26 青猿―影を纏う者
「北川の腐れババアが、犯されて死ね。小野のクソジジイも死ね。オヤジ狩りにぐちゃぐちゃに殴り殺されちまえ。オレに跪く奴以外、みんな死んじまえ」
持ちうる全ての語彙と語録を用いて、呪詛の如く罵詈雑言を唱えながら、竹内は帰路を辿っていた。口の端がピリピリと痛むが、それ以上に左頬が熱を持ってズンズンと重低音を刻むような痛みを放つ。
最悪の歓迎会だった。酒も満足に飲めず、腹も満たされていない。負の感情ばかりが満杯で、頭が重かった。
怒鳴られ、睨まれ、押し合い後に殴り合いになった。といっても、ほとんど一方的に殴られた。竹内はどうしてそうなったのかを考える。明らかに、自分の落ち度は無かったはずだ。口論の際に、何やら自分の助言が癪に障るのだと詰られたが、それは正論を指摘されたことによる反抗心だろう。竹内は自分なりに、歩んできた人生経験を元に正論を論じているのだった。自分の人生経験を無償で分け与えているつもりでもあった。これは完全なる善意で、拒絶された挙句に無下にされるとは思ってもみなかった――否、いつもそうだ、いつもこうなると考え直す。
浴びせ掛けられた罵詈雑言は善意を詰るものだけには留まらず、職務態度や外見に性格、そして男女関係にまで至った。
職務については、社会経験の浅い後輩や、やる気に満ちた職員を慮ってのことだった。経験を積むことは今後大いに役立つし、遣り甲斐は人生を豊かにさせる。細々とした作業を嫌う人柄だっているのだ。竹内なんかはそうであろう。だから自分は細々とした作業に徹し、縁の下の力持ちのような役割を担っているのだと自負していた。それなのに、仕事をサボり、楽な方へと逃げていると言って睨まれた。
自分に関する全てを否定された。外見に厳しい世間に見下さないよう、コーディネートには気を遣ったし、喋り方だって気軽さや気さくさを前面に出して取っ付き易いようにしている。陰気な本当の自分とは正反対の作られた人格。こうすることで、誰からも好意的に接してもらえるのではないかという希望を抱いていた。
優しさも、配慮も、外見も、喋り方も、全て模倣した。学生時代の同級生の猿真似だ。彼はいつも人に囲まれていて、よく頼られ、陽の気に満ちていた。学年の美人たちはこぞって彼を持て囃し、気に入られようと自分の魅力を殊更引き出す努力を惜しまなかった。憧れていた。自分もこうすればいいのだと。あんな風になりたかった。ただそれだけだった。
助言にしても、有用なものばかりだ。祈瀬孝里だって、笑顔で礼を言っていたじゃないか。余計なお世話、大きなお世話だと北川たちは拒絶したが、孝里の反応から見るに、すなわちそれは正しいアドバイスだったということの証明だ。本人は確実に有難がっているのだ。むしろ、邪魔なのは成長を阻もうとする北川たちのせいだ。礼儀を知らぬ小僧は排他される。それを危ぶんでやったのだ。それに、孝里のことは少々気に入っている。従順で温厚。ルックスが整っているが欠点だ。
傷痕のことだって、あまり気負わないように空気を和ますためだったのだ。後遺症を負って武器が握れないのに、未だに退獄師を目指し続けることだって、いつか無駄な時間だったと後悔する時が必ず来る。だから、新たな道を探して進むようにという心積もりの助言だったに、本人以外から壮絶なバッシングを受ける羽目になった。寄って集って自分を詰ったのである。奴らは目付きに、表情に、声色に怒りと侮蔑を漲らせていた。唯一の理解者であるはずの孝里はいつの間にか姿を消しており、追い出されるように退店を強いられたのである。後数分で警察を呼ばれていたことだろう。それでも良かったと今では思う。自分は確固たる被害者なのだから。
