35 花枯れー華、瑞々しく朽ちて
赤い彗星へと一直線に立ち向かっていく一筋の流星が、的中と同時に赤い彗星を弾け散らせたのを、真正面から見ていた。空を染める赤は、雨雲がへ滲むように消失した。代わりに空を染める色は鈍色である。
分厚い雨雲が押し寄せて融合し、町一帯どころか周辺の上空さえも覆った。降り注ぐものが薄い日光なのか、それとも雨雲の影なのか判然としない。とにかく、周囲は仄暗い。雨のにおいが濃い。肌にも潤いのある空気が触れている。後一時間も経たないうちに沛然たる雨となることが予想される。
町民達が避難シェルターを目指して走っていく。背中にリュックを背負ったり、ボストンバッグを斜め掛けしている。中身は食料や水だ。地下避難シェルターはアリの巣のような構造になっており、町民全員の入場が可能の規模だ。トイレはもちろん、売店も存在しているのだが、地上に比べると品揃えも品数も少ない。そのため、長期避難の際は飲食物の不足が問題視される。今まで、二十四時間以上の非難経験の歴史の無い柳谷町であっても、今回がその時かもしれないという心構えを持っておかなければならないのだ。
秀作は人々の避難経路を遡るようにして走る。普段の帰路をここまで全力で辿ったことは無い。徒歩十分の道を四分で帰る。実家を素通りして隣家へ。表札には「安西」。秀作は安西家へと到着した。
インターフォンを押して来客を知らせる。音が空気に浸透するように消える前に、声を張り上げて呼びかけた。
「おい、日華!」
数秒待つ。返事はない。
「日華! いねえのか!?」
やはり、返事はない。すでに避難したのだろうか。しかしそれならば、自分か父親に一報するはずである。無いということであれば、まだ家の中にいるのではないだろうか。
秀作は隠された鍵を使って家に入ろうと決心した。今は緊急事態である。もしもいなければ、自分も避難所に行って日華を探そうと素早く予定を立てた。
砂利敷きにカモフラージュされている鍵隠し用の石のキーボックスを拾い上げようとしゃがみ込んだ時、石畳の上に足跡が渇いているのが見えた。一度は泥かと思ったものの、最近は雪も雨も無く晴れ続きだったため、その可能性は無くなった。庭の花に水をやった時のものかと考えが過ったが、花はすべて植木鉢に植えてあり、庭には砂利が敷き詰められている。それに、玄関から道路へと歩行の形成を残しているのだ――その、赤い水でも踏んだかのような、乾いた赤の足跡は。
一瞬、足から力が抜けて尻もちを付きそうになった秀作は、反射的にドアノブを掴んでいた。ガチャ、と音がして、振り払われそうな勢いでドアが開いた。
玄関の先、廊下に満ちる影が澱んでいるようだ。それがまた、秀作の不安を煽る。床に一定の間隔で軌跡を遺す足跡は、二階から降りて来ていた。目で辿り、己が足元へと至った時、受験終了祝いで父親に買って貰ったとはしゃいで見せつけて来た、花柄のスニーカーに蕾のような新たな模様が彩られてるのに気づいた。
「やっぱり、血だ……」
そう呟いた秀作は、砂塵を上げながら安西宅へと飛び込んで行った。
考えたくもないが、日華は足跡の先に必ずいるだろう。確実に何かの事件に巻き込まれている――被害者になっている可能性が高い。
土足のまま階段を駆け上がっていく。足跡が続く先は、日華の自室ではなく父親である昇の自室だ。日華の部屋を通り過ぎる前に、室内を確認する。照明は点けれたままで、カーテンが閉め切られている。血痕は無い。足跡も無かった、いつもどおり、整然とした愛らしい部屋のまま。
秀作は安西の部屋へ。ブロンズのレバーハンドルは、血の付いた手で握られたかのように血が付着して渇き、こびり付いている。
「おっさんの部屋……」
震える手で血痕ごとレバーハンドルを握り締め、数秒の恐怖との激闘の後、意を決してドアを開いた。
――その瞬間、悲鳴が喉の中で絡まって、血のにおいを充満させる冷たい空気に穿き出せたのは引き攣った呼吸の音だった。
日華の部屋のピンク色のカーテンとは違って、安西の部屋の紺色のカーテンは完全遮光素材である。これは、安西が就寝の際は真っ暗な空間を好むからだ。ライトサインのように、窓から入り込む光は波打つ四角形の光の枠を作り出すのみで、天井照明も消灯されているため暗い。秀作が開け放ったドアの、廊下の窓から差す分厚い雨雲越しの陽光で辛うじて室内の様子が伺える。
ドアを開けて真っ先に目に入るセミダブルサイズのベッド――その上に、日華は仰向けになっていた。足だけがベッドからだらんと落ちている。その足の先の肌が、影ではない別の理由で暗く変色している。
秀作は壁に手を這わせて天井照明のスイッチを探し出して押した。照明は、秀作に色鮮やかな惨劇の光景を見せるのを躊躇うかの如く、ジジ、と発光を遅らせたものの、観念して白い光を放った。
そして、一面に見えたのは、やはり血痕である。溢したように、連玉のように、血は様々な模様を作り出してあちこちへと点在している。
「日華……」
酷いくらいに眩暈がした、血のにおいで吐き気が込み上げる。数年振りに歩くかのようなふらふらとした足取りで、秀作はベッドの上の日華に歩み寄った。
日華の服はズタズタに刺し貫かれていた。繊維が断ち切られて穴になった箇所がある。その間から、細い傷は無数に刻まれているのが見える。血が溜まってまだ固まっておらず、身体を横に向き変えればスゥ、と流れそうだ。
