第35話
太陽が空のキャンパスを幻想的な色合いに染め始めた頃。カフェで私の目の前に座っている桜子は、微笑を浮かべながらカフェオレのカップを口に運んでいた。
「私も行けば楽しめたか」
静かにカップを置くと、口惜しそうに、だが目が笑っている桜子がそう言った。蓮の事を除いて、昨夜の出来事を説明し終えた感想だった。
「いや、楽しくないし。ずっと生活覗かれてたんだよ? 男の人に」
「ま、気持ちのいいもんじゃないけど、減るものでもないし、護衛なら仕方ないんじゃない? で、これ以上覗き見されたくないから、王子はお留守番なわけ?」
ふてくされる私をよそに、事の成り行きを楽しんでいる桜子。私は小さくため息をつくと、説明の続きを始める。
「だって、学校だと体育の着替えとか他の子も見られちゃう可能性大でしょ? だから、しばらく学校は出入り禁止にしたの」
「なるほどね」
自分も覗かれたいたかもしれない事は気にならないらしい桜子は、余裕の笑みのまま再びカップを口元に運ぶ。どこまでも動じない辺り、さすが桜子というべきか……。
「あれ? 佐倉さん?」
話題がラウル達の事からそれた頃、私の背後からそんな声がふってきた。視線を上げた桜子の瞳が少し驚いたように見開かれ、そして嬉しそうな光を宿す。
「阿須田先生!」
「やっぱり佐倉さんか。久しぶりだね、元気?」
心地の良いテノールの声。どこかで聞いた事があるような気がしつつ、振り返った視線の先にいた人物を認識すると、私は思わず手にしていたカップを落としそうになる。
彼のいる場所だけ何故か華やかな空気がある、人目を惹く美青年……。
「あれ、君は……」
「あ、なるほどね」
何か思い出した様子の先生と呼ばれた彼と固まっている私を見て、桜子は一人納得したように呟く。
彼はその呟きが耳にはいらなかったのか桜子から視線を外し、硬直している私に柔和な笑みを向けた。
「昨日の朝会った子だよね? 佐倉さんの友達だったんだ」
「あ、はい。昨日はどうもありがとうございました!」
「いやいや、お礼を言われるほどの事じゃないよ。気にしないで」
慌てて立ち上がり頭を下げた私に、優しい声を返してくれる阿須田さん。そんな私達を見て、桜子が小さく呟く。
「阿須田先生だったら、葵が見惚れて遅刻しても仕方ないか」
クスッと笑った桜子は、荷物を置いていた椅子をあけると、にこやかに阿須田さんに席を勧めた。一人だったらしく、穏やかな笑顔でその席に座る彼。
向かいに座った阿須田さんからは、コーヒーとは違う良い香りがふわりと漂ってきた。
「阿須田先生は、私の家庭教師だったの」
私の疑問を見透かしているかのように、まずそう言って彼を紹介してくれた桜子。その後、阿須田さんにも私を紹介してくれた。
私は知らなかったのだが、どうやら受験の時に教えてくれていたらしい。こんな素敵な家庭教師、どこに頼めば来てくれたんだと心の中で羨みつつ、たわいもない会話に華が咲く。
阿須田さんは、一つ一つの動作が優雅で見ていて心地が良い。
もう二度と会う機会がないと思っていた憧れの人が桜子の知り合いだった偶然に、私は自然と笑みが零れ落ちていた。
「ただいまー!」
いつもより少々遅く家に帰ったのだが、ラウルの反応がなく、私は靴を脱ぎながら首をかしげた。また疲れて眠っているのかと思い、足音を忍ばせてリビングを覗く。と、そこには真剣な眼差しで何か分厚い本を読んでいるラウルの姿。どう見ても漫画ではない。
「ラウル?」
「!?」
声をかけたとたん、驚いたように肩をゆらすラウル。慌てて手元にあった本を自分の背後に隠す。
「きょ、今日は早かったな!ヒナタアオイ!!」
「……いや、むしろいつもより遅いけど?」
「そ、そうか??」
貼り付けたような作り笑いに、怪しい挙動。背後に隠された本がすごく気になる。
しかし、そんな私の視線に気づいてか、ラウルは後ろに回した手で、着物の袂に本を入れたようだった。