竹内の家は、鈴ヶ谷ビルの前を通過し、十分ほど歩いた先にある鈴ヶ谷家と安西家を通り過ぎ、更に十分ほど歩いた所にあるアパートだ。この町で唯一、自分を拒まない居場所を目指して、怒りで痛みを慰め紛らわせながら、マスを横一列に並べたかのように光を放つ鈴ヶ谷ビルを通り過ぎ、そして鈴ヶ谷家へと差し掛かった。二階建ての一軒家は暗かった、カーテンが閉め切られているからではない。今日は無人なのだ。家の主人とその孫は東都京へと出ている。禍狩の受験の合否発表の為である。
「受験に落ちろ。そのまま飛び降りて死ね」
竹内は秀作のことが嫌いである。白い髪も赤い目も気味が悪い。加えて、口と態度が最悪だ。安西日華に話しかけると、必ず邪魔をしてくる。クソチビのガキが。大人への礼儀がまったくなっていない。
安西家の二階は、カーテンに妨害されつつも光が灯っているのが見える。ピンク色のカーテン。その一室にしか光が灯っていないのは、家主である安西昇が今日の夜勤者だからだ。現在、一人娘である日華がいるのみ。彼女は今何をしているのだろう。竹内は思いを馳せる。
安西日華。愛らしい美貌の少女だ。活発で陽気。初対面の際、自分に爛漫な笑みを向けて挨拶をしてくれた思い出を想起する。初めの頃は良かった。よく気にかけてくれて、そして笑いかけてくれた。今では北川や小野、そして父親に何を唆されたかは知らないが、自分から距離を取るようになった。幼馴染だという秀作と孝里とよく行動を共にしている。親密な様子に、何度嫉妬の炎で心を焦がしたことだろうか。だが時折視線を送って来る。自分に関心があることの証左だ。きっと気があるのだ。もしかしたら、世間で度々激しい論争を繰り広げる歳の差を気にしているのかもしれない。それはそうだろう、日華はまだ中学生で、自分は父親よりも数歳年上なのだから。
歳の差という障害を乗り越えて、いつしか結ばれたいと思う。乗り越えた障壁が多いほど愛は強まるものだ。ガキ二人に引っ付いているのは、俗にいう試し行為というものだろう。
「そういえば、ガキ二人共退獄師志望だな」
退獄師を目指したことはある。若さありきの青い夢であり、そして黒歴史同然の忌々しい過去だ。世を守る正義感に燃えていたわけではない。ただ格好良くて高年収だからだ。金さえあれば男は羨み女が侍る。邪な動機であれど、成果は確実に世に貢献を齎す。諦めたのは、運動神経が壊滅的に無かったからだ。禍身を殺す前にこちらが殺される、無駄死には御免だ。
だが、特殊清掃員という職に就いて、夢想することが増えた。自分が護国五指師として指折られるほどの退獄師で、安西日華が干戈だったら、というIFの世界戦だ。魅力的だと思う。可能なのではないかと自身が湧くこともある。そして最近、日華へと抱く欲望に、性欲以外のモノが増えた。物欲である。
安西日華が欲しい。手元に置きたい。
竹内は再び夢想の世界に浸ろうとした。本当の、そうあるはずだった世界を求めて――。
「もしもし」
突如として背後からかかった男の声に、夢想が爆ぜた。振り返ると、影が立っている。
「誰だ⁉」
「わたくしは――釈神。この地の正統なる神です」
「はあ?」
竹内にしてはマトモな反応だった。自称:神など碌でもないに他ならない。
どんなツラした勘違い野郎なのかと竹内は目を凝らしたが、フードを被った男の顔には濃い闇が溜まっている。フード付きのコートを身に纏っているのかと思いきや、漆黒のローブだった。いくら寒いとはいえ、外出用の服装のチョイスとしては奇怪だ。クリスマスはとうに過ぎ、ハロウィンに至ってはさらに昔のことだ。増々不信な男だ。
釈神は竹内の反応など少しも気に留めない様子で口を開いた。
「何やらお悩みの様子。この釈神に打ち明けてごらんなさい」
「いや……意味わかんねえよ」
不気味だ。竹内の威勢は徐々に萎んでいく。元来、陰気で臆病な性格だ。故に、他者に対する感性は常人よりも過敏である。
逃げ出そうと足に力を込めた瞬間、男の顔を満たす影の光る物があった。それは、目だ。生白い白目の中心で、赤い虹彩がぼんやりと光っている。竹内はギョッとして仰け反った。
