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43歳、あなたがいない世界で

作者: 星路樹

 朝の光が薄く差し込む部屋の中で、川崎はぼんやりと鏡の前に立っていた。

 鏡に映った自分の顔は、疲れて見えた。少し膨らんだ腹、落ちた肩、そして歳を重ねた肌。


「また一つ、歳を取ったんだな…」

 43歳の誕生日の朝。


 彼の胸に、ぽつりとひとつの言葉が浮かぶ。

「霧島さんが生きた年齢を、俺は超えてしまった」


 その名前を口に出すのは、まだ慣れなかった。

 だが、子供の頃から憧れ、夢中で追いかけた伝説のクリエイター、霧島。

 彼は、42歳という若さで、彼はこの世を去った。


「いつか一緒に仕事ができると思ってたのに」

 川崎は目を閉じ、震える声で呟いた。


 あの日届いた訃報は、まるで夢のようだった。

 まだ新作の企画も詰めていたはずなのに、突然の心疾患――生活習慣病に起因するメタボが、彼の命を奪った。


 川崎自身も、思い当たる節があった。

 不規則な生活、ジャンクフードばかりの食事、運動不足。


「このままじゃ、俺も…」


 彼はその日、決心した。

「霧島さんが生きられなかった命を、無駄にしないために、俺は変わろう」


 そうして、川崎の新しい一日が始まった。


 

 川崎はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。中にはコンビニ弁当や甘い菓子、缶コーヒーが乱雑に並んでいた。

「これじゃだめだ…」と自分に呟き、まずは冷蔵庫の中身を整理し始めた。


 スマホを手に取り、健康診断の結果を見返す。医師からの「メタボ予備軍です」という文字が目に刺さる。

「まだ間に合うかもしれない」


 その日から、川崎は少しずつ生活を変え始めた。

 ジョギングは最初の数分で息が切れ、食事制限は辛く感じた。


 だが、あの霧島の姿を思い出すと、諦めるわけにはいかなかった。


「俺も生きるために、動かなきゃ」


 苦しくても、孤独でも、川崎の決意は揺るがなかった。


 川崎は夜、ひとり机に向かっていた。

 薄暗い部屋に灯るデスクライトの下、古びたノートパソコンの画面には、霧島の代表作のタイトルが映っている。


 子供の頃、テレビや雑誌で見た霧島は、まるで星のような存在だった。

 煌めき、そして手の届かない人。


「憧れていたのに…」


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 それは、単なる尊敬以上の感情だった。

「いつか、俺も彼のようになりたい」

 その想いだけが、編集者としての彼を支えてきた。


 けれど今、43歳になった自分がそこにいる。

 霧島は42歳でこの世を去った。


「俺は、彼を超えたんだ」


 その数字が、川崎の心に刺さった。

 嬉しいはずなのに、どこか切なく、寂しい。


「憧れの人を超えたけど、俺はまだ…」


 体も心もだらしなく、まだまだ追いつけていない。

 このままじゃ、ただの“追いかけるだけの人”で終わってしまう。


 川崎は固く拳を握りしめた。

「俺は、変わる」


 憧れの人の命の重さを胸に、

 今度こそ、自分の人生を生きるために。


 

 川崎は出版社の会議室で資料をまとめていた。

 編集部の新企画に関する打ち合わせのため、外部からクリエイターのマネージャーが来ることになっていたのだ。


 ドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。

 落ち着いた雰囲気で、控えめながらも芯の強さを感じさせる。


「川崎さん、はじめまして。霧島の妻の美咲です」


 その名前を聞いた瞬間、川崎の心臓が少しだけ早く打った。

 あの霧島の妻だと、直感でわかった。


「はじめまして、美咲さん。お会いできて光栄です」


 川崎は深く頭を下げた。

 直接お会いするのは初めてだったが、彼の話を聞くうちに、次第に霧島という人の輪郭が浮かび上がってきた。


 打ち合わせ後、二人はコーヒーを飲みながら静かに話を続けた。


「夫は本当に仕事が好きで、誰よりも一生懸命でした。でも、健康のことはあまり気にしなかったのです」


 美咲の声は柔らかかったが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。


 川崎は黙って頷きながら聞いていた。

「彼が亡くなったとき、僕も初めて本当の意味で霧島さんを知った気がします」


「そうですね。彼は弱さを見せることができなかった。だから、最後は誰も助けられなかったのかもしれません」


 二人の間に、静かな共鳴が生まれた。


 川崎はふと、自分の生活を振り返る。

「僕も変わらなければいけませんね」


 美咲は微笑みながら、優しく頷いた。

「ええ、誰でも変われます。あなたがそう決めたなら、きっと大丈夫」




 川崎は美咲と別れてから、自分の部屋に戻った。

 ふと手に取った霧島の自伝本。ページをめくる指先が震えた。

「こんなにも輝いていたのに…」


 その夜、川崎はベッドに横たわりながら思った。

「俺は、このままでいいのか?」


 生活は乱れ、体も重い。

 仕事のストレスと年齢のせいにして、見て見ぬふりをしてきた自分の身体。


 ふとスマホを見ると、健康診断の結果が目に入る。

「メタボ予備軍」——文字が、胸を締めつけた。


「霧島さんは、こんな数字に怯えている暇もなかったんだろうな…」


 決意が胸に芽生えた。


「俺も変わろう。彼の命を無駄にしないために。」


 翌朝、川崎はカーテンを開けて新しい一日を迎えた。

 心の中に、静かな覚悟が灯っていた。


 


