15 信用と偽善、隠し事。
秀作の中でトラウマとして刻み付けられてしまったその出来事は、秀作の孝里に対する言動が少し悪化したことを訝しんだ日華が、秀作と距離を取り始めていた当事者たるクラスメイトに直接話を訊ねに行ったことによって発覚した。クラスメイトが語ったのは退獄師の命を軽んじる発言を省いた自己保身的な経緯だったが、他のクラスメイト達がやんややんやとしっかり彼の発言の補足をし、全貌が判明。自分の父親の命を軽んじる内容でもあったため、当然日華は激怒した。日華は孝里にも詳細を説明し、最近気が立って荒んだ様子の秀作の異変の経緯を知った。
なるほど……最近、怪我をして警戒する野良猫感がやけに増してたのはそういうことか。
人間不信の、手負いの子猫。孝里は、最近の秀作にそんな幻影を重ねて見ていた。しかし、自分だけならばまだしも、幼馴染である日華相手にも毛を逆立てるような剣呑な態度で接するので、学校で何かあったのだろうということは推察していたのだ。しかし、ここまで秀作の心を傷つけるような内容だったとは。普段の言動が顰蹙を集めていたとはいえ、厚意を無碍にされた挙句に知人である退獄師達を軽んじる、命を懸けて守られる立場の一般市民たちの認識を目の当たりにし、深く落胆したことだろう。
そして、怪しむようになった。日華と孝里も、内心ではそう思っているのではないかと。
掠れた吐息を漏らして苦笑した孝里を、秀作が睨んだ。「社長の孫だからって媚び売ってんのか?」そんなバカげた勘違いへの肯定と嘲笑だと受け取られてはたまらないと、慌てて弁解の言葉を走らせる。
「違う違う、違うよ、違う。君に媚び売るなんて、そんなこと思ってないよ。だって僕が君に媚びを売ってどうなるの?」
「どうにもしねえよ」
「そうでしょ? 社長に媚びを売っても同じことだ。社長は真面目で優しいからこそ、近道をしないし、許さない」
「近道?」
孝里は微笑みながら頷いた。
「媚び売って権利や権力を買い、実力に伴わない力を得ることだよ。そんなものはいずれきっと持て余すし、自分を破滅させることになる。自力で強くならないと、正当な評価に自分を守ってもらえなくなるんだ。退獄師なんて、まさにそれでしょう? 偽りの評価を信用されて宛がわれた任務は、当然実力と伴わない。そうすると、どうなる?」
「等級不一致で死ぬ」
「うん。だけどまあ、媚び売ってズルした退獄師達は権力者に守られるから、実力等級以上の任務は任されないだろうね。僕は、あんまり不誠実なことをしたくないんだ。基本的に、最大限、善良な善人でいたい」
「……ハッ。じゃあお前、自己満足でオレに優しくしてくれてんだな。やっぱり自己犠牲的な偽善野郎じゃねえか。いいか、偽善者は、無条件に優しさを振りまいてるわけじゃない。心の中では、同等以上の何かしらの対価を望んでる。物でも気持ちでもな。控え目に傲慢なんだよ、お前みたいな奴らはな。お前、オレに優しくすることで、オレに何を返して欲しいんだよ」
秀作の表情は嘲笑に歪んでいるが、気配や言葉に熱が帯びていた。彼は怒りの炎を少しずつ広げ、盛らせていく。孝里は少し、呆れた心地になった。そしてそれは秀作を見つめる眼差しへと露わになった。
「君は、案外メンタルが強くないよね」
「は?」
「外面は強気なんだけど、内面は繊細っていうか、寂しがり屋っていうか……小生意気な可愛げがあるっていうか」
「はあ!?」
拳を作る秀作の手を掴んだ。何度も悔しさや苦しさ、悲しみや怒りを握り締めてきた、孝里の掌で覆ってしまえるほどに小さな拳。
「まずは、君に媚びを売ることで得られる利益が無いことを、理解してほしいんだ。僕は、他の人の協力を得ながらも、自力で強さや立場を確立させていかないといけないっていう自覚があることもね」
「……」