「そうだ、二階に用があったのだ。行ってこねばなるまい」
不自然に膨らんだ袂に突っ込まれる前に、言い訳のような独り言を呟くと、ダッシュで私の前を通り抜けて階段を駆け上がっていくラウル。どう見ても、様子がおかしい。
「何読んでたのかしら……」
「別にHな本じゃないのでご安心を」
「のわっ!?」
突然背後に現れたジニアさんに耳元で囁かれ、思わず飛びのく。そんな私を、背の高い笑顔の青年は楽しそうに見つめている。
「いきなり出てこないでください! びっくりするからっ」
「私が面白いのでよいのです」
私のお願いは笑顔であっさりとうち捨てられる。この人にはまともなお願いをしてもなかなか通用しそうにない。
出てくる方法について問答しても時間の無駄になりそうなので、本題を問う事にする。
「ラウルは何の本を読んでたんですか?」
「お勉強の本ですよ、私達の世界のね」
「……?」
首をかしげた私を真似るように、笑顔で顔を傾けるジニアさん。真面目に話しているんだか、ふざけているのかまったく分からない人だ。
「それならなんで隠すのか……という疑問にお答えしたほうがよろしいでしょうか?」
ちゃんと見抜いているあたり、ふざけた趣味がなければ賢い人間なのかもしれない。頷く私に、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「プライドですよ、ラウル様の」
「……」
「あれだけだらけた姿見せておいて、プライドもへったくれもないという突っ込みはごもっともですが……」
「あの……また変な術かけて、今度は心を読んでるなんて事ないですよね?」
思ったことをそのまんま言い当てられ、さすがにドキッとする。
不安げな私を見て、クスクスと笑うジニアさん。
「いえ、葵さんは素直でいらっしゃるので、顔に書いてあることを言ったまでですよ。嘘がつけない方ですよね」
褒められているのか微妙な所だが、反論できないのでそのまま言葉を飲み込むと、ジニアさんは言葉を続けた。
「勉学も魔法も、努力せずとも出来る。王国ではそういう姿を常に見せておられる方ですからね、真面目に勉強している所を葵さんに見られるのは恥かしいのでしょう」
確かに、蓮も同じような事を言っていた。プライドが邪魔して本当の事が言えなかったと。
「でも、なんで…」
「急に熱心に勉強をはじめたか、ですか? まぁ、以前からちょいちょいは勉強しておりましたが、葵さんが帰ってくる時間を忘れてまで集中して勉強したのは、私がいる事がわかったからでしょう。ご自分の立場をちゃんと思い出されたのでは?」
「でも、最初……」
「最初から王子だと豪語していたから意識は変わらないのでは、という葵さんの疑問もわかりますが、そうでもありません。王家もいろいろありましてね、実情を知る人間と、そうでない人間の前では違うのですよ」
先手を打って話すジニアさんだが、次の私の疑問には答えようとしなかった。笑んだような瞳の奥から、私を試すような光が漏れる。
『王家の実情』
その言葉に、どことなく重いものを感じる。
そう言えば、ラウルの向こうの生活の事はほとんど知らない。ラウルの口から聞いたことに嘘はないだろうが、隠したい事まで話すわけもない。向こうではみんなに愛され、自信に満ち溢れた生活を送っているのかと思っていたが、ジニアさんの意味深な言葉からするとそれだけではないようだ。蓮も、王家の事を嫌っているようだったし、何かがあるのだろう。
私の知らない何かを、ラウルは秘めているのかもしれない。
「まぁ、ラウル様が子供らしく甘えられる姿が見れて感謝しておりますけどね、葵さん」
ラウルが消えていった階段の方を見上げて物思いにふけっていた私の耳に、呟くようなジニアさんの声が聞こえた。
いつもより、優しさを含んだ声。
ジニアさんの顔を見ようと視線を戻した時には、その姿はいつのまにか消えていた。
2013.4.17 21:04 改稿