大海原を舞う
凶鳥。
禍々しい鳥という意味だろう。
あるいは悪い前触れという意味もあるのかもしれない。
それを見た者に何か厄介なことが降り懸かる。そういう存在だとでもいうのか。
死を呼ぶ鳥。
海を猛烈な勢いで割って進むそれを見た船乗りたちが、口々に言う。
「凶鳥だ」
「凶鳥だ!」
「凶鳥だぁー!」
歓声で湧き立つ中、爆発的な水飛沫はギュンギュン号の手前で一際大きく跳ねあがった。
大空を舞う群青の影と、手にした鋭い切っ先でついでのように一匹の太浮顎を串刺しにしながら、ギュンギュン号の甲板に降り立つ。舞い降りる。
「オレをその名で呼ぶんじゃねえ!」
荒ぶる凶鳥。
甲板に降り立ったというのは嘘だ。
串刺しにした太浮顎を甲板に叩きつけて、その上に立っている。いや立っていない。
彼女は、二足歩行の鶏とトカゲの間のような群青色の生き物に跨って怒鳴った。
「ラッサに嫌われんだろうが!」
片耳の上だけ赤い、日焼けした小柄な女性だった。
凶鳥ラジカ。
風を切る凶鳥ラジカ。
そう異名を響かせる女性を初めて見たヤマトは思った。
(凶鳥だ)
イメージと本人が適合していて納得するしかない。最初にこの呼び名を付けた人を尊敬したい。
空を舞う太浮顎たちも、突如現れた新しい敵に動揺しているのか、襲撃の手が止まっていた。
人間の手が届かない場所にいたはずが、何かわけのわからないものに攻撃を受けたと。
強い魔獣であるがゆえに警戒する。
自分より強者が現れたのかと警戒していた。
「あァ? ひっでぇ面してんじゃねぇか。おめえに言ってんだよメメラータ!」
「はい姐さん!」
メメラータの背筋がぴんと伸びる。
普段、背丈が高いことを気にしているのか、少し背中を丸めがちなのだが、凶鳥に叱られて居住まいを正す。
「図体ばっかりでっかくなりやがって」
彼女は乗っている魔獣(?)から降りないが、その理由は見下ろされたくないからかもしれない。
小柄だった。決して大柄ではない。
顔立ちも、年齢は相応だが、ロファメト・ラッサーナの母親だと聞けばそうだと思う。
片耳の上側だけ赤いのが気になるが。
「ボーガ!」
「うす、姐さん」
「弛んでるんだよ! なんだいその腕は!」
「うす……」
ボーガまで叱られて小さくなっている。
苛々するように叱ってから、きいっと牙を剥いた。
「あんたらが役に立つって言うからダナツの船に乗せてやってんのに、オレの顔を潰す気なのかい?」
「ち、違います姐さん!」
「面目ない」
「御託はいいんだよ! たかだかあんなデカブツに……」
言いながら空を睨み、少し思い直したようにけろりと言った。
「まあいいさ。オレもでかいこと言えたもんでもねえや」
あからさまにほっとする二人の竜人。
何が彼女の気を変えたのかはわからないが、とりあえず今はそれどころではない。
「ああ、ラジカ。おめえなんでここに?」
「ダナツよぅ、話は後だ。もうちっと沖にオレの船が停まってるから。その前に……」
にぃっと笑う。
まさに凶鳥と言った顔で。
「あの数はオレでも無理だ。手伝えよ」
「「はい姐さん!」」
つい、ヤマトも一緒に答えてしまったが。
※ ※ ※
ラジカの乗る兎壬迸は、ある程度の加速をしてからでなければ跳び上がれない。
一度の跳躍で仕留められるのは一匹が限度。空振りになることもある。
気を取り直して襲い掛かる太浮顎に、未だ被害は抑えきれない。形勢は立て直したが海上は太浮顎の領域。
「そう、か……!」
彼女の戦いを見たヤマトは気が付いた。自分に出来ることを。
戦場からいったん離脱して船室に飛び込み荷物を漁る。
アスカの荷物だが、アスカの荷物にあるはずだ。
さっきから空を見ていて思っていたのだ。何かまだ手があると。それがわかった。
「ごめん、ちょっと!」
索具を伝わってメインマストに登る。
なるべく上の、檣楼と呼ばれる見張り台のさらに上のクロスツリーという木の支えに。
ここからなら届く。まだ7メートルくらいあるが、届く。
「これなら!」
気合と共に、思い切り投げる。
空を行く太浮顎に向けて、投げられたのは、先端にフックが付いたロープだった。
大森林でも使っていたロープ。
地球で作られたもので、細いが強靭な造りであることと、先端にU字型のフックが二つ括り付けられている。
フックは若干の重りの役も果たしつつ、目標地点に引っ掛けて使うことも出来た。
船の上を旋回する太浮顎の体に引っ掛けることは、ヤマトの技術であれば可能だった。
「よしっ!」
引っかかったら迷わない。
