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43歳、あなたがいない世界で

作者: 星路樹
掲載日:2025/07/01

 朝の光が薄く差し込む部屋の中で、川崎はぼんやりと鏡の前に立っていた。

 鏡に映った自分の顔は、疲れて見えた。少し膨らんだ腹、落ちた肩、そして歳を重ねた肌。


「また一つ、歳を取ったんだな…」

 43歳の誕生日の朝。


 彼の胸に、ぽつりとひとつの言葉が浮かぶ。

「霧島さんが生きた年齢を、俺は超えてしまった」


 その名前を口に出すのは、まだ慣れなかった。

 だが、子供の頃から憧れ、夢中で追いかけた伝説のクリエイター、霧島。

 彼は、42歳という若さで、彼はこの世を去った。


「いつか一緒に仕事ができると思ってたのに」

 川崎は目を閉じ、震える声で呟いた。


 あの日届いた訃報は、まるで夢のようだった。

 まだ新作の企画も詰めていたはずなのに、突然の心疾患――生活習慣病に起因するメタボが、彼の命を奪った。


 川崎自身も、思い当たる節があった。

 不規則な生活、ジャンクフードばかりの食事、運動不足。


「このままじゃ、俺も…」


 彼はその日、決心した。

「霧島さんが生きられなかった命を、無駄にしないために、俺は変わろう」


 そうして、川崎の新しい一日が始まった。


 

 川崎はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。中にはコンビニ弁当や甘い菓子、缶コーヒーが乱雑に並んでいた。

「これじゃだめだ…」と自分に呟き、まずは冷蔵庫の中身を整理し始めた。


 スマホを手に取り、健康診断の結果を見返す。医師からの「メタボ予備軍です」という文字が目に刺さる。

「まだ間に合うかもしれない」


 その日から、川崎は少しずつ生活を変え始めた。

 ジョギングは最初の数分で息が切れ、食事制限は辛く感じた。


 だが、あの霧島の姿を思い出すと、諦めるわけにはいかなかった。


「俺も生きるために、動かなきゃ」


 苦しくても、孤独でも、川崎の決意は揺るがなかった。


 川崎は夜、ひとり机に向かっていた。

 薄暗い部屋に灯るデスクライトの下、古びたノートパソコンの画面には、霧島の代表作のタイトルが映っている。


 子供の頃、テレビや雑誌で見た霧島は、まるで星のような存在だった。

 煌めき、そして手の届かない人。


「憧れていたのに…」


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 それは、単なる尊敬以上の感情だった。

「いつか、俺も彼のようになりたい」

 その想いだけが、編集者としての彼を支えてきた。


 けれど今、43歳になった自分がそこにいる。

 霧島は42歳でこの世を去った。


「俺は、彼を超えたんだ」


 その数字が、川崎の心に刺さった。

 嬉しいはずなのに、どこか切なく、寂しい。


「憧れの人を超えたけど、俺はまだ…」


 体も心もだらしなく、まだまだ追いつけていない。

 このままじゃ、ただの“追いかけるだけの人”で終わってしまう。


 川崎は固く拳を握りしめた。

「俺は、変わる」


 憧れの人の命の重さを胸に、

 今度こそ、自分の人生を生きるために。


 

 川崎は出版社の会議室で資料をまとめていた。

 編集部の新企画に関する打ち合わせのため、外部からクリエイターのマネージャーが来ることになっていたのだ。


 ドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。

 落ち着いた雰囲気で、控えめながらも芯の強さを感じさせる。


「川崎さん、はじめまして。霧島の妻の美咲です」


 その名前を聞いた瞬間、川崎の心臓が少しだけ早く打った。

 あの霧島の妻だと、直感でわかった。


「はじめまして、美咲さん。お会いできて光栄です」


 川崎は深く頭を下げた。

 直接お会いするのは初めてだったが、彼の話を聞くうちに、次第に霧島という人の輪郭が浮かび上がってきた。


 打ち合わせ後、二人はコーヒーを飲みながら静かに話を続けた。


「夫は本当に仕事が好きで、誰よりも一生懸命でした。でも、健康のことはあまり気にしなかったのです」


 美咲の声は柔らかかったが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。


 川崎は黙って頷きながら聞いていた。

「彼が亡くなったとき、僕も初めて本当の意味で霧島さんを知った気がします」


「そうですね。彼は弱さを見せることができなかった。だから、最後は誰も助けられなかったのかもしれません」


 二人の間に、静かな共鳴が生まれた。


 川崎はふと、自分の生活を振り返る。

「僕も変わらなければいけませんね」


 美咲は微笑みながら、優しく頷いた。

「ええ、誰でも変われます。あなたがそう決めたなら、きっと大丈夫」




 川崎は美咲と別れてから、自分の部屋に戻った。

 ふと手に取った霧島の自伝本。ページをめくる指先が震えた。

「こんなにも輝いていたのに…」


 その夜、川崎はベッドに横たわりながら思った。

「俺は、このままでいいのか?」


 生活は乱れ、体も重い。

 仕事のストレスと年齢のせいにして、見て見ぬふりをしてきた自分の身体。


 ふとスマホを見ると、健康診断の結果が目に入る。

「メタボ予備軍」——文字が、胸を締めつけた。


「霧島さんは、こんな数字に怯えている暇もなかったんだろうな…」


 決意が胸に芽生えた。


「俺も変わろう。彼の命を無駄にしないために。」


 翌朝、川崎はカーテンを開けて新しい一日を迎えた。

 心の中に、静かな覚悟が灯っていた。


 


