19 廃工場の酔っ払い-天井を這うモノ
――と考えたものの、孝里はすぐにその考えを心の隅に押しやった。この男からは悪穢を感じられない。只人では無い、そんな漠然とした気配は感じている。しかし、第二の鼓動は鳴り続けているのが不思議だった。何よりも孝里を困惑させるのは、この第二の鼓動に不安や恐怖、焦燥や警戒を煽るような感情がまったく感じられないことだ。むしろ、どうしてだろう。この男に逢えて嬉しい、けれども悲しみも感じる。自分のものではない感情や意思が、勝手に心の中に入り込んでくる。
男の両目がじわじわと見開かれ迫力を放つ。無精髭の超絶美人の目力が強い。顔を見られたことがまずかったのだろうか。それならますます反社の可能性が高まって来た。ライトを男に向けているが、自分の顔もぼんやりと照らされているはずだ。逃げても見つけられてしまうかもしれない。え、大丈夫? ここで殺されない? そう怯えていると、
「ぎゃーッ!? すみませんすみませんすみません!」
「……」
男の手が伸ばされる。スマホを奪い取られて通報手段を失った。尻もちをつくと、足の上に男が跨ってどっしりと尻を乗せた。重。孝里を絶対に逃がさないぞという体重の乗せ方だ。上半身を押さえつけられ、ライトを差し向けられて、眩しさに目を瞑る。光と振りかかるであろう暴力から顔を掌で隠すと、男がおもむろに口を開いた。
「そうビビらないでくれ。何もしない。ただ、顔を見せて欲しい」
信じられないものを見た、とばかりに強張った声音だった。いやでも押さえつけられてますし! と尚も怯えていると、そっと掌に男の手が触れた。二枚とも掴まれ、ゆっくりと下ろされていく。孝里は優しい力強さを信じて、恐るおそる目を開く。光が眩しくて薄め目になったが、しっかり男の孔雀青の双眸と目が合った。
男は硬直したまま、孝里を見つめていた。眼差しの奥で、何か別のものも同時に見ているかのように思考の海に沈んでいる。
「――ふうぅっ」
と唸り、顔を伏せる。急激に動いたから吐き気がせり上がって来たのかと、孝里は自分にぶちまけられるのは勘弁だと思いつつ、男の下から抜け出て背中を擦る。
「だ、大丈夫ですか?」
問いかけるものの、男の回答は別物だった。
「お前、俺のこと、知らねえ?」
「え?」
と、問いかけられても、男は顔を伏せてしまっている。男の二枚目を思い出しながら、記憶をまさぐる。これほどまでの美人、しかも傷痕のある顔ならば忘れないはずだ。しかし、見つかるものは何もなかった。
もしかして、指名手配書に載ってるとか!?
孝里は掲示されている指名手配犯の一覧を思い出そうとしたが、そもそも覚えるほど眺めたことはない。
「す、すみません、知らないです……」
男はじっくり十秒ほど孝里を見つめたあと「……そうか」と呟いた。少しの失望と、それを遥かに凌駕する安堵と喜色が滲む声に、この男は自分の身元を隠さねばならない事情がある人物なのだと確信する。やはり、反射の御人か指名手配犯なのだろうか。
となると、である。孝里はヤバい人物を追っかけ、声をかけ、家にまで招くような提案をしてしまった。いくら心配だったからとはいえ、どの行為も迂闊に行ってはいけないものばかりだ。内心で、秀作の罵詈雑言集の中からいくつか抜粋して自分を罵った。
――カタカタカタ……カタカタカタ……
再び硬質な音が連続し、それを紛らせるように窓に風が吹き付けてガタガタ、ドン、ドン、と鳴る。
この音は、ただの家鳴りなのだろうか。しかし、残留している悪穢が不安を煽る。推定反社か指名手配犯と禍身が及ぼす二つの恐怖。廃工場の雰囲気と闇と春遅れの冷たい気温が、さらに孝里の身心を痛めつけた。
孝里はとにかく、この男がどこのどちらさんであろうが、この廃工場から共にでなければと強く考える。何かあってからでは遅い。この男は孝里の部屋の世話になるつもりはないと言っていたのだから、連れ出して、断られるだろうが金を渡して、それから解散でいいだろう。そうなれば永遠のお別れだ。
意を決する。
「あの、ぼくと一緒に出ませんか?」
「……やけに周囲を気にしてるなあ。何かあんのか?」
「い、いえ。ただ僕、こういうところが苦手で。昼間ならいいんですけど……」
「何だよ、気になるじゃねえかよ。教えてくれよ」
腕を引き上げようとする孝里の腕を掴み返して、男は楽しそうな声で問う。竹内といいこの男といい、どうして酔っ払いとはこうも面倒臭いのだろうか! 孝里は天井で何かが蠢いているかのような気配を感じ始めていた。
「いいですから、さあ、早くここから出ましょう」
「わかった! お化けが出るかもしれないって思ってんだろぉ!」
大外れです。お化けよりももっと怖いものがいるかもしれないんです!
