬時に最善の一手を明察した相手――安西昇の一撃が左側から横薙ぎに脇腹を狙って繰り出される。孝里は迫る竹に刀光を見た。今、この竹の刀には日本刀の気配が込められている。
「う、わわっ」
情けない声を上げながらも竹刀を振るうものの、斜め上に斬り払うように振り上げられて竹刀を払い飛ばされてしまう。
「手ぶら! トドメ!」
にやけた安西の声は勝ち誇っていた。竹刀が高く振り上げられ、剣先が夕陽の色を受けて影を作った。竹刀が脳天に炸裂する想像は容易く、思い出す痛みは鮮明だった。避けようにも足が地面に縫い付けられてしまったかのように微動だにしない。ついに振り下ろされた竹刀を正面に、これはもう甘んじて受けるしかない――と覚悟を決めた。
その時。子供相手に大人げない、と少女の呆れたぼやき声が視界にも映らないほどの外野から細く聞こえて、途端に安西はギクッと一瞬怯んだ。
(今だっ!)
孝里は後ろに飛び退きながら、竹刀を蹴り上げた。
「うおっ⁉」
意表を突かれた安西は、再び竹刀を振り上げる体制を強制される。孝里は取り落とした竹刀を拾う――よりも先に、ぴょんと飛ぶような一歩で安西に竹刀を踏みつけられ、弦が軋んだ。
不味い、と直感した時にはすでに遅し。竹刀は振り下ろされていた。
「はい死ぃいぃいぃぃぃぃいいぃっ!」
「イダァッ‼」
スパーン! と見事な音と同時に、孝里の脳天を激痛が襲う。たまらずその場に崩れ落ちてダンゴムシのように蹲り、頭を押さえながら痛みに唸る。縮こまった体に降り注ぐのは安西の高笑いと、観戦者三人の溜め息である。
「なっさけねえ、なんつー無様な敗北してんだ! おっさん相手に負けてんじゃねえよ、この雑魚ジジイ!」
鈴ヶ谷秀作の容赦ない暴言混じりの追い打ちに、孝里は地面に額を付けた。三歳の年の差を有効的に利用した、すでに聞き慣れて受け慣れた罵倒だったが、格好悪い敗北の瞬間を目撃されてしまったという羞恥心の裂傷に捩じ込み入って傷をさらに深くする。
「ひ、酷いよ秀作君」
「ケッ。お前の様の方がよっぽどヒデェだろ。何で竹刀を蹴りやがった。本物の刀剣だったらお前の足がどうなるか想像もつかねえのか? 頭ン中も耄碌してんのかよ」
トドメと言わんばかりに「チッ」と舌打ちで評論を締められる。その舌打ち一発に宿る数多の誹り罵りの弾丸は、見事に孝里の頭部を撃ち抜いた。
しかしながら、秀作の非難は正論だ。鍛錬という決して死なない、欠損しない保障がある状況に甘んじた蹴撃だったことに間違いはない。
「孝里、これがアイツだったら、お前の足は今頃泣き別れ状態だったぞ」
安西はそう言うと、親指をアイツと呼ばれた人物に向けた。
鈴ヶ谷の社長の孫である鈴ヶ谷秀作ではなく、安西昇の一人娘である安西日華でもない。
安西昇は、もうひとりの女を指している。袴を着て胸甲と籠手を装備した時代観を一人だけ画する姿。何よりも目を惹くのは、組んだ足の間に挟まれた一振りの太刀である。
「なあ? 宮地。お前だったら、人間の足くらい容易いもんな?」
「そうね、足くらいならスパパーン、よ」
女人の形をした刀は「あはは」と口を大きく開けて笑った。彼女の銘は宮地佳奈子ノ太刀という。安西の退獄師養成学校生時代からの武器であり相棒でもある。
人間らしい銘ではあるが、それは当然だ。彼女は――かつて人間だったのだから。