第1話
辺りが暗くなると共に、雨がしとしとと降り始めた。近頃の気温では、濡れるとさすがに寒い。
しかし、今は傘を差す気力もなかった。
どれだけ濡れようと、寒くなろうと、今の心の冷たさに比べたらどうって事はない気がしていた。
雨が、涙をごまかしてくれるのもありがたかった。
頭の中は、先ほどの出来事が思い出したくもないのにぐるぐると回っている。
大好きだった彼が、他の女性と仲良く腕を組んで歩いていた。
あれはただの友達などではないと、雰囲気でわかる。
呆然とした私と目が合っても、彼は一瞬驚いたように目を見開いただけで、あとは何事もなかったように通り過ぎて行った。
今いる女性が本命で私のほうが遊びだったと、その瞬間に思い知らされた。
誕生日はどこに行きたい? 何がほしい?
そう聞いてくれたのは、つい先日の事だったのに……。
明後日の誕生日は大好きな人と二人で過ごせると信じていたのに、それはもう実現しないだろう。
彼がプレゼントの代わりにくれたのは、裏切りという胸を切り裂くナイフ。
どこか遠くへ行ってしまいたいと思うのに、足は家路へと向かっていた。
誰もいない我が家。
きっと家に帰れば、もう外出する気にならないだろう。友達に連絡する気力すらない。
誕生日は日曜日。
16歳の誕生日は、たった一人で寂しく過ごすのは決定的だ。
今までで一番幸せな誕生日のはずだったのに……。
いつのまにかずぶ濡れになり、涙も枯れ果てた頃、あと一つ角を曲がれば家にたどり着くその場所で、うつむいて歩いていた私の視界の端に、何かが映った。
街灯の下で小さく丸まった、黒い塊。小さな黒猫だ。
捨て猫なのか、迷い猫なのか、その黒猫は雨の寒さに震えて蹲っていた。
「君も一人なの?」
一人ぼっちの自分と重なって見えて、思わず声をかける。黒猫は返事もせずに、ただ震えている。
「大丈夫?」
私はしゃがみこみ、その猫をそっと抱き上げる。嫌がるかと思ったが、すんなりと抱きしめることができた。
目を閉じたまま、私の腕の中で震える子猫。雨のせいだけではなく、弱っているようだ。小さな手から伸びる爪が、弱々しく私の服を掴んでいる。
「一緒にいこ」
そう言ってそっとなでると、その猫はか細くにゃーと鳴いた。頼られたような気がして、ちょっと嬉しくなる。
一人じゃなくなった気がして、私は僅かに軽くなった足取りで急いで家に戻った。
「ここが私のうちだよ」
大きくない一軒家だが、小さな庭つきの二階建ては一人で住むには広い。
中に入って玄関の鍵を閉めると、まずは浴室に向かった。
濡れた自分の体と黒猫の体をタオルで拭いてから、お風呂の給湯ボタンを押す。湯がたまるまでの間、黒猫をタオルでつつんだまま、私は制服から部屋着に着替えた。
次に、台所へ向かって冷蔵庫の扉を開ける。自分は食事をとる気はなかったが、あの子には何か食べさせないといけない気がした。
取り出した牛乳を皿に注ぎ、水で薄めてからでレンジで温める。これで空腹と寒さを少しは癒せるだろう。猫舌というからには熱すぎるのはダメだろうと思い、人肌なのを確認してから黒猫の前にお皿を置く。
黒猫はタオルの中からもそもそと出てくると、そっとお皿に近付く。少し匂いを嗅いでから顔をあげ、美しい緑色の瞳で私を見つめた。
「どうぞ、黒猫さん」
微笑んで頭をなでると、にゃーと短く鳴いた黒猫はぺろぺろとなめ始めた。よほどお腹がすいていたのだろう。あっという間に、お皿の牛乳は減っていく。
「美味しい?」
私の問いかけに顔をあげ、にゃーと鳴く黒猫。まるで会話をしているような気になり、自然と微笑む。そっと頭をなでると、黒猫はくすぐったそうに目を細めた。
ぽっかりと開いた心の穴に、暖かいものが流れ込む。一人じゃないだけで、折れそうな心が繋ぎとめられる気がした。
今日はもう何もする気が起きなかった私は、お風呂に入るとすぐに自分の部屋に戻った。一緒にお風呂に入って綺麗になった黒猫も連れていく。
「名前は明日考えようね」
そう言って頭をなでてから、かごにタオルをひいた簡易ベッドに黒猫をおろした。が、手を放そうとすると、子猫は小さな手で私のパジャマの袖をつかむ。お腹が満たされて元気が出たのか、拾った時の弱々しさはない。放さないぞと言わんばかりにしっかと掴み、大きな緑色の瞳で私をみあげ、にゃーと鳴いた。
「一緒に寝たいの?」
「みゃー!」
嬉しそうに返事をする子猫。まるで本当に言葉を理解しているみたいだ。
「仕方ないなぁ」
再び抱き上げで一緒にベッドに入ると、黒猫は腕の中で大人しく丸くなった。どうやら、本当に一緒に寝たかったらしい。
「おやすみなさい、黒猫さん」
そう言って、どうやら男の子らしい黒猫の頭を撫でながら、私は目を閉じた。
現実から逃げたい気持ちと、雨に濡れて疲れた体が、私をすぐに眠りの世界へと誘う。
にゃーと鳴いた黒猫の額に、眠りに落ちる寸前にそっと口付けをする。眠りに落ちた私の体を、優しい温もりが包んでくれた気がした。
どれだけ深く眠っていたのだろう。
カーテンの隙間から差し込む光と、スースーという寝息で目が覚めた。何か違和感を覚えつつ、ぼうっとしたまま重い瞼を持ち上げる。そして一瞬硬直し、慌てて目を閉じた。
これはまだ夢を見ているに違いない。
確かめる為に目を閉じたまま頬をつねってみるが、痛みはちゃんと感じる。
「何をやっているのだ? お前は」
眠そうな声が、目の前で発せられる。
「!?」
驚いて後ずさると、どさっとベッドから転がり落ちた。
「いったーい!」
この痛さは確実に夢ではない。しかし、目の前に見えるものは夢じゃないかとまだ疑ってしまう。
昨日は黒猫を拾って一緒に寝たはずだった。
なのに、ベッドの上から床に転がる私を呆れたように見ているのは、艶やかな黒髪にエメラルド色の美しい瞳をもつ、やたら綺麗な少年。しかも、裸。
意味がわからず、私はしばし床の上で呆然としていた。
2013/04/10 11:12 改稿