27 青猿-友の家にクソマッパ
「それじゃあ、私は先に鈴ヶ谷に戻っているからね」
「おん」
「じゃ、秀作、またあとでなー」
「おん」
夜行バス停留所まで迎えに来てくれた鈴ヶ谷の事務員が運転する車は、鈴ヶ谷優作の乗せて離合も困難なほどに細い道を真っすぐ進んでいく。立ち上る灰色の砂埃が煙たくて、秀作は一発のくしゃみを放った。鼻を啜りながら振り返ると、祈瀬孝里が住まうオンボロのアパートが立っている。全体的に錆の色をしていて、まるで禍身の血膨破裂の血を被ったまま洗い流していないかのようなおどろおどろしさがあった。
本来は、ここまで早く孝里の家に訪れる予定ではなかった。時刻は早朝の七時である。今日は非番だと言っていたし、もしかしたらまだ眠っているかもしれない。休日の孝里は少々ズボラなのだ。
「……」
秀作は孝里のことを考えることで、鳳越響のことを思い出した。孝里の所在を恐ろしい剣幕で問いただして来た彼は、何やら出動しなければならない事件発生のために悔し気に走り去っていってしまった。助かったと安堵したのも束の間のことで、すぐに疑問が湧き立った。何故、孝里の所在を必死な様子で知ろうとしていたのか。何故、あそこまで反応していたのか。考えうることは、孝里と響には昔面識があった、ということだ。それも、令架地獄顕現災害よりも前、頭に怪我を負って特定の記憶を何度もリセットしてしまう脳になる以前に。
孝里は鳳越響に関する記憶を忘却する。思い出してもすぐに忘れてしまう。記憶喪失の中には、思い入れのある人物や物、風景のことのみを忘却してしまう症例があるらしい。孝里もそれに当てはまっている可能性が高い。
令架地獄顕現で重傷を負った孝里が、どこの病院で治療を受けて誰に連れられて柳谷町にやって来たのかはわからない。だがきっと、その際に鳳越響との交流が断絶してしまったのだろう。互いがどういう関係かは気になるもののさて置き、響は孝里の行方を欲していた。響の中では、孝里の存在はきっと特別なものなのだろう。もしかしたら響のファンで退獄師だったという孝里の父親との間に、認知しているされている、というような何かしらの友好関係があった、という説まで生まれてくる始末だ。はたまた、忌蔵に封印されている双子の片割れである瑞里関連か。こちらの方が最有力候補だろうな、と思う。家系図くらいは調べ尽くされているはずだから。
しかしすべては推察、予想、推理に過ぎない。秀作は探偵ではないので真相なんてものを見つけ出せるような賢さはない。きっと、孝里に訊いてもわからないだろう。ならば、無駄なことを訊こうとすることはやめて、昨日から孝里と日華、そして安西が待ち望んでいたであろう合否結果の報告というこではないか。秀作は口元を緩ませた。
――ジジイ、馬鹿みてえに大袈裟なくらいに喜んでくれるんだろうな。
砂利を踏み締めて歩き、錆びた階段に足を乗せようとした。
その瞬間。
「ワーーーーーッッッ!!!」
「!?」
今まで一度も聞いたことのない絶叫。阿蝉山でだって聞かなかった悲鳴。高揚していた気分と血の気が干潮のように引いていく。秀作は孝里の部屋を目指して階段を駆け上った。
◆◇◆◇
出し汁の香り。何だろう、味噌汁かな。
カーテンの隙間から顔に直撃する日光でもなく、けたたましい目覚ましのアラームでもない、自然と意識を浮上させていく目覚めの心地よさに、孝里は目を閉じていられなくなった。テレビもどうやら点いている。安眠を妨げないよう気を遣われたかのように音量を小さくされているが、アナウンサーの口調はよく聞き取れるほどに活舌が良い。昨晩、テレビを消し損ねていたのだろうか。そこまで疲労するようなことは――竹内の一件以外に思い当たることがない。
孝里は腕立て伏せをするように上体を起き上がらせた。
「おう、おはよう孝里」
「――」
男の声。甘いテノール。孝里の身体は石像のように硬直し、心臓は激しく拍動して体内を震動で叩いた。体勢はそのまま、顔を横に向けた。丁度、声の人物が孝里から顔を逸らした。見えるのは、キッチンに立つ後ろ姿だけ。身長が高く、体格も良い。寝癖かパーマか癖っ毛かはわからないが、漆黒の髪の毛はボサボサと乱れている。つんつるてんのスウェットを着ていて、足元が寒そうだ。コンロの前で何かをゆっくりと掻き混ぜているようだが、それがもしかして出し汁香る味噌汁だったりするのだろうか。
