10 阿蝉山を歩む音
若年世代の都会進出により、過疎化が進み高齢化が問題視されている柳谷町の中でも、阿蝉山の麓は特に老朽としていた。コンクリート材料で立つ家屋は少なく、倍以上建つ木造建築も、家主を喪って管理者もおらず、枯れるように崩れていた。老衰した地区という印象を、孝里はいつも抱いていた。
華やかな校舎やお洒落な制服に憧れたり、高い進学率や就職率など現実的な魅力に惹かれて進学する者。地元の高校を卒業しても、低賃金のくせして労働を強要させる田舎会社や、娯楽の少ない環境で休日に体力を使って遊び場まで運転する気力を忌まわしんで町を離れる者。そうやって、人々は町を寂れさせていく。若者の意欲の方向も、憧れの種類も、現実感もさまざまだ。
しかし、確かに進学や就職も理由には上がるのだが、この麓の過疎化の理由は、また別の現実的な理由があった。それは、鈴ヶ谷の存在である。人々は、退獄会社が存在する地域にこぞって住みたがる。それは自己防衛のためであり、それによりこうして捨て去られる地域が発生してしまうのは、生存本能を優先するにあたって仕方のないことだ。この阿蝉山の麓にも、廃墟と化した建物の多さから、昔はそれなりに多くの人々が住んでいたのだろう。畦道で田畑の輪郭が見える。生い茂っているのは野草ばかりだ。
鈴ヶ谷は、現社長である優作が移住して設立した。柳谷町の歴史上、まだ創設五十五年の若い会社だ。柳谷町に分散していた人々が、退獄社【鈴ヶ谷】が設立したことにより一極集中。よって、町内で過疎地域のと人口集中地域の差が激しくなった。人口が集中すれば、ライフラインが充実する。退獄社【鈴ヶ谷】は、老人たちからは地元を老廃させた恨みを抱かれてもいるが、町の振興と禍身への以前よりも加速した対応速度への感謝の念も抱かれている。
阿蝉山は川向かいに聳えており、人の領域と人外の領域を隔てる川には、苔が蔓延る石像のアーチ橋が掛かっていた。孝里は自転車で渡り切ると、舗装道路と落ち葉の積み重なる山道の分かれ道に直面した。足が止まり、孝里は山の内部を訝しんで見つめる。
道がわからないのではない。秀作を迎えに、何度か訪れたことがある。だが、孝里の胸の内に湧き上がる正体不明の感覚があった。それは、本能が感じているのか。それとも、顔馴染みの気配を察知した阿蝉山の警告か。とにかく――
「何だろう。すごく、嫌だ」
形態が無く、形容のしようの無い不安。空はまだ赤さを残すが、生い茂った樹冠がそれを塞ぎ、か細い光の筋が降り注ぐ以外には暗く、聴覚が捉えるのは風に撫でられる木々の葉のざわめきと、町内を駆け巡る警報。肌は何だかピリピリと刺すものがあって、異様さを知らしめる。普段、夜の山に近付くことがないので、これが阿蝉山の夜を目前にした姿なのかと思うが、どうにも拭い切れない不穏な違和感がある。
樹冠の影に濃い夜闇に触れたからか、耳の中を脈打つようなヒグラシの歌声は止み、けれども地を跳ねる虫の鈴のような声も無く、鴉でさえも嘴を噤んでいる。阿蝉山全体が静寂に押さえつけられているかのようだった。
「……ッ」
孝里は生唾を飲み、特攻符を貼った木刀を握り締めた。貼られている枚数は三枚。小規模かつ戦績を残せていない鈴ヶ谷が国から受け取ることのできる成績給付金は安く、他に入り用な物品もあるので高価な特攻符を多く仕入れることができない。つまり、有事の際は三枚でどうにかしなければならない。いくら安西に防戦一方だったとはいえ近接する実力者だと鈴ヶ谷の退獄師たちに認められても、実戦でどうなるかは予想できない。
慢心は死のきっかけ。常に警戒して、安全を確保しつつ、秀作君を発見する。
内心で自分を戒め、山道を選び、入り口の端に自転車を乗り捨てるとなだらかな斜面を駆け上がった。
日中は青緑の光を放つかのような瑞々しい青葉の木々も、その表面に影が覆い纏わりついている。スマホのライトを付けて足元を照らしながら、いくつかの古寂びた鳥居を潜り抜けているうちに、自分がすでに境内の参道を駆けていることに気付いた。いつもと違う風景で、どこまで進んでいるのかわからない。分かれ道を間違った方向に進みでもしたら、秀作の保護が遅れてしまう。
参道といっても、舗装されておらず、昔の人々が木々を伐採して踏み均していった道が続いている。地面からひょっこりと突き出た石に躓かないようしなければ。廃寺の境内は広く、阿蝉山のほとんどを占めている。山のあちこちに宝蔵庫や護摩堂、経堂があり、そこへ向かうための細い道がある。
孝里が目指すのは、本堂だ。参道を忠実に進むことが、一番の近道にもなる。
――どくん。
「……?」
孝里は、自分の胸の中が拍動したのを感じた。だがそれは、自分の心臓とは違う臓器――まるで、他人の心臓の拍動を感じたかのような不思議な感覚だった。
体内の異変に気を取られていると、耳の中に入り込む音に気付き遅れた。慌てて立ち止まって屈み、耳を澄ませる。
ごつ、ざわざわ。ごつ、ざわざわ。何かがぶつかり、木が揺れている。秀作君が気に八つ当たりでもしているんだろうか、と、孝里は考えてすぐさま霧散させた。禍身出現警報が未だ発令中の今、そんな不用心な真似をあの子がするとも思えなかったし、何より、幹にぶつかる一撃の音が重たい。秀作にそんな力はないし、だとすれば、別の何者かの仕業だ。
木の幹に隠れ、音の方向へと顔を出す。そちらへとスマホのライトを向けた。
「っ!!」
孝里はスマホのライトを切って、幹に顔を引っ込めた。ごつ、ざわざわ。ごつ、ざわざわ。孝里は、鳴り続ける音の正体を知った。それは――巨大な頭を幹に打ち付けながら山を歩む、禍身が鳴らす音だったのだ。