最早半泣きになって男の背後に回り、脇の下に腕を通して抱え上げようとした。重。大きな蕪を単独で引き抜くような奮闘の甲斐もなく、男の尻は一ミリも浮き上がってくれない。
「幽霊の類は、禍身に吸収されて消滅しないように、さっさとあの世に逝っちまうから珍しい存在なんだよなぁ。俺も会ってみたいんだけど、全然見つからなくてよぉ……」
「そうなんですね! とにかく出ましょう!」
「えぇ? でも、ここ以外に寝る場所ねえよ」
「それでもここはやめておいた方が絶対に良いです!」
「 ――ほほ 」
嫋やかに女の声が笑った。孝里の胸の中が一瞬にして凍て付く。周囲に女はいないし、こんなところにいるはずもない。何より、声は上から聞こえて来たからだ。おもむろに見上げると、女の顔が澱んだ闇の中に仄白く浮かんでいる。笑みを作る深紅の唇から見えるお歯黒を塗ったかのような歯は、そのすべてが鋭利な牙の羅列。額からは細長い手腕の触覚が生えていて、踊るように揺れている。目に白目は無く、真っ黒。そのため、二つの穴が横並びにぽっかりと空いているように見えた。人間の頭の下は百足の身体だった。妖か? と逡巡して、すぐに否定する。ただの妖は、心身に不調をもたらす気配――悪穢など放たない。生きているからだ。ならば、天井の人面の百足は――禍身。
背中に氷塊が滑り落ちるような感覚がした。いつの間に? 悪穢の濃度に変化は無かった。もしかして、そういう悪穢の質をしているのだろうか。そういうことならば、禍身は二人が廃工場に入った時にはすでに、天井を這っていたことになる。悪穢を隠し、静寂を保って獲物の会話を聞いていた? だとしたら、この禍身は知性が高い。それすなわち、多くの人間を喰い殺してきたことになる。
この廃工場は川沿いの敷地に建っている。移動手段は川だろうか。活動の時間帯は、きっと夜だ。黒い巨体を黒い水に沈めて隠し、手を伸ばして引き摺り込んで捕食していたのだろう。
孝里は、最近川伝いの隣町で行方不明者が連続しているというニュースを思い出した。失踪者全員に共通しているのは、川沿いを通る通勤通学路であること。川底を移動するという考察も当てはまる。その町には退獄組織があり、鈴ヶ谷は管轄外だ。獲物と社の功績を横取りされないよう、相手方からは詳しい話はなかった。禍身の祓除は退獄師や会社の評価に繋がり、会社に国から支払われる資金が向上する。なので、どこも必死になって自分達で禍身を祓除しようと躍起になる。今では狩場となる管轄地への不干渉は、双方にとって暗黙の了解になっていた。良い体制では無い。
禍身の範囲が柳谷町と隣町に及んでいるということは双方知らない。鈴ヶ谷では行方不明者が出ていないので、隣町に潜む禍身の犯行だと思われているはずだ。まさか真犯人の巣穴にのこのこと入り込んでしまうとは、とんだ最悪なミラクルだ。
体長はどれほどなのだろうか。目を走らせるが、すぐに闇に紛れてわからなくなる。しかしきっと、とんでもなく長いはずだ。
男は酩酊して禍身に気付かない。パニックになられるよりかはマシだが、しかし酒のせいで説得が難しそうだ。強引に引っ張って走るしかないが、何しろこの男は重たい。自分の右手では男を全力で引っ張っても、途中で脱力してしまうので困難だ。
「なあ」
男が呑気に声をかけてくる。両腕を掴み、下からとろんとした目で微笑まれている。男にも、孝里の顔以外に天井が見えているはずだ。しかし男は、孝里ばかりを一直線に見つめている。
「やっぱり、一晩泊めてくれるか?」
それはちょっと怖かったが、命には代えられない。孝里は、
「いいですよ!」
と答えた。すると男は、ますます笑みを深めた。子供っぽいようで、しかし色っぽい。内面と外見が対極の印象を与える。男は孝里から離れると四つん這いになってドラム缶に寄り、仕事で必要なのだという謎の毛皮を手繰り寄せ肩にかけた。
「いやあ、助かるぜ。ちょっと状況が変わっちまってよ。ホントにここで寝るつもりだったんだが、流石に汚物の中では眠りたくねえし、何よりお前に逢えた」
男は緩慢に立ち上がった。百九十センチは超えているだろう長躯。孝里も百七十後半にまで身長が伸びて、周囲を少し見下ろすくらいなので、立った人物を顎を上げて見上げるのは久しぶりだった。そしてやはり体が逞しい。
「んじゃ、行こうぜぇ」
「走ってもいいですか!?」
「ちょっと元気になったから大丈夫だ――おぉっと」
孝里は男の手を引いて走り出した。素早く周囲の障害物や、酔いどれの走行が少しでも損ねられないような道筋を闇の中で探すのは、とてつもなく骨が折れる。だが思いのほか、男の足取りはしっかりしていた。実はそこまで酔っ払ってないんじゃないかと疑ってしまうほどに。
禍身は二人の上をぴったりと着いてきていた。ほほ、ほほ、と笑い声が降り注いでくる。何がそんなに面白いのだろうか。逃げても無駄だと馬鹿にしているのかもしれない。禍身は流石罪人の地獄での成れの果てとあって、死んでも醜悪な性格は治らないらしい。
男の様子はというと、先ほどまでの苦しみ様はすっかりなくなり、走っているというのに機嫌が良さそうだ。頭上の死の脅威に気付かないほど鈍感なのか、それとも能天気なのか。
やっと扉が見えて来た。青黒い光が長方形に形作られている。そして禍身も獲物を追うのをそこまでに、長い手腕を伸ばした。生白い指先が、男の頭部に触れようとした瞬間。チャリィン。高く澄んだ金属音を、孝里は鮮明に拾うことができた。
「あっ」
男が何かを落としたらしく、落下物に注意を引かれるように振り返り、しゃがんだことで禍身の手は空振りした。
「あれぇ!? 俺の五百円!? 手持ちの全財産!?」
「諦めてくださいッ! あとで僕が二倍にして――」
「あ、ちげぇな」
――俺の干戈だ。