孝里はそっとベッドから下りて、男に接近する。足音を立てぬよう、床の軋みも最大限鳴らさぬように。
「もう少しで朝食できるからな~。おかずは、アサリの味噌汁と卵焼きだ。二日酔いはいつもよりも楽なんだが、飲みたくなったんだよな。あと俺、卵焼きは砂糖派だからさ、もしも出汁派だったらすまん。今切るからさ、テーブルに持っててくれ」
男が包丁を掴んだ。銀色の腹がギラリと白く光る。
「……あの」
孝里は左手で男が包丁を持つ方腕を掴んだ。男はビックリした顔で振り向き、そのまま口角を持ち上げて形ばかりの笑顔を作る。孔雀青の虹彩に光が小さな粒となっ照り返している。男が笑うことで、左目を縦に横断する長い傷痕が少しだけ縮んだように見えた。
「どうした? あぶねえだろ。ああ、手伝いなら大丈夫だぜ。一晩の礼――」
「貴方は、誰ですか?」
男の話を遮って、孝里は問いかけた。男から表情が抜け落ちる。
「は?」
返答はその一言。だが狼狽と困惑が凝縮されているのがわかった。しかし、孝里も動揺と恐怖している。この男はいったい誰なのだろう。いつこの部屋に入った? どうして親し気な様子で朝食を作っている? 何が目的で僕を狙ったのだろうか。僕の名前を知っているのが恐ろしい――僕が日澄よすがの息子だと知っての接触か?
男の腕を握る手に力が入る。目付きに精一杯剣呑な光を宿して男を睨み威嚇する。自分の顔がそう怖くないと知っているが、それでも男は怯んだ様子を見せた。
「何言ってんだよ、孝里……俺だぜ、奏士郎だ」
「……奏士郎?」
逡巡するが、何も思い出せない。奏士郎と名乗った男は再度言った。
「そうだ、奏士郎……鳳越奏士郎だ。昨晩、廃工場で会っただろ? 禍身に遭遇して、俺が倒してさ。鈴ヶ谷にも一緒に行ったじゃねえかよ」
男は包丁を手放した。まな板の上に落ちた包丁はがらんと音を立てる。孝里の記憶にノイズが走った。そういえば、竹内の歓迎会から逃がしてもらってからの記憶があやふやだ。
「禍身……」
廃工場に入ったのは覚えている。どうして入ったんだっけ? 禍身の悪穢を感じて……いや違う。物音と人の呻き声が聞こえたからだ。悪穢を感じたのは、工場の中に入ってから。何でこんなにも思い出しにくい? 昨晩のことだろう。ああ、そうだ、光が見えたんだ。僕はそれを追いかけて……そうだ、そして見つけたんだ。ドラム缶に上半身を突っ込んだ、下駄を履いた人。弁当の殻、煙草の残骸、酒の器の山。冷や汗が滲み出て来た。男の呻吟。僕は心配して……青い目と傷痕が……そして禍身が……僕たちは逃げて……。
記憶にかかる靄を払いながら、記憶を徐々に鮮明にしていく。
そうだ、干戈の女の子が一瞬で禍身を倒したんだ。外に出て、血と香り。鈴ヶ谷の車、安西さんたち。男は名乗った――鳳越奏士郎。
「孝里……?」
男……奏士郎は孝里の顔を覗き込んだ。気遣わし気に背中に手を添えてくれて、血の気を失ったような冷たさがじんわりと服の繊維を侵食していく。不法侵入者と疑われてしまったのだから当然だ。この人は――自分が招いたのに。
孝里の目から剣呑な光が消失していき、代わりに罪悪感へと染まり出す。
「ご、ごめんなさい。すっかり忘れていました」
命の恩人でもある奏士郎を忘れた挙句に不審者だと思って睨み付けるなんて、恩を仇で返す愚行極まりない。奏士郎はすべてを許すかのように淡く微笑んだ。
「……いや、いいんだ。ずいぶんと深く寝入ってたみてえだし、寝惚けてんだろ」
「そうなんですかね……そうかもです……」
苛燐の姿が見えないので、奏士郎の手に目を下ろしたものの、そこに指輪はない。他の物に化けたのだろうか。
「あの、苛燐さんは――?」
どこに行ったんですか? と訊ねかけた時、浴室のボロい扉が壊れんばかりの勢いで開け放たれた。
「奏士郎! いったいどうしたの? アンタ、すごく悲しい気持ちになってるでしょ! アタシもよ!」
