第10話
ふぅっと、心を落ち着けるように息をついた。
それから、先に他の人のメールを開く。嬉しいお祝いの言葉の向こうにみんなの顔が見える気がして、笑みがこぼれる。
それぞれに返信をしてから、私はベッドにころんと横になった。
メールを開くのに、こんなに緊張した事ってあるだろうか。ただボタンを押すだけの事が、こんなに難しいなんて……。
落ち着きなく、何度か寝返りをうつ。たいした時間はたっていないはずなのに、鼓動が早いせいかすごく時間がたったように感じる。
メールを開くか、それとも見ずに消去してしまうか……。どうせ別れるなら、どっちでもいい気もする。
「ふっふふ~んふふ~♪」
何度目かのため息をついたとき、壁越しに調子はずれの鼻歌が聞こえてきた。音痴なわりに、歌が好きらしい。楽しげに鼻歌を歌いながら、私のために何を作っているのだろう。
キラキラした瞳で何かを作っているであろうラウルの表情を思い浮かべながら、この歌は本当はどんなメロディーなんだろうなどと考えているうちに、嫌なリズムを奏でていた私の心臓は、落ち着いたリズムに変わっていた。
ふふっと思わず顔がほころぶ。ただの黒猫がよかったと思ったりもしたけど、ラウルでよかったのかもしれない。
私は、もう一度閉じた携帯を開いた。覚悟を決めて、メールを開こうとする。と、玄関のチャイムが鳴った。そういえば、母が誕生日プレゼントを送ってくれたと言っていた。再び携帯を閉じ、階下へ向かう。
「はい、どちらさまですか?」
インターフォンへ向かって話しながら、印鑑を探す。宅配業者だと信じて疑わなかった私の耳に、短い言葉が帰ってくる。
「俺」
その声を耳にした瞬間、硬直した。
「葵、メールまだ見てくれてない?」
聞きなれた、柳くんの柔らかな声……。
予想外の出来事に、思考回路が停止する。
「葵、聞いてる?」
「あ、うん」
やっとの事で喉の奥から声を絞り出した。でも、それ以上何を言っていいのかわからない。
「とりあえず、出てきてよ」
「え、あの……」
メールに何が書いてあったんだろう。一体、何をしに来たんだろう。どんな顔をして会えばいいんだろう。
様々な疑問が一度に押し寄せて、わけがわからなくなる。
「葵、あれは誤解なんだ。いいから、出てきて話聞いてよ」
「少し、待ってて」
震える声でそれだけ答えた。
「わかった。待ってる」
柳くんの答えを聞いてから、力があまり入らない体でのろのろ階段を上り、部屋に戻って携帯を開いた。一度深く息をついてから、柳くんからのメールを開く。
『今日はゴメン。でも、あの子は葵が思ってるような関係の子じゃなくて、親戚の子なんだ。ちゃんと話そう。電話に出て』
きゅっと唇を噛み、次のメールを開く。
『まだメール見てない? 誤解を解きたいんだ。葵の誕生日一緒に祝いたいし、メール見たら電話して。もし連絡なくても、明日迎えに行くから』
どう判断したらいいんだろう。あの時、私が見た二人はどう見ても恋人同士に見えた。
親戚の子と、あんなに仲良く歩く? どうして、私を無視したの?
でも、お祝いに来てくれた事は嬉しい気もしていた。私の事なんて、もうどうでもいいのかと思っていたから。
深くため息をついてから、ゆっくりと立ち上がる。
ここにいても何もわからない。話を聞こうと思った。
鏡を見て、身だしなみを整える。それから、玄関へ向かった。
「葵」
柳くんはほっとしたように、柔らかく微笑んだ。
きゅっと胸が痛くなる。この笑顔はやっぱり好きだ。
「中、入ってもいい?」
ためらいがちに頷こうとした時、ふとラウルの事を思い出す。話している時にラウルが降りてきたら少しやっかいだ。
「そっか」
静かに首を振った私に、しかたなさそうに小さくため息をついた。
しばしの沈黙。
先に口を開いたのは柳くんだった。
「あのさ、誤解なんだよ。一緒にいたのは親戚の子で、俺になついてるから、葵の事がばれるとうるさいと思って……。ごめんな。傷つけるようなまねして」
「ほん……とに?」
言いたい事は、疑問はたくさんあるのに、そう言うのが精一杯だった。
いつもそう。柳くんの前では、ドキドキしてあまりうまく話せない。
今までは、恋してる嬉しいドキドキ。今は、不安な胸の鼓動……。
「本当だよ、葵。葵のために、今日の予定を立ててたのに、裏切るわけないだろ?」
そう言って、じっと私を見つめる。柔らかな茶色の髪の間から見える黒曜石のような切れ長の瞳に、私が映っている。
信じられない苦しさと、信じたい僅かな希望。
返事に迷っているうちに、柳くんの胸に抱かれる。
「一人で誕生日を過ごすなんて、寂しいだろ。楽しい想い出にしよう、葵」
「……うん」
耳元での優しい声に、思わずそう返事をしていた。
柳くんはそっと腕を放すと、穏やかな笑みを浮かべてそっと私の額に口付けをする。
「じゃ、支度してきなよ、葵」
「うん。ちょっと待ってて」
少し赤くなった顔を隠すようにうつむいて返事をし、私は身を翻して家の中に戻った。一気に階段を駆け上る。
こんなに簡単に信じていいのだろうかと自分で思いつつも、あの優しい声に、温もりに勝てなかった。
ドキドキする胸の高鳴りを抑えつつ、今日のデートで着る予定だった服を引っ張り出して着替える。あまり待たせるわけにもいかないので、メイクも手早く済ませた。
階段を駆け下りようとして、大事なことを思い出す。
弟の部屋の前まで戻り、扉をノックした。中から、慌てたようなばたばたとした足音。ドアを少し開けて、ラウルは顔だけひょこっと出した。
「なんだ、ヒナタアオイ。できるまで待っておれと言ったではないか。せっかちだのう」
楽しそうなラウルに、ちくんと胸が痛む。
「あの……ね、ラウル」
「どうかしたか? ヒナタアオイ。なんだか変だぞ?」
首をかしげるラウルに、苦笑いを浮かべる。
確かに、きっと変だ。でも、恋をしてるといつもの自分と違う自分になってしまうのは、仕方のないことではないだろうか。
「その……友達が、お祝いしてくれるって迎えに来てくれてて……」
ためらいがちに言う私を、じっと見上げるラウル。
私を祝うために一生懸命だったラウルを思うと、心苦しい。
「そうか」
気の抜けた声でラウルはそう言った。
「長い付き合いの友と過ごした方が楽しいであろう。オレのことは気にするな。ゆっくり行ってくるがいい。オレもゆっくり作る事ができるしな」
笑顔を浮かべながらも、どことなく寂しげな瞳。
「ごめんね。なるべく早く帰ってくるから、おうちで待ってて」
「うむ。わかった」
ラウルに申し訳なく思いながらも、私は柳くんと家をあとにした。
2013.4.10 21:05 改稿