第62話
何か、楽しい夢を見ていた気がした。
だが、それはまどろみから徐々に現実に引き戻されるにつれ、霧散するように記憶に留まることなく消え去っていった。
何の夢だったろうと思いながらゆっくりと目を開くと、柔らかに細められた綺麗な緑色の瞳と目が合う。
一緒のベッドに寝ているのだから、ラウルが目の前にいるのは当然だった。だが、綺麗な指で私の髪をひとすくいし、まるで口付けでもするかのように口元に当てながら私を見つめていたラウルの少し大人びた表情に、思わずドキッとする。
「お、おはよ」
「あまり早くはないぞ? もう昼近くだ」
動揺してどもりながら挨拶した私に、しれっと答えるラウル。
反射的に時計を見ると、確かにもうすぐお昼だった。
「な……早く起きてたんだったらなんで起こさないのよー!」
がばっと起き上がって文句を言った私に、ラウルは横になったままにやりと笑みを返す。
「ヒナタアオイの寝顔が面白くてな。つい、観察していたのだ」
「はい?」
「何の夢を見ていたのか知らんが、怒ってみたり楽しそうだったり、なかなか愉快だったぞ」
「んなっ……」
恥ずかしいところを見られ言葉を失って固まる私を見て、ラウルは楽しげにくすっと笑うと、ゆっくりと起き上がった。そして、すとんと床に降りる。
「さて、昨日はいつのまにか寝てしまったらしいからな。シャワーを浴びてくる」
そう言ってすたすたと歩いて部屋を出ようとしたラウルの姿に、ようやく我に返る私。
「ちょっとラウル。ちゃんと温まらないと、もう寒いんだから風邪ひくわよ!」
「それくらいわかっておる」
肩越しにバカにするなと言わんばかりの視線を向けてそう言うと、ラウルはさっさと部屋を出て行った。
「着替えはあったかいの持ってくのよ!!」
扉越しに叫んでから、残された私は小さく息をつき、それから一人微笑を浮かべた。
結局、いつもと変わらない朝。
ただ、起きたときのラウルが猫の姿か人間の姿かの違いくらいだ。
ついつい小言まがいの事を言いたくなったり、時々見せるラウルの大人びた発言や表情に驚いたり。
最後の日でも、私とラウルの関係はいつもと一緒。
変に意識するより、その方がずっといい……。
「さーてと、ラウルが出る前にリビング温めとこ」
そう一人呟くと、私は部屋を出たのだった。
リビングのエアコンを入れてから身支度を整え、既に朝食を通り越して昼食になりかけている食事の準備を始めようとした頃、ドライヤーを手にしたラウルがキッチンへ入ってきた。髪はまだ濡れたままで、肩にタオルをかけている。こちらの生活に慣れてからは自分で髪を乾かすようになったラウルだが、わざわざドライヤーを持ってきたということは、私に乾かして欲しいというアピールだろう。
「何? 乾かして欲しいの?」
「うむ。自分でやるより早いであろう?」
「昼食の支度がしたいんだけど?」
「さっき、風邪をひかないようにと言ったのはヒナタアオイではないか」
そう言って、ずいっとドライヤーを差し出すラウル。
素直に甘えてこないのがラウルらしい。
「はいはい。じゃ、さっさと移動。キッチンは寒いでしょ」
つけようとしていたエプロンを置いて、ラウルの背中を押すと、満足げに頷くラウル。
「うむ。リビングでやるぞ。そろそろ見たい番組が始まるのだ」
「……ひょっとして、それが目的?」
「さあな」
「あのね……」
半眼で睨んだものの、ラウルは気にした風もなく軽い足取りでリビングへ向かっていった。
「まったく、最後の日だって言うのに……」
一人文句を言おうとして、ふと気づく。
そういえば、明日迎えが来ると、まだラウルに言っていない。魔法が解け、こちらにいる理由がなくなったから魔法界に帰らなければいけないとはわかっているだろうが、ラウルはまだ明日帰ると知らないのだ。
「それじゃ、仕方ないか」
微苦笑を浮かべてからリビングへ移動すると、ラウルはしっかりとテレビの前にスタンバイしていた。私がその後ろに座ったにもかかわらず、振り向きもしないでテレビに見入っている。
「ほら、乾かすわよ」
「うむ」
短く答えたラウルに小さく息をついてから、私はラウルの髪を乾かし始めた。
温風を当てながら、ラウルの柔らかで綺麗な黒髪を手ですく。シャンプーのいい香りが、辺りに広がっていった。
弟がいた時も、よくこんな風に乾かしてあげたものだ。
その弟や家族と離れて暮し始め、一人暮らしにようやく慣れた頃、ラウルが突然やってきた。
というか、まさか人とは知らず、私が連れてきたというのが正しい。
猫が人になったり、異世界やら魔法やら、最初は常識では理解しがたい事ばかりだった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、わけわからんと思っていた事もすっかり受け入れてしまったし、今ではラウルとの生活が当たり前になっている。
一人暮らしよりも色々と手間がかかるが、一人よりも楽しかった日々。
だけど……。
「ヒナタアオイ」
黙っていた私が気になったのか、視線はテレビに向けたまま、ラウルが私の名を呼んだ。
「何?」
髪を乾かしながら答えると、ラウルは少し間を置き、それから口を開く。
「迎えは、いつくるのだ?」
「え?」
「ジニアが言っておったであろう? そろそろ、帰らねばならんようだからな」
いつもと変わらぬ口調のラウル。
まるでなんでもない事を訊いているようだった。
「明日迎えに来るって」
「そうか」
私も普通の事のように答えると、ラウルは呟くようにそう言って、また黙ってテレビを眺め始めた。
城に戻るのはラウルにとって当たり前のことで、この家での暮らしが終わることはそんなに寂しくないのかと思ったものの、そんな事はないらしかった。ドライヤーをかけながらそっと覗きこんだ横顔は、テレビを見ているようで、何か別のものを見ているようだった。
いつもよりも少し寂しげな瞳。
どうやら、素直じゃない王子様はうまい言葉が見つからなくて黙っているだけのようだった。
思わずふっと笑うと、自分が笑われたのに気づいたのか、不服そうな顔で振り返るラウル。
「ヒナタアオイ、何を笑っておる」
「別に、なんでもないよ」
「本当か?」
「何か笑われる心当たりでもあるわけ?」
「このオレに、そんな心当たりあるわけないであろう!」
そう言って、唇を尖らせるラウル。
ラウルの瞳に宿っていた寂しげな光は、既になかった。
やっぱり、しんみりするよりも、私たちにはこんな会話の方がよく似合う気がする。
互いにそう思ったのか、むっとしたラウルとしばし見つめあった後、二人同時にふっと笑ってしまった。
「さ、髪も乾いたし、次は料理手伝って」
「仕方がないのぅ」
ドライヤーを片付けながらそう言った私に、嫌々そうな言葉とは裏腹に柔らかに目を細めながら立ち上がるラウル。見たいと言っていた番組は終わっていないのだが、気にした様子もない。髪を乾かしてもらいたくて、だしにしただけだったのだろう。
「何食べたい?」
「そうだな……」
相談しながら、二人でキッチンへ向かう。
いつもと同じようにラウルと過ごす時間。
その大切さを互いに心の中でかみ締めながら、私たちは一緒に過ごす最後の日を過ごし始めたのだった。
2013.12.23 17:50 改稿