「それに、これが一番重要なんだけど、僕は……僕と日華ちゃんは別に、何かお返しが欲しいわけでもない」
「じゃあ、何でお前は、何の利益も無いのにオレに関わってくるんだ」
癇癪の滲んだ声音だった。孝里の手を振り払おうと力が込められている。力の源は怒りと悲しみと苦しさで、孝里も年上としての甲斐性を捨てて必死に力を込めた。
喧嘩の全貌を日華から聞いた日、「傷付いたね」と言い合った。それは、秀作が受けた善意への中傷と、親や知人の命を蔑ろにされたことも含まれていたが、一番心に突き刺さったのは、秀作が自分達までも不信していることだった。
「私、秀ちゃんの幼馴染なのに!」と日華は目に涙を滲ませながら憤懣した。
孝里は、寂しくなった。今、ここで、自分が秀作のことを何だと思っているのか、何のつもりで接しているのかを、把握させてやりたいという意欲に満ちた。
「だってさ、僕たち友達じゃないか」
「暴言吐いたり叩いたりする奴が友達だって? お前、ドエム?」
「というわけでもないんだけど。っていうか、自覚あるならもうちょっと僕に優しくしてくれないかなあ。慈愛が欲しい。慈愛が」
「慈愛とかキッッッッショ」
「そこを何とか! そこを何とかさ! 友達で、同じ志を抱く同志として……ね? ……信用、して欲しい」
孝里の懇願を最後に、ふたりは月光の明かりの中で見つめ合った。ずいぶんと目が慣れて、霞のような月明りが広がって、互いの顔がやっと見えるようになった。秀作の目は腫れていて、いつもより目付きが鋭くなっている。服は土で汚れているし、半袖の袖に落ち葉がシンボルマークのように引っ掛かっている。
「……信用できねえよ。テメェ、オレに隠し事してんだろ」
「……」
隠し事。孝里の中で浮かび上がるのは、ふたつの内緒だ。
「おっちゃんには打ち明けてんのに、オレには隠してる。テメェこそオレを信用してないのに、何でそうも傲慢なことが言えるんだ?」
傲慢。さっきも言われた。秀作は言い募る。
「テメェ、不誠実なことはしたくねえって言ったけど、最大限善人でいたいって言ったけど、それってオレ以外に対してか?」
「違う!」
「違わねえよ! 現実! 今! そうだろ!?」
ついに秀作は手を振り払おうと暴れ出した。腕に向かって拳を何度も振り下ろして殴打するものの、孝里は一層握力を込めて抵抗している。秀作は握り込まれた拳が軋む痛みに、顔を歪めて孝里の手首を掴んだ。さらにその手を孝里に掴まれ、完全に拘束される。
だが、孝里はすぐに手を放した。具合が悪そうにぐったりと俯く。事実、具合が悪かった。秀作への罪悪感が天元突破していて、頭痛と吐き気で今にも倒れ込みそうだった。目に溜まった涙が眩暈のように視界を揺らめかせる。見えるものはほとんど月光の中に差した自分の影で暗かったが、それでも目が回るようだった。
――ひとつだけ。
決意。ふたつある秘密のうちの片方を打ち明けよう。そしたら、秀作君は僕のこと、少しは信用してくれるかな。
友達だから、大事にしたい。同志だから、大事にしたい。小学生の頃の友達は全滅した。中学にも友達はいる。自分が地獄顕現災害の生存者だと知ると「汚染者」と呼んで揶揄ってくる生徒から庇い立ってくれる優しい人達。彼らのことも当然、もちろん、確実に大切だ。だが、最終的な目的が共通である秀作のことは、友達としても、同志としても――被害者としても、突出して大事なのだ。
嘘で守れるなら隠し通すつもりだった。欺き続けてでも傷付けたくなかった。だから、安西にひとつの秘密事へ協力してもらったのだ。安西から指導を受ける上で語った退獄師への志望動機。その延長線上で語った、七年前の事実。
秀作の息切れが、やがて落ち着いていく。潜めるような呼吸に変わった時、孝里がおもむろに顔を上げた。