思い切り引っ張りながら大地を――ではなかった、マストを蹴って跳び上がる。
舞い上がる。
ヤマトが届かなかった場所へ。
太浮顎が、攻撃を受けないと思っている場所まで届いた。
「ここだぁ!」
太浮顎の体重はヤマトとは比較にならないほど重い。それを支えて飛べるほどの力があった。
だから、ヤマトに引っ張られても簡単には落ちない。
舞い上がったヤマトの掲げた手斧が、太浮顎の翼を叩き折った。
そのまま自由落下しては怪我では済まないし、途中で太浮顎の牙に掛かるかもしれない。
だからヤマトは続けた。
浮力を失う太浮顎を蹴り飛ばしつつ、別の太浮顎へとロープを投げつける。
『ギュアェッ!?』
「やああぁぁぁっ!」
かつてどこかの戦いで、船から船へと飛び移りながら戦ったという英雄がいたかもしれない。
そんなことはヤマトは知らなかったが、常人離れした反射神経と、船酔いを克服したバランス感覚が可能にした空中戦。
翼や頭を狙いながら飛びかかって、ロープが緩んだ隙に左手で巻き上げた。
右手の手斧で敵を打ち、次へと飛び移る。その姿はまるで木から木へと飛び移りながら攻撃を仕掛ける猿のような身軽さ。
近くに飛び移れる太浮顎がいなくなった時点で、最後の一匹を蹴ってギュンギュン号の索具に飛び移る。
「なんという……」
見上げるボーガが思わず声を漏らした。
他の者もぽかんとしている。
「やるじゃないかい」
凶鳥は舌なめずりをしてヤマトを見ていた。
アスカとフィフジャは、やや納得顔でその様子を見ていた。
「それくらい出来るよね」
「普通は出来ないんだが」
翼を折られて海に叩き落とされていく太浮顎。巨体であるがゆえにヤマトの機敏な動きに対応しきれず、また翼を切られると飛んでいられない。
凶鳥とヤマトの二人で、残っていた半数近くを潰していた。
ギュンギュン号の索具に着地して、大きくロープが撓む。
ヤマトが見据えるのは、少し遠くの目標だ。
ギュンギュン号から離れた別の船を襲う太浮顎に狙いを定めた。
「たぁっ!」
踏んだロープの反動も活かして、思い切って跳んだ。飛んだ。
ジャンプで届かない分は、フック付きロープを投げて届かせる――
「しまっ!」
つもりが、届かなかった。海に落ちる。
「おらが!」
海面から飛び上がった黒い塊が、落ちるヤマトを蹴り返した。
跳び上がってきた勢いもかなりだったが、正確にヤマトを足元から上へと蹴り上げる。
「ありがと!」
海モグラだ。海中で待機していた彼が落下しかけたヤマトを目的の場所へと届けてくれる。
落ちる前に見えていた。彼が水中から助けようとしてくれているのが。
まさにイオックに向けて襲い掛かろうとしていた太浮顎に向けて全力で手斧を振り下ろした。
「ぬぁぁぁ!」
圧し折れる手斧の柄。
頭に手斧を叩き込まれて落ちる太浮顎と共に、イオックの船の甲板に着地した。
「あ、お……」
空から降ってきたヤマトと太浮顎の死骸に言葉を失うイオックとその乗組員たち。
ヤマトはきょろきょろと周りを見回して、手近な人が持っていた手斧を奪う。
「貸して!」
返す当てはないのだが。
驚きで動きを止めている彼らは、武器を奪ってロープを撒きながらマストを登っていくヤマトを、ただ見送るだけだった。
※ ※ ※
「やるじゃないかい、あんた! 気に入ったよ!」
ばんばんと背中を叩かれて咳き込みそうになっているヤマトだが、その表情は明るい。
船乗りたちは口々にヤマトの偉業を称えて、ぼろぼろの状態でありながらも喜びの歌を歌っていた。
バナンガ諸島を少し過ぎたところで停泊していた凶鳥ラジカの船と合流して、ようやく人心地着いたところだ。
犠牲も少なくはなかった。
船の損傷も大きい。
だが、少なくとも今こうして笑っていられる人もいる。
笑えるものは笑って過ごす。それも海の掟だと言われた。
そうでないものがいることを否定しないのも、海の掟なのだろう。明文化されていなくても。
厳しい戦いを生き残った者は笑えと。笑ってそれを喜べと。
海の掟は、とても厳しいものだと感じさせられた。
「んで、ラジカよ。なんだっておめえここに? ユエフェンにいたんじゃねえのか?」
ラジカの船の甲板で酒を飲みながらダナツが聞いた。
このバナンガ諸島周辺は航路ではない。普通なら通らないはずなのだが。
聞かれたラジカが忌々しいそうに顔を歪める。
「ネレジェフだ」
半ば予想は出来ていた回答だった。
「ユエフェンから南下していく途中にネレジェフがいやがった」
「……そうか」
