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5 「自分を選べと言えない気持ち」


 初霜が降りた日の夕方だった。寒くなったね、と言う私に、思い出したように彼が言った。

 「冬の間は籠るから、しばらく会えなくなるなあ」

 冬籠り? 妖怪のくせに冬眠なんかするの、って訊いたら、眠るわけではないけれど、冬はとても大事な祭礼行事があって、皆それに専念するために里に籠るから、というようなことを言った。

 ふうん。と、ろくに聴いてもいないような声が私の鼻から漏れた。正直言って、それがどんな儀式なのかとか、全然関心を持てなかった。

 「なら私も年末年始は東京に帰るわ。就活のこともあるし」

 そう、と言ったきり彼が何も続けないので、「就活」の意味がわからないのかもしれないと思って「仕事を探すの」と自分から補足した。

 「ねえ。東京、って聞いてわかる? 江戸だよ、江戸。新幹線は?」

 「わかるよ、いつの時代の妖怪だと思ってるの」

 河僂耶はおかしそうに、クックッと笑った。その横顔を見ていたら胸のもやもやが一気に濃くなって、私は頭突きしたい気分で彼の華奢な肩に顔をうずめた。そしたら彼は、

 「麻衣は遠くから来た人なんだね」って。

 期待したのとは真逆の言葉だった。私は口を開いた。できれば訊かずにおきたかったことを口にした。

 「ねえ。もし私が向こうで仕事を見つけて東京に帰ったら、河僂耶はどうするの?」

 うんと間があったのかもしれないし、すぐに返ってきたのかもしれない。

 「寂しいね」

 パチン、と音を立てて風船が割れたような感じがした。顔を上げると、彼は私ではなくて遠くのあらぬ方を見ていた。

 「それだけ?」

 冷たい風に撫でられた頬がカッと熱くなって、――驚いた彼の顔が私を見つめた。

 私は大粒の涙を落としていた。

 「どうして『行くな』とも『いてほしい』とも言わないの? 私がどっちを選んでも、それでいいんだ? 私はいてもいなくても、いなくなっても河僂耶は寂しいって思うだけなの? 引き留めようとは思わないわけ」

 乾いた河原に悲鳴のような私の声が響き渡った。残照に浮かんでいた景色も血を失うように色を失くして、叫んでいる間に彼の顔が闇に溶けてゆく。

 そのまま彼が掻き消えてしまうかのように錯覚して、私は彼の首筋にしがみついた。


 ――情けない。「俺のために人間を捨てろ」くらい言えないのか、この腰抜けッ。

 ――代償を払うのは私なんだから。あんたが引き留める努力を見せてくれなきゃ、とてもじゃないけど気もちがもたない!


 はっきりとそう言ったかもしれないし、泣きじゃくっていただけかもしれない。

 胸には水の匂いが満ちて、自分の体がふわふわして実体を失くしたみたいだった。そうしているうちに、どこからか川に落ちた時の記憶が浮かび上がってきた。私は河僂耶の細い腕に抱かれて、無残に血を流す自分の残骸を見下ろしながら、「死にたくない」と泣いて訴えていた。自分の嗚咽に朦朧として、まだ彼とあの川の底にいるような気がした。

 「麻衣は他のことのために生きたいと願ったんだから」

 河僂耶の静かな声が、私の幻想を掻き消した。

 「それをしてくれなきゃ、助けた意味がない」

 「――河僂耶の中に、私に対する気もちはないの?」

 その時河僂耶は、私の背中を抱いて、「自分を選べと言えない気もちをわかってほしい」と呟いた。でも、私の心は吹き消された蝋燭のように孤独に立ち竦んで、その言葉を受け止めなかった。

 「わかった。そんなら好きにさせてもらうから」

 あらゆる感情が潮のように引いていった。私は立ち上がり、アパートに向かってすたすた歩き出した。彼の声が追いかけてきて何か言ったけど、聞こえなかった。聞かなかった。聞きたくなかった。彼が悲しい顔をしているのを知っていて、振り向かなかった。私の方が数億倍悲しいのに、そんなの見たくなかったから。

 ――私のためを思って突き放す、私の気もちを考えないで? 笑わせんな。重くなるのが嫌なだけじゃないか。

 とめどなく溢れる涙を払いながら、どしどし歩いた。


 その時は本当にね、なんて身勝手で冷たくて、酷いやつなのかと本気で思ったよね。まあ、私の言いたいことが伝わってないと思ったのは間違ってなくて、どうして私が泣いたのか、実際わからなかったみたい。というのも、ずっと後になってわかったことだけど、あちらの中では私たちの関係はまだ全然将来のことなんか考える段階に至ってなかったらしいんだ。どういう話の流れからだったかな、ある時あいつが、自分の両親は三十年くらい連れ添ってから、さて夫婦になろうかどうしようかと話し合ったと言ったのを聞いて、ようやく合点がいった。

 「それじゃ、あんたとしては付き合って三か月やそこらの私に将来についてどう思うのかと言われても、人間のセンスなら付き合ったその日に結婚の意思があるのか詰め寄られるみたいな、気が早すぎるハナシだった、ってこと。道理でドライなわけね」

 と言ったら、あいつ、「いつそんなハナシした?」なんてマジで訊くの。――はぁ? 私が泣いた時ですけど。あの修羅場になった時! って答えたら、「あっ」とか言って、

 「あれそんなハナシだったの?」だって。


 ばっかやろう。


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