芦屋乃彩とランチ
芦屋乃彩27歳、覆面作家。
「芥川賞受賞を果たした覆面作家、月海彩つきうみあやという肩書きがありながらも、大阪市梅田ファッションビルLUCUAの9Fブック&カフェに併設されているスターバックス蔦屋書店でアルバイトをしながら、平凡な日常を過ごす趣味のない独身」
芦屋翔21歳、大学3年生。
「最近、箕面市の実家が無くなり両親は海外旅行へ旅立つ。今年の秋から、新大阪駅付近に姉が購入した2LDKの分譲マンションへ居候することになったゲーム、漫画、アニメが好きな大学生」
11月14日の木曜日。スターバックス蔦屋書店で一緒にアルバイトをしている瀬戸颯太君と、LUCUA屋上の風の広間で待ち合わせをしている。12時15分。約束の15分前に約束の場所に到着する。
「あれ、乃彩さん早いですね!お待たせしました」
「今来た所やで」
「うわー今日可愛いですね、カーディガン女子好きなんですよ」
「ありがとう。行こか」
「はーい、何食べますー?」
「何でもええけど、希望はある?」
「うーん、お洒落なの食べましょうよ」
「私そういうの疎いから決めてええよ」
「ほんまに何でもいいんですか?」
「ええよ」
LUCUA10FにあるLUCUADININGを歩く。瀬戸君は真剣に店を選んでいるが、私はラーメン屋が視界に入るともはやその口になっていた。お洒落なの食べましょうもよく分からない。
「うーん、牛タンはどうですか?」
「ええよ」
瀬戸君のお洒落レーダーは牛タン東山に反応したらしい。東山はランチにしては微妙に高いが、美味しいものを食べたいなら安牌の店である。
「2名様ですね、こちらへどうぞ」
「ここ久しぶりに来ました」
「私も」
「ご注文決まりましたらお呼びください」
「うわー悩みますねー、乃彩さん決まりました?」
「東山定食」
「僕もそうしますーっ」
注文を済ませて待つ。お冷を飲みながら特に話すこともない。なんだか瀬戸君が私に好意を抱いてくれていることを申し訳なく思えてきた。
「なんか、秋がないですよねー」
「今秋やで」
「でも、今日なんか暑いくらいですよ。先週は冬か!ってくらい寒かったのに」
「それいつも思うけど、暑いというても真夏ほどじゃない、寒いと言うても真冬ほどじゃない今を秋と言うねん」
「うーん、確かに」
「春も同じくな」
「あの、乃彩さんって彼氏さんとかいますか?」
「おらん」
「どんな人がタイプなんですか」
「私、面食いやねん」
「ええ!意外ですね、芸能人で言うと誰ですか?」
「トム・クルーズ」
「僕ちょっと似てません?」
「どこが」
「眉とか」
「似てないで」
「ハッキリ言い過ぎやと思います」
東山定食が2つテーブルに運ばれる。瀬戸君は何かと感想を述べながら食べていた。
「ごちそうさまでした」
「めちゃウマでしたね」
「せやね。お会計クレジットでお願いします」
「あっ駄目です!今日はご馳走させてください!」
「私そういうの嫌いやねん、気持ちだけで良い」
「え、でも!」
会計を済ませて東山を後にする。瀬戸君はどこか気まずい様子で私の少し後ろを歩く。
「私年上やから、気にせんでええよ」
「こんなん、デートと違います」
「初めからデート違うよ」
「乃彩さんのこと好きなんです」
「それはエスカレーターで言うことちゃうなー」
「だって今御堂筋線向かってますよね」
「せやな」
「……帰るの早くないですか?」
「食事をするっていう約束やったやん」
「映画とか、行きたかったです」
「それは別のお友達誘って行って」
「乃彩さんと行きたいんですってばー」
「私、瀬戸君のこと恋愛対象にならへんねん。ごめんな」
「まだ希望はあります」
「無いねん」
「……」
「瀬戸君の気さくなところ好きやで」
御堂筋線の改札口で少しの励ましを置いて、私は家に帰った。瀬戸君がどんな顔をしていたのかは知らないが、後でLINEが送られた。
《今日はご馳走になってしまって、すみません。また誘ってもいいですか》
《食事なら》
既読がついて30分後、返信が来る。
《トップガン見て出直します》
どうやらそれほど落ち込んでいないようで安心した。
家に着くと弟が帰っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「えらい早い帰りやな」
「姉ちゃんこそ、デートと違うの?」
「ただの食事」
「ふーん」
「なんやねん」
