18 逃げろ、鮮血が舞おうとも。
ふたりは軽く踵を上げて、すぐにでも攻守共に行動がとれるよう体勢を整えた。その行動の適宜さは流石、少年ながらに退獄師を目指すだけあると感心されことだろう。特に褒めてくれるのは安西に違いないが、ここにはいない。自分たちでこの最悪な状況を切り抜けなければならない。
孝里は、特攻符を木刀から一枚剥いで、画面が砕けて使い物にならなくなったスマホに貼り付けた。これで、木刀に一枚、スマホに一枚と分散される。
「秀作君、ここから出るよ」
「……どうやって」
「隙を作る」
と、声を潜ませるのは、目の前の禍身が言語を解しているからだ。喃語と呂律の回っていない口調の異形ではあるが、素材は人間である。知能が生前よりもいくらか低下していようとも、警戒を喫しておいて損はない。
禍身が両腕を伸ばした。破壊されたはずの片手はやはり再生されていて、血痕に落ち葉や木の枝が貼りついている。
開かれた指が格子のように迫る――禍身の手が、瞬時に我が身を庇えないほどの距離まで迫るのを、孝里は待っていた。
「フッ!」
孝里はスマホを投擲した。狙ったのは、禍身の風船のように巨大な目だ。巨大な目玉は狙いやすくてありがたい。目というものは人体の中でも特に敏感で、衝撃や急接近する物があれば条件反射で過剰に怯んでしまう。当たっても当たらなくとも、孝里はこの反射を利用しない手はなかった。
見事に右目の瞳孔に的中したスマホから赤い雷が綿毛のタンポポのようにバリバリと展開した。特攻符の効果発動。右目から血が弾けて、禍身は絶叫しながら手を自分の目元へと戻していく。
「 ぎゃああぁああぁぁぁあぁあぁぁッ!! 」
孝里は追いかけるように駆け出した。勢いのまま、禍身の無防備な胸元へとタックルして突き飛ばすと、一緒に階から転落した。素早く距離を取って振り返る。これで、出入口は開いた。
「秀作君!」
呼びかければ、秀作が拝殿から飛び出してきた。
「逃げるよ!」
頷いた秀作と共に境内を走り出た。階段を降り、粗い地面の参道を道なりに駆け下りていく。
特攻符は残り一枚。どう使うか、使用の機会が無いことのほうが好ましが、想定しておかざるを得ない。
小さな地鳴りが背後から響いてくる。首だけで振り返ると、禍身が猛スピードで追いかけて来ていた。右目の再生より、孝理と秀作を優先したのだ。顔中をしわだらけにして怒り狂い、唇の両端を長く裂きながら咆哮を上げた。
「 があぁああぁぁあぁあぁああぁあぁあぁっ!! 」
着実に距離を縮めてくる禍身は、あの頭の重いが故の転倒や衝突をする様子もない。可愛い子ぶっていたのか? と孝里は怖気立ち、背骨が冷え、鳥肌が総立ちするのを感じた。
「うわっ!?」
秀作は視界から落ちるように消えた。全力で踏み止まり振り返れば、夜闇に潜んでいた木の根に爪先を取られて転倒した秀作の姿が目に入った。
「秀作君!」
「! い、って……っ」
秀作は苦痛に顔を歪めながら足首を押さえた――捻挫か?