 翌朝、川崎は久しぶりにジョギングウェアに袖を通し、外へ出た。

 まだ肌寒い空気に胸がざわつく。足取りは重く、数歩進むごとに息が上がった。


「こんなに動けなかったっけ…」


 でも、霧島のことを思い出すと、自然と足が前へ進む。

 あの人は自分の身体を犠牲にしてまで創作に没頭した。


「俺は自分のために走るんだ」


 汗が額を伝い、呼吸は荒くなるが、川崎の心には小さな光が灯っていた。


 帰宅後は、冷蔵庫を開けて手に取るものも変わった。

 野菜を中心にした食材を選び、加工食品や甘いものは控えめに。


 孤独な戦いだと思ったが、ふとスマホに届いた美咲からのメッセージに救われる。


「無理しすぎないでね。あなたならできるから」


 その言葉に、川崎は小さく微笑んだ。


「ありがとう。必ず変わってみせるよ」


 


 日々のジョギングは続いた。最初は数百メートルで息が切れたが、少しずつ距離が伸びていく。

 しかし、心の奥にはまだ不安があった。

「本当に変われるのだろうか…?」


 ある晩、川崎は再び美咲からの電話を受けた。

 優しい声が電話の向こうから響く。


「川崎さん、無理しすぎていませんか?体調は大丈夫?」


 川崎は苦笑いしながら答えた。

「正直、キツいです。でも、霧島さんのことを思うと、諦めたくないんです」


 美咲は静かに言った。

「彼もきっと、あなたが変わる姿を見て喜んでいると思いますよ」


 その言葉に、川崎の胸に温かな力が湧いた。


「ありがとう、美咲さん。あなたの言葉が何よりの支えです」



 霧島という名前を初めて見たのは、まだ自分が高校生だった頃だ。

 週刊誌の巻頭特集、「この男が未来を描く」。目にした瞬間、胸を衝かれた。


 派手な言葉を使わず、静かで硬質なインタビュー記事だった。

 でも行間から滲んでくる熱は、どの若手クリエイターよりも強かった。


 ──この人になりたい。


 それが、川崎俊の中で初めて芽生えた“目標”だった。

 そして、編集者になった理由でもあった。


 けれど43歳になった今、その霧島はこの世にいない。

 亡くなったのは、12年前。享年42。


 知った時は、深くは息ができなかった。

 その訃報が胸に刺さって、取れなくなった棘のように今も残っている。


 そして今年、自分がその“憧れの人の年齢”を超えたのだ。




 朝、カーテンを開ける。

 差し込んだ光は、まるで日常に何の変化もないように部屋を照らした。


「お前は超えたんだよ。霧島を」


 口に出してみたその言葉に、川崎は自分で苦笑した。

 数字だけの話だ。霧島の功績、影響力、誰かの心を動かす力──そのどれも、自分には到底届かない。


 それでも、時間は等しく進む。誰かの死にも、憧れにも関係なく。


「……行くか」


 川崎は、初めて買ったジム用のシューズを履いた。

 靴紐を結びながら、ふと、胸の奥で何かが小さく弾ける音がした。




 ジムの入り口は、思っていたより明るかった。

 受付で簡単な案内を受け、ロッカールームへ向かう。


 脱いだシャツの下に現れた腹に、目をそらしたくなる。

 健康診断の「メタボ予備軍」という赤文字が脳裏をよぎる。


 ──霧島の死因は、生活習慣病が重なった末の急性心不全だった。


 ストレス、過労、そして、たぶん無関心。

 自分の身体がどうなっているかなんて、きっと最後まで考えていなかったんだ。


 でも、その姿が痛いほど自分と重なった。

 何かを創ることでしか存在を証明できない。そんなふうに自分を削って、進み続けることしかできない人間だった。




 トレーナーに軽く案内されながら、ウォーミングアップを始めた。

 ランニングマシンの上で早歩きを始めると、すぐに脈が上がる。


「はぁっ、……はっ……」


 たった5分。だが、ふくらはぎが悲鳴を上げた。

 ジムの鏡に映る自分は、想像以上に疲れた顔をしていた。


「やっぱ、無理じゃないか……?」


 そう思った瞬間、脳裏に霧島の姿が浮かんだ。

 目の下に深い隈をつくり、締め切りに追われながらも妥協を許さなかった、あの写真。


 あの人は、追い込むことでしか生きられなかった。


 ──じゃあ俺は?


 息を吐き、川崎はマシンのスピードをほんの少しだけ上げた。

 自分の人生を、自分で生きるために。




 帰り道、夕暮れの空が淡いオレンジ色に染まっていた。


 何も変わっていないように見える街並みが、どこか新鮮だった。

 汗をかいたせいか、空気が澄んでいるようにも感じられる。


 家に戻ると、冷蔵庫を開けた。

 中には買いだめしたコンビニ弁当と缶ビール。

 その手前に、昨日買ったばかりの無糖ヨーグルトとサラダチキン。


「……じゃあ、今日はこっちで」


 自分でも驚くくらい自然に、健康的な方を手に取っていた。




 夜。ソファに体を沈めて、ふと天井を見上げた。


 霧島はもうこの世界にいない。

 彼が残した作品と、わずかな記録だけがこの世に残っている。


「俺は、あなたを超えたんじゃない。ただ、生き残っただけです」


 誰に聞かせるわけでもないその言葉が、胸の奥でしずかに溶けていった。


 でもそれでも、生きている者には、まだ選べる時間がある。

 遅くない、と言えるうちは、遅くないのだ。




 川崎は翌朝もジムへ向かった。

 身体は重い。だけど、昨日よりほんの少しだけ、足取りが軽かった。


 そして、霧島のいない世界で、生きていく覚悟を、少しずつ整えていった。


 俺はあの人がいない世界で生きていく──




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