秀作も赤い目だが、こんな邪悪な瞳ではない。
「我が神域であるこの町の民が、何かに苦悩しているのであれば、わたくしはそれを晴らしてやりたい」
耳の中で、不思議な音律の声が反響する。心がふわふわと柔和に浮かび、釈神に抱いていた不信感が消失していくのがわかった。代わりに湧き上がっていくのは高揚である。どうしても会いたかった者に会えたことへの尊さ、会話を交えることができるいう歓喜――竹内は、人生の中で一番の幸福の瞬間に立っている。
「――聞いて、くださいますか」
頽れるように跪いて、首を垂れる。しかしすぐに顔を上げ、視線を縋りつかせる。すると、釈神の顔が見えた。
やはり、男。壮年ほどの年齢で、決して美貌ではないが、それでも何故だか不思議な魅力を感じる顔立ちをしている。釈神は微笑んでいる。慈愛に満ち、全てを肯定するかのように。
「欲しい女がいるのです。この家の一人娘、安西日華が。ですが、我々の間には数々の障壁があり……」
「その障壁とは?」
「歳の差や、邪魔をする周囲のゴミ共です……」
頭に浮かぶのは、安西昇や北川たちの顔だ。自分を侮蔑する眼差しが鮮明に、唾棄するように吐き付けられた罵倒が、事実も虚言も相混じる。確固たる被害者の立場であるという自負が、事実では無い記憶さえも作り出していた。
酷薄な奴らの後ろで、日華が自分を心配そうに見つめている。両隣りに立つのは孝里と秀作だ。自分を睨んでいる。
――日華は渡さないぞ。
低く警告される。そして、日華の手を乱暴に引いて、去って行く。追いかけようにも、大人の奴らが立ち塞がって邪魔をする。これが、自分と日華を取り巻く現状だ。
竹内の目に浮かんだ憎悪の濁りに、釈神はほくそ笑んだ。
「それを解決するには、力が必要です」
「力?」
「はい。それは例えるならば――退獄師のような」
「退獄師……」
釈神は頷いた。
「そうです。そして力の最もたる象徴は、干戈」
そう言って安西日華の部屋を見上げる釈神を追って、竹内も部屋を見上げる。
釈神が何を暗に伝えているのか、竹内は察知して表情を引き攣らせた。信ずる心に、恐れが勝った。
「そんなことをしたら、俺は殺されてしまいます」
「いいえ、死にません。貴方は力を――干戈、安西日華を得る。愛する者と共に戦う力をね」
愛する者と戦う力――美しい言葉だと、竹内は聞き惚れてしまった。
そして、将来を想像する。日華と共に勇ましく戦う自分の姿を。遅咲きの退獄師として、数々の困難苦難を乗り越えて、やがて護国五指師として日本中に名が轟く……。涎が出るような未来だ。
自信が漲る。陶酔に浸ったまま、竹内は立ち上がった。釈神の赤い目が弓なりに笑む。
「わたくしも、共に戦いましょう」
「あの、何故……」
「言ったでしょう。わたくしはこの地の正統なる神。神域に住まう民が虐げられているのであれば、立ち上がらないわけにはいかない」
「オレのために……?」
「はい。それに……鈴ヶ谷の退獄師たちは、わたくしにとっても脅威。特に今は、新たなる危険が、この地に侵入してしまった。どうにかしなければならない。そしてそのためには、戦力が必要だ……貴方の力が必要なのです」
赤い目がさらに輝く。神々しいと感じる。自分は、この神に希われているのだ。それの何と光栄で高尚なことか。
不意に、釈神は顔を逸らした。そちらの方向、街灯の光の向こう側に、巨大な獣が一頭尻を落ち着かせている。狛犬の毛皮のような物を被った猫のように見える。
「 釈神様、鈴ヶ谷の退獄師共が、同胞狩りへと向かいました 」
猫は轟くような女の声で報告した。
「我々も、戦いの準備に備えねば」
釈神は竹内に向き直った。
「これより始まるは、新たなる神話。貴方にとって、大いなる初陣となる。阿蝉山の裏、我が社にて、明日またお会いしましょう。さあ、愛と力を手に入れなさい」
「はい」
竹内は踵を返し、酒よりも酩酊を感じながら歩み出した――鈴ヶ谷を目指して。




