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22 スタートラインの一万歩手前。

 担任は、どうしても何としてでも、孝里に普通の人生を歩ませようと説得を試みたものの、孝里が納得して頷くことはなかった。朝顔がしぼんでいくように、担任も徐々に勢いを無くして、最終的には「……そうか」と言葉を零して黙り込んだ。


 項垂れる担任に、謝罪と感謝を込めて深くお辞儀し、孝里は教室を出た。廊下の閉じ切られた窓から「とおりゃんせ」のメロディがくぐもって聞こえてくる。時刻は十七時丁度だ。空はいよいよ暮れ始め、阿蝉山の山頂に奉納された宝玉のような光りの濃い夕日が沈み切る前には帰らなければならない。だが――。


 今日は少しだけ、帰るのが遅くなるな。と考える。買い物の予定は無い。だが、少し話さなないといけない相手がいる。そしてその人物は、足元に座り込んでいた。


 目線を落とすと、そこには銀髪の青年が膝を抱えて石のように丸まっている。罪悪感に思考を侵略されているせいで、孝里の面談が教師不服のまま終了したことも、自分の隣に立っていることにも気付かなかったらしい。


「秀作君」


 柔い声で名を呼べば、まるで怒鳴り付けられたかのように肩を跳ね上げた。そろりと顔が挙げられ、紅玉のような真紅の目に自分の輪郭が映っているのが見える。目の下には黒い隈。頬も少しこけているのではないだろうか。安西父娘から、あの夏の事件以来、秀作が不眠症と拒食症を患って苦しんでいるという話を聞いていた。これでは、訓練にも力が入らないのではないかと心配が湧き上がる。


 孝里はいつものように微笑んだ。


「……一緒に帰ろう、秀作君」


 ふたりは寡黙に、しばらくの間帰路を進んだ。その間に鮮烈な夕日は阿蝉山の後ろに隠れ、オレンジと灰色の雲が入り混じる紫の空が抽象画のように前方へと広がっている。黒い鳥が上空を横切って飛んでいくが、それが烏なのか鳶なのかはわからない。動植物も建物も川の水も、まるで影絵のようだ。背後に広がるのは夜の気配。月が、紺碧の夜を率いて押し寄せてくる。


 秀作は孝里の右側を守るように陣取りつつ、けれども視界からはわずかに逃れるように半歩下がって歩いている。


 やがて、小さな公園を挟んだ「コ」の字の分かれ道に差し掛かった。三人でどこかしらに出かける際、いつも待ち合わせ場所にしている場所だ。左へ行けば孝里が住む安価なボロアパートがあり、左に進めば安西家と鈴ヶ谷家が建っている。孝里はまっすぐ、公園の中に入っていった。秀作も、数歩遅れて歩き出す。


 砂場の前の三人掛けのベンチがある。孝里は真ん中に腰を下ろし、秀作が左右のどちらに座ってもいいように位置取った。しかし秀作は、孝里の目の前に立って俯いたまま、ベンチに寄ろうともしてくれない。銀髪が仄白く映えている。


 口火を切ったのは孝里からだった。


「秀作君、ごんぎつねをしてくれてたよね?」


 小学生ならば何年生かの国語の授業で習う題材であるし、悲劇的な最後を迎えることで有名な絵本だろう。病気の母親に食べさせるために兵十が獲ったウナギを、子狐のごんが悪戯に盗んだことから始まる贖罪の物語りだ。ごんは、兵十への謝罪の気持ちで栗や松茸を収穫して置いていったが、孝里の号室のドアの横に置かれていたのは、美味しく調理された総菜の品々だった。


 もちろん、最初は怪しんだ。学校から帰ってくれば謎のビニール袋とドギーバッグに入れられた食べ物が置いてあるのだから、まずは不審物を疑う。袋を広げてドギーバッグの蓋に書かれた苗字を見て、それが鈴ヶ谷家に雇われている家政婦さんが作った料理だということに気付くと、有難くそれらを頂戴した。そして気になったのが、誰が扉の横にひっそりと置いていったか、ということ。だがこの答えにもすぐ合点がいった。鈴ヶ谷家の住人は優作と秀作。家政婦さんは既婚で、すでに子供は成人してひとり立ちしているので家で夫と二人暮らしである。家政婦さんの家はアパートから正反対だし、優作であれば必ず一言は声をかけていくはずだ。となれば、ということである。


 やはり、自分とは顔を負わせ辛いのだろう。孝里は、頻繁に自分の様子を伺いに来てくれる日華から聞いた、秀作を取り巻く人々の反応を思い出す。


 事件の後日から、秀作が受ける周囲の人々の感情は目まぐるしいものだった。秀作の起因により禍身に襲われ、救助に向かった孝里が重傷を負って大学病院に搬送されたという話は、この小さな町ではあっという間に流行病のように蔓延した。よそよそしく腫れもの扱いの態度を取られたり、興味津々に襲われた際の状況を子細に訊ねられたり、普段から秀作の孝里への態度に顰蹙を買っていた者達から責められたり――犯罪者扱いをされてしまったり。秀作自身、自分が犯罪者のようなものだという自覚を持って過ごして来た。背中の傷が癒えるよりも先に、心の傷が増えていくばかりだった。