日華の身体の状態を見て、無理矢理理解させられた。
日華は死んでいる。
日華は死んでいる。
日華は殺されている……。
所謂、滅多刺しだ。一説によると、始めは殺害の意思が無くとも、何らかの弾みで一度刺してしまった際に、相手からの反撃を恐れて何度も刺し貫くことで、滅多刺しという殺害方法になる、というものがあるという。しかし、この犯人は違う、と秀作は確信めいたものを感じている。何故なら、犯人は玄関ですでに日華を刺しているからだ。スニーカーに零れた大量の血液がそれを物語っている。そして日華は家の中へと逃げ込んだのだろう。だが犯人は追いかけた。逃げ場を探して、日華の本能は、一番安心できる存在の気配を感じることができる部屋を選んだのだ。そこがこの、父親である安西昇の自室である。
普段は加齢臭がすると言って、一歩入るのでさえも嫌がっていた。それなのに、最期に頼った場所は父の自室。
死の間際、己に何度も振り下ろされ、赤く濡れて珠を滴らせる刃物を見上げながら、日華は救いを求めたのは、神様ではなく父だったはずだ。「助けて、お父さん」と叫ぶ日華の絶叫を、この部屋が蘇らせるように耳朶に感じる。
強烈な殺意を持った者の仕業に違いない。日華を殺害するという目標があって、襲撃したのだろう。
日華の干上がった空虚な眼が、ベッドサイドに飾られた父娘のツーショット写真を見ている。秀作の眼は潤み、ボロボロと零れ落ちてベッドシーツに染みる血に黒っぽく丸い模様を付けていく。
「あぁああぁあぁあぁ……ッ……ぅあぁああぁああぁあ……ッ」
周辺の家の住民達は避難しているはずで、だから秀作の悲痛な叫びには誰も気付かないだろう。暫く間、秀作は胸の中を絞り出すかのように声を上げて泣いていた。寒気に曝された陶器のように冷たく、生きていた頃よりも数段硬くなった日華の頬を両手で掴んで額を擦り合わせて、亡骸に縋り付きながら。
血のにおいの中に安西の香りが混じっている。それを嗅ぎ分けた秀作は、漸く泣き止んで――否、涙だけは瀑と流しながら、嗚咽を堪え、今だに迫り上がってくる悲鳴を喉の奥に封じ込めた。
安西に伝えねばならない。警察よりもまず先に、父親である安西昇へと。
警察に通報したところで、後回しにされることは明白だ。一人の殺害以上に重大な事件が発生しているのだから。それも、町全土を恐慌に陥らせている事件が。全てが解決するまで、日華の遺体は安西の自室のベッドに安置させておかれることだろう。早くこの事件を終息させて、日華を殺害した犯人を探し出して捕まえて警察に突き出す――いや、どうせ殺人犯は処刑されるのだ。だったら、オレが殺す。秀作は殺意を抑えることができなかった。この復讐で、せっかく決定した禍狩の合格を剥奪されるかもしれない。それどころか、自分も殺人犯として処刑されてしまうことだろう。孝里を泣かせてしまうことになるかもしれない。
だが、それでも……。
孝里の笑顔が幻影のように虚空に浮かび上がる。
「ジジイとの約束も、守れなくなるな……」
三年前、孝里と絡ませた小指を見下ろした。そして気付いた。血にぐっしょりと濡れてわからなかったが、長方形の紙が一枚、ベッドシーツの皺に紛れている。血で手が汚れることも厭わず紙を拾い上げ、僅かに濃さの違う紋様を観察する。
「――魂縛符?」
見慣れた、退獄関連機関のみが使用できる符だ。それがどうしてこんなところに? 当然、日華が盗んだとは思わないし、安西が忘れて行ったという予想も同様だ。そもそも、仕事の退勤時には武器庫への返却義務があるのだ。ますます疑惑が深まった。
「もしかして、鈴ヶ谷に出入りしてる奴か……?」
丁度、鈴ヶ谷の安西達が監視カメラの映像を確認して、竹内の犯行の一部始終を確認して憤懣している頃、秀作はあと一歩の答えまで辿り着いた。しかし秀作は、敢えて、今は、答えまでの最後の一歩を踏み留まり、安西に連絡することにした。
ポケットからスマホを取り出して、指で画面に血を伸ばしながら遍歴から「安西昇」の名前を探した。昨日から、遍歴を占める通話の差出人は安西日華の名前ばかりだ。受験結果の報告を待ち切れなくて、メールでも通話でも、何度も何度も差し出して来た。無視したことが悔やまれる。だって、どうせなら目の前に立って、自分の口で報告したかったのだ。姦しいぐらいの歓声を上げて、ぴょんぴょん飛び跳ねる日華の姿を、自分のこの目で見たかったのだ。
そうなるはずだったのに。世の中に、犯罪者以外に殺されて良い人間なんていない。しかし、思わずにはいられなかった。どうして日華が殺されないといけなかったんだ、と。
安西昇の名前をタップし、耳に画面を押し当てる。四本ほどコールが小刻みに伸びながら鳴って、安西が応答した。
〈もしもし、秀作か?〉
すぐに、一声を放とうと思っていた。だが、出なかった。残酷な真実を伝えねばならない苦しみは、喉の中で膨らんで痛みを放った。
〈おい、秀作……? 日華は……?〉
「――……おっさん」
秀作は大きく息を吸った。横隔膜が痙攣する。
「日華が、死んでる……」
そして、一人娘を失った父親の絶叫が、ノイズ混じりに、スピーカーモードにも勝る音量で響き渡った。