「芦屋乃彩さんは、恋の駆け引きとか嫌いやもんな」
「今は恋愛したい気分じゃないねん」
「僕は香里さんみたいな人と付き合いたいなぁ」
「そう言えば返信まだないな」
「自由な人やから」
「せやな。シャワー浴びて月海彩するわ」
「はーい、邪魔せんようにしますー」
月海彩が最後に恋愛小説を書いたのは2年前である。それはまだ世の中に出されていない。
理由は未完成であるから。私は恋愛感情が欠落している。人のことは好きになるし、恋愛をしてきた過去もある。ただずっと分からないことがある。それは、恋愛のその先である。
当然、恋愛の次は結婚ということは理解できている。ただそれは順序の話であって恋愛のその先に対しての答えになっていない。
芦屋乃彩の最後の恋。彼とは去年の12月に別れた。名前は岬晴人28歳のカメラマン。交際期間は3年。もしかすると、彼とは結婚していたのかもしれないと今でも思う。
薄暗い部屋。ノートパソコンに羅列する言葉を眺めながら月海彩は恋を想う。
「恋は幸福である。故に不幸と背中合わせである」
人は愚かに恋をする。それは本能である。しかしふと冷静になると恋は突然として現実となる。不満が目に見えてしまい不安に駆られる。
本当にこの人で大丈夫なのだろうか。なぜ私はこの人を好きになったのだろうか。好きとは、なんだろうか。
考えるほどに自分が哀れに思えてくる。まるで恋愛に踊らされていたことに気がついてしまうかのように、目の前の景色が恋から現実へと移り変わる。
人は現実から目を背ける生き物である。現実の世界では幸も不幸も平等であるから、限りなく幸だけを見て生きていたいと願うのが人である。そしてSNSという都合の良い世界を作る。
それは生物としての進化か、それとも退化か。
しかしそれは今に始まったことでもない。SNSが生み出される前から、人はいつの時代も娯楽を生み出してきた。人は娯楽を生み出す天才なのである。そして、娯楽に埋もれ幸福中枢が狂ってしまった鈍才となった。
ふと天井を見上げた時、恋愛のテーマから脱線していたことに気がつく。月海彩がカフェインを欲している。疲れを感じ始めている証拠である。
「あれ、月海彩さんはもう終わりなん?」
「珈琲淹れるだけ」
「そっか、今何書いてるの?」
「恋愛をしない恋愛小説」
「……分からん。弟の僕でも分からん」
「恋愛をしてしまうと結末が確定事項になるねん」
「あー、ハッピーエンドかバッドエンド的な?」
「恋愛小説はハッピーエンドがお約束やねん。というか大衆が求めてる」
「大衆に媚びないのが純文学なんやろ?」
「大衆文学か純文学かの世界線で小説を書きたくないねん」
「知らんけど。恋愛をしない恋愛小説は新しい試みというわけやな」
「あんたは、人を好きになったその先を知ってる?」
「恋愛して結婚」
「だからそれは順序の話やねん」
「何を言うてんの。もー分かりません。月海彩さんの脳内は理解に追いつかないです」
「私も、月海彩さんが恋愛に何を求めているのか分からんねん」
世の中には秀逸な恋愛小説がすでに生み出されている。そして定番の流れというものが大衆に浸透して、それ以外を駄作とされている。私が思うに、それは求められていないからという理由と、結末が締まらないからである。
「香里なら、恋愛のその先を知っている気がするねん」
その時、2日越しに藤田香里からLINEの返信があった。
《ごめん!スマホ見るの忘れてた、元気してるよ》
《近々会いませんか》
《ええよ!美味しいラーメン食べよや》
《天才か。いつにしますか》
《また連絡する》
香里のまた連絡するという言葉ほど予測がつかないものはない。前に新居祝いを持っていきたいからと連絡をくれて、同じようにまた連絡すると言われた。香里はそのLINEの2時間後に家のインターホンを押した。今から行くという一言もない。そういう女である。
そんなことがあり当日の可能性も頭に入れつつ、その後も月海彩に勤しむ。
その日の夜、香里から連絡があった。
《明日はどうですか?》
《19時以降で良ければ》
《うちもその方が都合良い。20時にスタバ迎えに行きます》
《待ってます》
1秒でついた既読から3秒で送られたグッドのスタンプに10分後に既読をつけて、返信はしなかった。
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芦屋乃彩の日常