 家政婦さんに総菜入りのタッパーを持たされ優作に孝里の家へ届けるよう指示を受けても、部屋の前までは行くことができた。だが、兵十に見つかって火縄銃で撃たれてしまったごんのように、自分も孝里に言葉で撃たれるのではないかと――嫌悪や恨みを真正面から向けられてしまうのではないかと思うと、インターフォンを鳴らすことができなかった。顔を合わせる勇気が出なかった。


「すごく有難かったよ。どれも美味しくてさあ……でも、一番美味しかったのは、卵焼きだった」

「……」


 僅かに顔が挙げられたが、表情が見えるまでではなかった。


「あれ、秀作君が作ってくれたんだよね? バリエーションが豊富で面白かったよ。明太チーズでしょ? ツナマヨ、ネギ、かにかま、ミートソースとか、まだいっぱい……」


 たくさんアレンジレシピを調べてくれたのだろう。家政婦さんが作ってくれる卵焼きよりもずいぶんと形が不細工だったし、最初の方は焦げていたので、すぐに秀作が作ったものだとわかった。孝里は好きな物は最後に取っておく派である。具材や味付けに何が入っていようとも、デザートのように味わって食べた。


「でも秀作君、お礼を言いたくても放課後待ってくれなくなったし、居留守だって使うし。僕、寂しかったんだよ」


 笑い混じりに言う。秀作は何も言わない。きっと、彼はこのことを聞きたいわけではない。なので孝里は、彼が望む本題に入ることにした。


「秀作君。僕はやっぱり、退獄師を目指すよ。瑞里を諦めることはできない。来年にはまた受験を受けるつもりでいるんだ。だからそれまでは、働きながら利き手交換の訓練とリハビリをする。事件から受験まで期間がたったの四か月だけだったし、間に合わなくて当然なんだ。だからさ、そんな気負うことはないし……泣くことだって、ないんだよ」


 秀作の俯いた顔から落ちる雫が、砂を弾いて染み込んでいく。落ちる度に街灯に光り、垂直落下の流れ星のようだ。


 孝里はベンチから立ち上がると、秀作を胸の中へと誘い、抱き締めた。触れてみて、震えているのがわかった。彼の体に降りかかっていた重責が、解けて溶けてなくなってくれればいいのに。その一心で、抱き留める腕に力を込める。秀作の背中には、あの日の傷が痕として残った。孝里は癒すように、慰めるように、秀作の背中を、右腕で撫でた。


「大丈夫、大丈夫。不安にさせちゃってごめんね。悲しんでくれてありがとう。道はまだあるから。探せばどこかで見つかるから。ただ、スタートラインから一万歩手前くらいの位置についただけ」


 すべてが無に帰したわけではない。終わりではない。ただ、スタートラインの一万歩手前から始まっただけ。何かしらの道と、出口は存在しているはずだ。そのために利き手を変える努力を始めたのだ。両刀使いだって、利き腕は片方。訓練次第では流暢に生活も戦闘も熟せるようになる。


「……ごめん」


 鼻を啜る音が聞こえ始めて、次第に引き絞ったかのような堪え切れなった泣き声が洩れて、秀作の涙は本降りになっていった。腰が引っ張らる感触。秀作が衣服を握り締めたようで、少しだけ服が窮屈になった。


「秀作君、ひとつ、約束しない?」

「……約束?」


 秀作は孝里から少しだけ離れた。そして、胸の前で立てられた右手の小指に気付いた。指切りの形だ。

 シチュエーションも季節も時間帯も違うけれど、瑞里と交わした逢魔ヶ時のことを思い出す。夕日は満月に変わり紺碧の夜の中から二人を見下ろしている。


「いつか、同じ戦場に立って戦おう」


 きらきらと、紅玉の双眸が星のように煌く。


「君を、長い間待たせるかもしれない。同じ等級まで、追い付けないかもしれない」


 夢想する。瑞里と再会し、契約して退獄師になり、父を殺す以外に初めて思い描いた未来予想図を。


「だからといって、僕のことを待っておく必要は無い。君は君のペースで進んで行って欲しい。でも僕、絶対に退獄師になるから。だから、君と瑞里と一緒に、いろいろなことに立ち向かっていきたいんだ」


 君さえよければだけど、と尻すぼみになりながら、秀作を伺い見る――眉間にしわを寄せて、眦を釣り上げて、唇をへの字に引き結んで、目に涙を浮かべて、まるで怒っているかのような表情だ。孝里は、流石に烏滸がましかっただろうかと手を下ろそうとした。だが、それよりも早く、秀作が言葉を放つ。


「……信じるぞ、その言葉」


 約束への同意。小指を立てた右手が、ゆっくりと近付けられていく。孝里は慌てて、手を迎えに行く。


「うん、うん……待ってて!」


 結ばれた小指を、薄明に浮かぶ満月が見届けた。


これにて、第一章完結!

今後ともぜひ応援をよろしくお願いいたします!

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