12 秘密基地:阿蝉神社
阿蝉山全域に禍身の悍ましく不気味な気配が溶けて浸透しているかのようだった。夜の森に満ちる冷徹な暗さが、焦燥と不安を煽って心も体も急き立てる。禍身は今、どこにいるのだろうか。追いかけてきているかもしれない。秀作は無事だろうか。懸念ばかりを考えていると、爪先が硬い物体にぶつかった。片手に掴んだスマホのライトが石造りの階段を照らし、その瞬間バカンと音を立ててライトが消える。肩にまで震動が伝わって、孝里はスマホがおしゃかになったことを悟った。体は段を転がり落ちていく。
「いだだだだ……」
くまなく全身を打ち、よろめきながら起き上がると、鳥居の細いシルエットが見えた。その奥には、薄く光る星と、山の闇よりも数段明るい夜空が見える。月はまだ見えていない。
「さ、参道に出たのか」
落ち葉の積もったガタガタの石段が上へと続いている。孝里は立ち上がり、体中にくっ付いた落ち葉や小枝を払い除ける間も惜しんで石段を駆け上がった。幸い、打撲の痛みはあるものの、捻挫はしていないらしい。よかった、と心の底から思う。捻挫でもしていれば、禍身から遁走するのは絶望的だ。
石段を上り切って鳥居を潜り抜けると、二百坪ほどの境内が広がってる。所々に杉の木が立っているが、最も目を惹くのは石畳の参道の左右に建つ二本の大木だ。枝が連理して門のように構えている。注連縄が融合した枝に巻かれ、紙垂が風に揺れている。ご神木だ。その間から、朽ちて半壊しているものの、質実とした名残の見る影を残す建物が挟まるように見えていた。阿蝉山の廃神社――阿蝉神社の拝殿である。
「着いた……」
完全には安堵できなかった。秀作がこの山にいるという確信はあったが、この本堂に隠れているという確信はなかったからだ。
――どこかなっ? どこかなっ?
闇の中で、宝探しに高揚するかのような禍身の弾んだ声を思い出した。奴は、何かを探していた。その何かが、もしも秀作君だったら? もしも入れ違いにでもなっていたら、と考える。すべての思考と予想がマイナスに、陰に、負の方向へと向かうばかりで、心が辟易とした。
希望を込めて、一歩踏み出す。それからは、スムーズに足が動いた。徒歩から早歩き、それから駆け足へと段階的に転じていき、拝殿の腐った木の階段を飛び越える。
金具は錆び付いて動きが悪いものの、扉は開いた。真っ暗で何も見えないものの、そこにある物はわかる。折りたたみの机や、バーベキューやキャンプで使う布地の椅子、壊れた玩具などだ。どれもこれもが年号が二つほど前の頃に製造された製品の年季ものだった。それは、放棄された粗大ごみではなく、人の手によって整えられた、憩いの場の設備だ。
今の時代は、ゲーム類や漫画、アニメなどが盛況的で、昔ほど家庭内の娯楽に困って外に遊びに行く子供は少なくなった。禍身の出没による子供たちの死傷を減少させるために、国は精力的に家庭内娯楽や遊戯の成長に取り組み、結果成功させている。今や、日本の二次元の産業は世界的に評価されるまでに躍進している。
だが、それ以前の子供世代は屋外に遊びに行くしか娯楽がなかった。柳谷町は田舎町である。ゲームセンターはあれど、どれも有料で、小遣いを貰うしか金銭を得られない子供たちにとっては多大な痛手となる。もちろん公園はあるものの、鬼ごっこや遊具で遊ぶような、子供ながらに子供らしすぎる遊びに興じることに羞恥心を覚える児童も多かった。下級生が増えていくに連れて、ちょっと大人びてかっこつけたくなるものである。それに、全力ではしゃぐには大人の目が邪魔だ。禍身を警戒するあまりに、町ぐるみで子供たちに過保護になり過ぎていた。監視のように誰かが見ている。心配してくれるのは当然ありがたかったし心強かったのだが、子供とは大人の目の届かない場所で心ゆくままに遊びたがるものなのだ。
そこで、この阿蝉神社に目を付けた子供たちがいた。彼らは粗大ゴミの中から有用性がまだ生き残っている家具を集めて、秘密基地を作った。もちろん、神の許しを得ての行動だ。阿蝉神社の氏神は子供の安全を司る神であり、子供好きであった。膝にまで達するほどの長い顎髭を垂らし、狭く小さな本殿でどう過ごしているのかと思う三メートルを超えた身長の翁だったそうだ。穏やかな表情は寛大さと寛容さを映し、神の言葉を聞けば只人は狂ってしまうので、決してそんな悲劇を起こさないように寡黙を貫く神物だったという。
禍身を警戒し、かつて訪れていた人々は寄り付かなくなってしまった。麓で行われていた祭り存在も歴史の川に流され、神主も亡くなったことでより人との交流が褪せ、静かに神の国へと還る日――この世での死を待っていた。だが、朽ちていくばかりの我が家を、ある日子供たちが秘密基地にしたいと申し出てきた。供物に駄菓子や炭酸ジュースを持ち寄って。氏神にとっては、その不敬さは衝撃的で、新鮮で、そして子供たちの無垢な爛漫さが面白く、愛おしかった。
氏神は拝殿を開放した。そして、子供たちはチマチマと秘密基地を作り上げていったのである。年月が経ち、秘密基地を作り上げて大人へと成長した子供たちを筆頭に、信仰を捧げられた氏神は少しずつ力を取り戻し、人々が禍身の脅威から守られるようにと山を結界で覆った。子供たちの秘密基地は遊び場としても避難所としても機能した。数十年間、その秘密基地は子供たちの間で連綿と引き継がれていった。
だが、事件が起こった。ある日、阿蝉山で御神骸――つまり、阿蝉神社の氏神の遺体が発見されたのである。自然死などではなかった。氏神は八つ裂きにされて、杉の木や御神木、殿の屋根など、境内の至る所にばら撒かれていた。有事の際には、禍身を弾く結界まで展開していた。羆や妖でも氏神を殺すことは不可能であるはずだった。となれば、結界よりも強力な力を持つ禍身、もしくは――擬えの神か。
犯人が何者であっても、氏神は殺され守護の結界は壊れた。山から人々を守る力は失われ、神を殺す何者かの再来や潜伏を恐れて、再び阿蝉山には人が近寄らなくなった。境内は荒廃し、人の記憶から褪せ、そして神社は死んだのである。
だが数十年後、あの日々の子供が訪れることがあった。その子供は大人になり、やがて一人の少年を思い出話がてらに連れて来た。将来退獄師を目指す就職先の社長の子供に、自分が退獄師を目指した理由を。その大人の名は、安西昇――彼は、御神骸の第一発見者だった。




