第9話
穏やかな日差しを浴びながら、ラウルの為に開けた窓から吹き込む冷たい風を感じつつ、私は電話で母と会話をしていた。いつも通りの会話。他愛もないやり取りの中で、今まで言ったことのない感謝の言葉を伝えるのはなんだか気恥ずかしくて難しかった。
「そういえば、柾がせっかく日付が変わると同時にメール送ったのに返事がないって拗ねてたわよ」
「え?」
母の言葉に、携帯電話の存在を思い出す。ラウルの登場で、一昨日のショックで電源を切ったままなのをすっかり忘れていた。
「あら、見てないの? ねーちゃん喜ばすって張り切って日本時間の零時を待ってたのに」
「ごめん。電話切ったらすぐ返事しとくよ」
拗ねた弟の顔を思い浮かべた時、視界に黒い物が映る。ラウルが戻って来たのかと視線を向けた時には、何かを咥えた黒猫は物凄い勢いで目の前を通りすぎ、二階へと去っていった。
「わかったわ。今いれば、電話代わるんだけどね。遊びに行っちゃったから」
「あ、うん。またいる時にでも電話する」
ラウルに気をとられて一瞬上の空になったが、母の声に我に返って会話を続ける。
一人暮らしが始まった当初は毎日のようにかかってきていた電話も、近頃ではだいぶ回数が減っていた。だから、たまにする会話はなんだか落ち着いて心地よかった。
と、階段を降りる小さな足音が聞こえてきたと思ったら、扉の隙間から弾丸のように飛び込んでくる黒猫ラウル。軽やかに椅子に飛び乗り、さらに私の顔をめがけてジャンプする。
「うぶっ」
「葵?」
ラウルの頭突きをよけ損ねて妙な声をあげた私に、母の心配そうな声。
「なんでもない。大丈夫」
唇をさすりながら答える私の前で、人の姿に戻ったラウルは先ほど脱げた服を掴むとそのまま二階に走り去っていく。
「じゃあ、お父さんと柾が帰ってきた時にでもまた電話するわね。二人ともおめでとうが言いたいだろうし」
「うん。わかった」
そう返事をしつつ、母にまだ感謝の言葉を伝えていない事に気づく。
照れくさいが、せっかくラウルが気付かせてくれた事だし、この機会を逃したらまたずっと言わないままになりそうだし……と言葉をさがす。
「それじゃ……」
「あのさ、お母さん」
「何?」
慌てて言葉を遮った私に、怪訝そうな母。母と話した時に緊張などした事はないのに、今は妙にドキドキしている。
「あの……さ。産んでくれて、ありがとう」
思いついたのは、結局ストレートな言葉。
電話の向こうで母がきょとんとしている姿がありありと浮かぶ。
「私が生まれた日は、お母さんが頑張って産んでくれた日なんだなーって思ってさ」
「あら。やっと母の苦労がわかる歳になったのかしら」
ふふっと笑いながらも、嬉しそうな母の声。
「葵も、生まれてきてくれてありがとう。あの時の感動と喜びは、母さんずっと忘れないわ」
「……うん」
最悪の誕生日だと思っていたが、なんだか今までで一番じーんとした誕生日かもしれない。 母に言えたことも、母に言われた事も、なんだか嬉しかった。
電話を切った後も、母の嬉しそうな声が耳に残る。
こんな気持ちになれたのも、ラウルのおかげだ。
誕生日だし、今夜はご馳走にしてあげようと思いながら階段を上る。弟の部屋の前を通過しようとした時、慌てたような足音と共に僅かに扉が開き、ラウルがひょっこりと顔だけ覗かせた。
「何か用か?」
「いや、部屋に戻ろうと思っただけだけど?」
「ならばよい。まだ、出来ておらぬのだ。覗くでないぞ。楽しみに待っておれ」
ふふんと楽しげに笑うラウル。何がと問う前に、ばたんと扉を閉める。
どうやら、私のために先ほど咥えてきた何かでプレゼントを作ってくれているらしい。
私が喜ぶだろうと夜中にメールを送ってくれた弟の表情もあんな感じだったのかと思いながら微笑み、部屋に戻る。
そして、鞄から携帯を取り出し、電源を入れた。メールの問い合わせをすると、数件のメール。弟や友人からの誕生祝のメールの下にあるメッセージの送り主の名前に、どくんと胸が鳴った。
柳 愁平。昨日まで、彼氏だった人。
数件入っている彼からのメール。おそらく別れの言葉が入っているのだろう。
私も当然その気でいるが、メールを開こうとする手が震える。
柳くんは二つ年上の中学の先輩で、ずっと憧れていた。彼が卒業してから会えずにいたが、高校の通学路近くのコンビニでバイトをしている彼を見つけ、足繁く通って名前と顔を覚えてもらった。そして三カ月前に告白。付き合ってくれる事になった。
かっこよくて、優しくて、いつもリードしてくれる柳くんが大好きだった。だけど、彼の全てが嘘だったかもしれないと思うと、メールにどんな言葉が綴られているのか怖かった。