14 自己肯定感
再び膝立ちになった孝里は、重心を少し前に傾け、また秀作に押されても今度は倒れないように対策をした。ここからは、負けてはいけない。秀作の両親を間接的にでも死なせる原因となった日澄よすがの実子として、自分の正体は明かせない、つまりは嘘を吐かなければいけないという不誠実さを持ちながらも、秀作の心に向き合わなければ。今の問題は今の問題だ。禍身がいつ自分たちを突き止めるかはわからない。不安は続く。だが今は、秀作の心を直接傷付けている張本人として、対面する必要があるのだ。
「僕はね、秀作君」
「……」
「君になら、別に何を言われても、何をされても、全然それでいいと思ってるんだ」
驚愕に秀作の呼吸が詰まったのがわかった。自分で言っておいて何だが、秀作限定のマゾのような発言だったかもしれない。だがそれが、孝里にとって秀作への、どうしようもない本心だ。
「……善人ぶるその性質は、自己肯定感が低いせいか? それとも自己犠牲かよ」
「違うよ。秀作君だからだよ」
鈴ヶ谷秀作も、日澄よすがによる被害者の一人であることは紛れもない。贖罪を兼ねてすべて寛容に許容してきたという自覚もあるが、それとは別で何の打算も抱かずに、秀作が孝里にとって大事な年下の友人だからという理由がある。もちろん、安西日華のことも大事だ。同じくらいに大切な、可愛くて優しい子たち。
彼は孝里の言葉を脳内で吟味して、深読みして、自己解釈の結果に失望したように鼻で嘲笑った。
「……ハッ。オレが社長の息子だからって媚び売ってんのか?」
「……」
(自己肯定感が低いのは君の方じゃないか)
しかし、秀作がそういう事故結論に到達するのも無理はないと思っている。柳谷町を守護する退獄会社【鈴ヶ谷】の創設直系の一族。職員にとっては上司の孫息子。将来的に跡継ぎになるのではないかと町の人々は予想と期待を抱いている。退獄師といえば正義の英雄で、子供たちの憧れ。学校ではよく同級生に囲まれているらしいが、ただ秀作の特権にあやかろうと取り巻いているだけだ。「鈴ヶ谷の秀作君とは仲良くしなさい」「優先的に守ってもらえるように気に入られなさい」などと親から唆されているという。
秀作がそれに気付いたのは、友人だと思っていたクラスメイトと喧嘩した時だった。この夏休み期間突入直前の、終業式の日だ。
鈴ヶ谷秀作という少年は、粗暴で気が強くて口が悪い。だが正義感は強く、心根は繊細で優しかった。前面に出る最悪の要素がそれらを隠してしまっているが、気付く人は気付く。鈴ヶ谷の職員たちは皆大人で、自分の子供がいて、寛大な心を持って子供の心身の扱いに長けている職員が多いので、秀作の内側に気付いている者がほとんどだ。
だが、そのクラスメイトは違った。そしてそれは当然だった。二人は子供同士で、同級生で、心の立場は同等だった。
きっかけは、そのクラスメイトが阿蝉山の裏にある廃村の奥の廃宗教施設に肝試しに行こうと提案したことだった。もちろん、秀作は反対した。退獄会社の孫息子として培ってきた知識の中で、廃村や廃屋などには禍身が潜んでいることがあるという情報がインプットされていたからだ。当然、それは他の子供たちよりも厳戒心が高いということ。
特に、話題に持ち上がったその廃村と廃宗教施設は曰く付きで、大人からは決して立ち入るなと戒められていた。祖父や安西だって、その廃村と宗教施設でかつて起こった事件を説明する時、まるで禍身を相手にする時のような険しい顔をするのだ。そしてふたりは、決まって言う言葉がある。
――帰って来るかもしれない。
――戻って来るかもしれない。
どちらとも、何かの帰来を危ぶむ声色だった。
「何で反対するんだよ」
不満を隠さずにクラスメイトは訊ねた。ランドセルに出題された宿題や筆箱を流し込みながら、秀作は返答する。
「あそこは、危ないってじいちゃんもおっさんも言ってんだ。うちの退獄師たちが巡回しに行くけど、いつもすげえ警戒してるくらいだしな」
「巡回してるならいいじゃん。もしもヤバいってなったら、助けてもらえばいいんだし」
それが退獄師の仕事だろ? と心底不思議な顔をするクラスメイトが気に食わず、秀作は剣呑な目付きに更なる剣をを宿し、横目で睨みつけた。
「逃げ惑って散らばったガキを守りながら戦えって? 馬鹿かよ、状況によっちゃあ何人も死ぬぜ。十体の禍身が出たら? お前は死ぬし、アイツは死ぬし、コイツも死ぬ。お前らの誰かを庇って退獄師や干戈が殺されたらどうするんだよ」
肝試しに乗り気だった同級生たち一人ひとりを指差す。バツが悪そうに顔を逸らしたり、怯んだように瞬きを繰り返したりと様々に反応が上がった。
「お前らは、守られる立場としての責任感が無さすぎる。命懸けで仕事してる退獄師や干戈たちに余計な手間と仕事増やさずに、大勢で遊ぶんならどこか別のトコに行け」
「……」
教室内は気まずい空気に満ちて静まり返った。ちらちらと目配せが行き交い、視線に込められた言葉で会話が交わされている。次第に怯えと不満が秀作に向けられ始めた。言葉はなく、だが視線は剣呑で、迷惑がっている気持ちが明瞭に透いている。
――オレは、場の空気を乱したのか?