「 うわぁあぁあぁあぁっ うわあぁああぁあぁあぁっ 」
癇癪を起こし、喚きながら迫り来る禍身の黒い影。
孝里は道を戻り、秀作を背後に守り、禍身の前に立ち塞がった。
長い腕が月を払うように振り上げられた。鞭のようにしなりながら振り下ろされた腕を、孝里は横薙ぎにする。特攻符は使わずに、腕力と体重に防御を懸ける。
「ぐッ」
とんでもない負荷が腕にかかる。遠心力やスピードの一撃を単身で逸らすのは、文字通り骨が折れそうだ。掌に木刀の柄が食い込んで激痛が走る。
特攻符を使いたいのが本心だが、襲い掛かる手腕に対して発動してしまうのは勿体ない。狙うべきは、目か足。だがきっと、もう一度目玉に特攻符を発動させるのは不可能に近いだろう。拝殿での作戦で、きっと禍身は学んだはずだ。であれば、残された選択肢は、足。しかし、これがまた、難易度が高い。猛攻する手腕を自分と秀作を守ることで精一杯だ、攻撃に転じるチャンスが無い。
「!」
顔面を潰そうと放たれた真正面からの正拳突きを間一髪で交わす。避けきれたのは幸運だった。まともに喰らえば頭が無くなる。
「秀作君、走れそう!?」
秀作の顔は強張らせていた。足首に沿えた手が震えている。
「ジジイ、先に行け!」
覚悟を決めた顔で秀作は言い放ったが、孝里はズバッと即答で切り捨てた。
「無理! 嫌だ!」
「いいから行けよ! オレが囮に」
「威勢を張るな馬鹿言うな! 僕が友達を囮にして逃げるわけないだろ!? 小学生が抱いて良い覚悟じゃないよそれ!」
「今は綺麗事言ってる場合じゃねぇだろッ!!」
「この状況で綺麗事抜かせる余裕僕には無いよ!」
そして、こんな風に言い合っている余裕も無い。掴み掛って来る手腕を受け流しながらの会話は神経を遣うし寿命が縮まる心地だ。当然、禍身が女児向けキュアキュアアニメの感動シーン中のように会話中に攻撃を止めてくれるわけもなし。孝里も集中力を削がれるしキツイし苦しいし、今にも殺されてしまいそうで、気が立って荒い口調になってしまう。
秀作を相手に怒りをぶつけたのは初めてだった。秀作が口の中の言葉を食いしばっているのがと見えた。
「――ぐッ!」
手の甲に身体を払い飛ばされて、孝里は木に背中を強く叩き付けられた。肺の中の空気がすべて追い出されて、肺が傷み呼吸を阻害される。
「秀作君!」
禍身の手腕が秀作を目掛けて飛び出して行く。走っても間に合わない。
「クソッ」
と、今まで一度も口に出したことのない悪態が自然と夜闇を撃ち抜いた。
特攻符を使う。
秀作君の命が最優先。
走っても間に合わない。
木刀を投げるしかない。
脳みそを思考が掻き混ぜる。木刀を槍投げのように構え、禍身に狙いを定めた時――足元で何かが落下した。見下ろすと、それは《《もしも》》の場合に備えて持ち出して来た短刀だった。
「!」
孝里はすぐさま短刀を拾い上げ、抜刀すると我武者羅に禍身へと投擲した。くるくると回転しながら、刀身に月光が反射している。銀色の輪は禍身の即答へと強い衝撃と共に突き刺さり、ぐらりと頭が傾く。手腕が弛んで、秀作からわずかに離れた。
「 あ へぇ? 」
「ッ!」
禍身の足元目掛けて駆けた孝里は、木刀で左足の付け根を殴打した――特攻符発動。
赤い雷の炸裂。皮膚に稲妻のような裂傷が走り、破裂と共に血肉が飛散した。左足を失った禍身は横向きに激しく転倒した。
付け根から足を欠損させてしまえば、再生への時間がわずかでも延びるはずだ。最後の一枚を使ってしまったが、計画通りと言えよう。
「今のうちに逃げるよ。僕の背中に乗って!」
「……ッ」
秀作は少しの躊躇いのあと、意を決した。状況が状況で、状態が状態だと、背負われることへの羞恥心に見切りをつけてしゃがんだ孝里の背中に飛び乗る。孝里は木刀で秀作の尻を支えながら立ち上がった。
そして、ふと気づく。
(何だ? 禍身が静かすぎる)
横目で一瞥し――「ヒッ」と短く悲鳴を上げた。
「 …… 」
禍身はふたりを見ている。大きな眼球の白目に、徐々に赤い線が浮かび上がっていく。自分の唇を噛み千切って、唇を血塗れにしている。ゾッとするほど静かに、ふたりを見ている。
反射的に、孝里は駆けた――だが遅かった。
「あ"あ"ッ!?」
脳を貫くような秀作の悲鳴。禍身の指先の鋭利な爪が、細い背中を斜めに引き裂いたのだ。
「ッ」
だが孝里は苦しむ秀作を気に掛けることもできずに、逃げ出すことしかできなかった。