 翌朝、川崎は久しぶりにジョギングウェアに袖を通し、外へ出た。

 まだ肌寒い空気に胸がざわつく。足取りは重く、数歩進むごとに息が上がった。


「こんなに動けなかったっけ…」


 でも、霧島のことを思い出すと、自然と足が前へ進む。

 あの人は自分の身体を犠牲にしてまで創作に没頭した。


「俺は自分のために走るんだ」


 汗が額を伝い、呼吸は荒くなるが、川崎の心には小さな光が灯っていた。


 帰宅後は、冷蔵庫を開けて手に取るものも変わった。

 野菜を中心にした食材を選び、加工食品や甘いものは控えめに。


 孤独な戦いだと思ったが、ふとスマホに届いた美咲からのメッセージに救われる。


「無理しすぎないでね。あなたならできるから」


 その言葉に、川崎は小さく微笑んだ。


「ありがとう。必ず変わってみせるよ」


 


 日々のジョギングは続いた。最初は数百メートルで息が切れたが、少しずつ距離が伸びていく。

 しかし、心の奥にはまだ不安があった。

「本当に変われるのだろうか…?」


 ある晩、川崎は再び美咲からの電話を受けた。

 優しい声が電話の向こうから響く。


「川崎さん、無理しすぎていませんか?体調は大丈夫?」


 川崎は苦笑いしながら答えた。

「正直、キツいです。でも、霧島さんのことを思うと、諦めたくないんです」


 美咲は静かに言った。

「彼もきっと、あなたが変わる姿を見て喜んでいると思いますよ」


 その言葉に、川崎の胸に温かな力が湧いた。


「ありがとう、美咲さん。あなたの言葉が何よりの支えです」



 霧島という名前を初めて見たのは、まだ自分が高校生だった頃だ。

 週刊誌の巻頭特集、「この男が未来を描く」。目にした瞬間、胸を衝かれた。


 派手な言葉を使わず、静かで硬質なインタビュー記事だった。

 でも行間から滲んでくる熱は、どの若手クリエイターよりも強かった。


 ──この人になりたい。


 それが、川崎俊の中で初めて芽生えた“目標”だった。

 そして、編集者になった理由でもあった。


 けれど43歳になった今、その霧島はこの世にいない。

 亡くなったのは、12年前。享年42。


 知った時は、深くは息ができなかった。

 その訃報が胸に刺さって、取れなくなった棘のように今も残っている。


 そして今年、自分がその“憧れの人の年齢”を超えたのだ。




 朝、カーテンを開ける。

 差し込んだ光は、まるで日常に何の変化もないように部屋を照らした。


「お前は超えたんだよ。霧島を」


 口に出してみたその言葉に、川崎は自分で苦笑した。

 数字だけの話だ。霧島の功績、影響力、誰かの心を動かす力──そのどれも、自分には到底届かない。


 それでも、時間は等しく進む。誰かの死にも、憧れにも関係なく。


「……行くか」


 川崎は、初めて買ったジム用のシューズを履いた。

 靴紐を結びながら、ふと、胸の奥で何かが小さく弾ける音がした。




 ジムの入り口は、思っていたより明るかった。

 受付で簡単な案内を受け、ロッカールームへ向かう。


 脱いだシャツの下に現れた腹に、目をそらしたくなる。

 健康診断の「メタボ予備軍」という赤文字が脳裏をよぎる。


 ──霧島の死因は、生活習慣病が重なった末の急性心不全だった。


 ストレス、過労、そして、たぶん無関心。

 自分の身体がどうなっているかなんて、きっと最後まで考えていなかったんだ。


 でも、その姿が痛いほど自分と重なった。

 何かを創ることでしか存在を証明できない。そんなふうに自分を削って、進み続けることしかできない人間だった。




 トレーナーに軽く案内されながら、ウォーミングアップを始めた。

 ランニングマシンの上で早歩きを始めると、すぐに脈が上がる。


「はぁっ、……はっ……」


 たった5分。だが、ふくらはぎが悲鳴を上げた。

 ジムの鏡に映る自分は、想像以上に疲れた顔をしていた。


「やっぱ、無理じゃないか……?」


 そう思った瞬間、脳裏に霧島の姿が浮かんだ。

 目の下に深い隈をつくり、締め切りに追われながらも妥協を許さなかった、あの写真。


 あの人は、追い込むことでしか生きられなかった。


 ──じゃあ俺は?


 息を吐き、川崎はマシンのスピードをほんの少しだけ上げた。

 自分の人生を、自分で生きるために。




 帰り道、夕暮れの空が淡いオレンジ色に染まっていた。


 何も変わっていないように見える街並みが、どこか新鮮だった。

 汗をかいたせいか、空気が澄んでいるようにも感じられる。


 家に戻ると、冷蔵庫を開けた。

 中には買いだめしたコンビニ弁当と缶ビール。

 その手前に、昨日買ったばかりの無糖ヨーグルトとサラダチキン。


「……じゃあ、今日はこっちで」


 自分でも驚くくらい自然に、健康的な方を手に取っていた。




 夜。ソファに体を沈めて、ふと天井を見上げた。


 霧島はもうこの世界にいない。

 彼が残した作品と、わずかな記録だけがこの世に残っている。


「俺は、あなたを超えたんじゃない。ただ、生き残っただけです」


 誰に聞かせるわけでもないその言葉が、胸の奥でしずかに溶けていった。


 でもそれでも、生きている者には、まだ選べる時間がある。

 遅くない、と言えるうちは、遅くないのだ。




 川崎は翌朝もジムへ向かった。

 身体は重い。だけど、昨日よりほんの少しだけ、足取りが軽かった。


 そして、霧島のいない世界で、生きていく覚悟を、少しずつ整えていった。


 俺はあの人がいない世界で生きていく──




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