冷たい風が心に吹く。だが、間違ったことは言っていない。鈴ヶ谷に勤める退獄師や干戈、忍備役のみならず、クラスメイト達の命と、遺族として残されることになる家族の心を守るためにも必要な言葉だった。それは絶対に、覆らない。
終業式が近付いて、全員で体育館に向かった。夏休み中の注意事項として、クラスの話題に出た廃村と廃宗教施設への立ち入り禁止を特に厳命されて、秀作はやはり自分の正当さを確信しながらも、向けられる敵意に、少しだけ……否、子供サイズで強度の弱い心は傷付いていた。
下校時刻になり、靴箱へ向かうと、教室で言い争ったクラスメイトが数人の友人を連れだってたむろしていた。
「マジで秀作のヤツ、うぜえよな」
聞こえてくる暴言。秀作は足を止めた。
「あーあ。つまんない夏休みになるわ」
「どこにも遊びに行く場所がないから、肝試しに行こうって言ってるのにな」
「そりゃ、危険性はわかってるぜ? でもまだ提案の段階だったじゃん。あんなにキツイ言い方しなくても良いと思わなかった?」
「思った。アイツ、マジで口悪いよな」
「馬鹿にしてるんだろ。自分が鈴ヶ谷の跡取りになるからってさ。あーあ、親に秀作と極力仲良くしろって言われてたから、今までずっと我慢してきたけど、もう無理かも」
靴を履き替えながら、淡々と不満は口々に零されていく。
動悸はしなかった。心臓は凪いでいたが、だが心はうるうると水を纏って波打っていた。
暴言が嫌なのではない。それらはすべて事実だからだ。秀作は言動に気を遣わない代わりに、同様の言動で言い返されても、不満を向けられて陰口を叩かれても、それで平等だと思っている。
ただ、友を守ろうという善意を八つ裂きにされることが苦しくて、痛い。
友だと思っていた相手が、実は親の言い付けで秀作について回っていただけの金魚の糞だったことが、つらくて寂しい。
長く続いた友だちだと思っていた。自分の言動が性悪で粗雑だということは、これまでに何度も指摘されてきたので自覚はある。だからこそ、秀作の性格を受け入れてくれている稀有な存在だと思っていたのに、真実は立場が齎した偽りの恵みだったというわけだ。
心が傷み、熱を持って膿を膨らませる。クラスメイト達が去って、ひとり靴箱の靴を履き替えて校門へと向かうと、見慣れた男女がいるのに気付いた。男は近所の中学校の制服に身を包み、女の方はランドセルを背負っている。
祈瀬孝里と安西日華だ。
クラスメイトの集団に「さよなら」と微笑んで挨拶を交わし合い、そのまま玄関へと視線を流して秀作に気付くと、ふたりはパッと表情を華やかせた。
「秀作君!」
「秀ちゃん!」
おかえり。
早く帰ろう、と手招きをする。じんわりと、傷んで冷めた心が暖かくなって、凪いだ心臓が喜ぶように脈動を速ませた。しかし。
――どうせ、アイツらだって内心ではオレのこと。
傷口に爪を立てて。秀作は自分を戒めた。日華にとって秀作は幼馴染だが、祖父の部下が父親だ。孝里にとっては、退獄師養成学校受験のために世話になっている会社の孫。親や自分の世渡りのために利用されているのではないかという疑心暗鬼が苛む。
当然、安西日華はもちろん、祈瀬孝里には、そんなつもりなど毛頭なのだけれど。