そう言って現れたのは、全裸の苛燐である。全身がびしょ濡れで、しかも裸体を隠そうともしていない。胸を揺らしながら数歩の距離を駆けて来た。
「ワーーーーーッッッ!!!」
孝里は人生最大の悲鳴を上げ、
「苛燐ッ!!!」
奏士郎は怒鳴り付けた。喜怒哀楽のコンプリート達成である。孝里は顔を両手で覆って後ろを振り返った。女性の裸なんて初めて見た! 瑞里の裸はノーカンである。
ガンガンガンと錆びた鉄の階段を駆け上がって来る音ののちに、ドンドンドンとボロい扉を殴りつける音が続いた。
「おいジジイどうした!?」
と、聞こえてくるのは秀作の声だ。帰って来たのだ。しかし、予定よりもずいぶんと時間が早い。
「秀作くん!?」
「無事か!? 開けるぞ!」
「待っ」
て。と、間に合わぬ制止の声。開け放たれる施錠されているはずの扉。残念なことに、この扉は施錠していてもコツ一つで開閉できる。コツを知っているのは秀作と孝里のみ。なので合鍵無しで秀作は好き勝手にこの部屋を出入りしているのだが、それが今回はちゃんと修理しておけばよかったと後悔に駆られる。外の光が廊下に差し込んで来て、人の形に影ができあがる。
「ジジッ」
蝉の遺言のように短く言って、秀作は雷に撃たれた直後のように固まった。慣れ親しんだ部屋に、孝里と見知らぬ二人。
男の方は妖艶な美貌に左目の傷跡を持つ、いかにも堅気ではない雰囲気を放つ男。誰だテメエ。
女の方は、孔雀青の奇抜な色の長い髪をした全裸の美少女。誰だテメエ。つーか、何で裸なんだ……えっ、何で裸なんだよ!
「うっっっわ!! ジジイの部屋で何してんだテメエら! ジジイっ、こっち来い通報しろ!」
「はっ!? アタシの裸見て通報しろ!? 何なのこのガキ!」
「待て待て怒るな苛燐。そりゃそうだ、十八歳の少年の部屋に全裸の女と俺がいるんだぞ。服着ろよ、青少年の前で全裸はマズイ。」
「チッ。仕方ないわね」
苛燐の身体が青白い火の粉に包まれる。秀作がギョッと目を剥いた。少女が突然炎上したように見えたのだから仕方ない。孝里も自分が昨晩同じ反応をしたことを思い出した。火の粉が晴れると、干戈としての着物に着替えた苛燐がふくれっ面をしてプイッと顔を背けた。
「で? 何の用よガキ」
「テメエとそう変わんねえだろ!」
「うっさいわね! 孝里に! 何の用よ!」
「それより先に誰だよテメエら! このクソマッパ!」
「何だって?!」
「ふ、ふたりとも落ち着いて!」
「そうだぞ。朝っぱらからうっせぇよ」
「「ヂッ」」二人揃って強烈な舌打ち。奏士郎が呆れた顔をしていた。
秀作は靴を後ろに飛ばすように靴を脱いで廊下に上がった。奏士郎と苛燐の間を荒々しく通り抜けて、孝里を居間へと押し込む。
「で、誰だよアイツら」
「黎明社の忍備役の鳳越奏士郎さんと、憑器干戈の苛燐さん」
「鳳越!?」
ここでもまた鳳越。秀作はこの縁に疲れを覚えた。しかし孝里は当然、東都京で響と秀作が接触したという出来事を知らないので、単純に鳳越というビッグネーム血筋の人物がこんなボロアパートにいることを驚いているのだと勘違いして苦笑した。
「すごい人が泊まっちゃった。……」
孝里は秀作をじっと見つめて、あるものを促した。秀作もそれに気付いて、少し気恥ずかしい気持ちに頬を紅潮させ、顔を見られないように俯き加減にスマホを取り出してフォトアプリを開く。合格発表掲示板と受験票のツーショット写真を写して孝里に見せる。受け取った孝里は、受験票の番号を覚えて数字の列を探し、そして発見した。太いフォントと濃いインクで記された、4794。
「おめでとう!! やっぱり秀作くんはすごいよ、あの禍狩に受かっちゃうなんて!」
「うわうっせ、大袈裟だろ」
「大袈裟じゃないよ! だって今年もとんでもない倍率だったんだよ!? 何千人の中から選ばれた二百人のうちのひとり!! すごいなあ、すごいなあ……! 日華ちゃんと安西さんに報告した?!」
「や、まだ」
「僕が一番!? 恐れ多いよそんな……」
「いーんだよ、別に。マジうっせえな」
白い髪にまで浸透するのではないかと思うほど、秀作の顔色は赤を増していく。孝里には秀作の顔色は見えなかったが、耳と首元が真っ赤になっているのが見えた。