「他の船がどうなったのかは知らねえ。オレも自分のことでいっぱいだったから、こいつらに偉そうなことも言えねえよ」
そう言いながらもなぜかラジカの前で正座させられているメメラータとボーガ。
――ゾカの戦士の長だったんだ。
片耳だけ赤いのは、竜人と普人のハーフだからと説明を受けた。
メメラータたちが暮らすゾカの集落では生きる伝説的な人で、かつてはジナの戦士と大長の座を争ったのだとかなんだとか。
そういう竜人の歴史はよくわからないが、少なくとも二人はラジカに頭が上がらないらしい。
「アウェフフのやつも、なんだかせーじてきな問題? とかで、息子どももなんかこそこそしてやがるし」
「お前は聞いてねえのか?」
「オレはそういうのわかんねえからな。邪魔だからどっか行ってろってよ」
政治的な問題だとすれば、そう言われても仕方がなさそうな雰囲気ではある。
適性がない。
暴れることは得意そうだが、それ以外では。
「西風だったからこっちに流れてよぉ。バナンガ諸島の魔獣がやばいってのはオレも知ってんだ。見張りが妙なこと言うもんだから……」
見張り番が魔獣の群れを見つけたと。上を見れば、今も遠眼鏡を使って周囲を見ている船員がいる。
見覚えのある船が襲われているというから、ラジカが兎壬迸に乗って駆け付けたというわけで。
「んにしてもだよ、ダナツ! なんだよこの子! すげえじゃんすげえじゃん!」
「あ、ああ……俺の見込み通りだぜ」
嘘つきめ。
心中で毒づいてからコップの水を飲む。
アスカは知っている。ダナツがヤマトを役に立たないと見做していたことを。
ただロファメトの家と関りがあるから、それなりの扱いをしていたのだと。
ラジカが興奮するとかなりの強さでヤマトの背中を叩いているようで、やはりちょっと辛そうだ。
「ぴょんぴょん飛んで、いくら鈍くさいって言ってもあの太浮顎をばっさばっさとやっつけて、めっちゃすげえ!」
「う、うん……たまたまうまく行ったんだ」
「ふざけんなお前! たまたまで出来るかバカなのかお前!」
今度は叱られるヤマト。
確かに偶然で出来るような芸当ではなかったが、頭悪そうな女にバカ呼ばわりされている。
それでもヤマトは嬉しそうだった。
見ているアスカも誇らしいし、フィフジャも安心したように微笑んでいた。
「なんだお前、うちのラッサとおんなじくらいじゃねえか」
「あ、うん」
うちのラッサとやら。アスカは知っている。
あの女の母親なのか。道理で単純そうだと思ったと。
「……?」
ほんの少しアスカの機嫌が悪化したのを察したのか、フィフジャが少し距離を離した。
「よぉし、お前! ラッサの婿にしてやる!」
「ぶっ!」
飲んでいた水を噴き出したアスカと、おたおたと動揺するヤマト。
その様子にラジカはえらく機嫌を良くしたようで、大きく笑いながら頷いた。
「ラッサはな、ラッサーナって言うんだけどよ、オレに似てこれがまためっちゃくちゃ可愛いんだぜ」
「う、うん。知ってる」
「そうかそうか! 知ってるだろ、そうだろ。あれ? なんで知ってんだ? ……まあいいや」
どんなテンションで生きているんだこの生き物。
やはり世の中は広い。アスカがまだ知らない、いろんな生き物がいるのだろう。
乗っていた魔獣――兎壬迸というらしいが、群青色のその鳥なんだかトカゲなんだかわからない魔獣は、餌の入った桶に顔を突っ込んで食っている。
他にも二頭、同じ魔獣がいた。この船で飼育されているのか。
その横には、ちゃっかり姿を現した海モグラもいた。
「おらの言ったことほンとうだったろ」
彼には感謝の気持ちを込めてまた食べ物が振舞われていた。
まだ日があるので、眩しい場所は苦手らしく日蔭で食べている。
今度は成功報酬というのか、イモが食べたいと要求していた。好物なのだと。
食べながら、自分の身の上話を船員に聞かせていた。
「ンでよう、オラぁ人間にネレジェフのこと教えてやりたくて、待ってたンだ」
「そういえば、あの夜ってなんのこと?」
アスカは先日言われたことを思い出して聞いてみた。
全く身に覚えがないのだ。
ラジカの突拍子もない話から離れて、思い出したことを訊ねる。
「オラが川を上がっていったら、おめがいただンろ」
知ってるだろうという言い方だったが、アスカに覚えはない。
大森林からずっと、だいたい川沿いに北進してきたのは事実だが。
「川……まあ、そうかも」
「いい月の夜だった。オラが川底から月を見とったら、おンなじようなまん丸い尻が浮かんでて」
黒く丸い目で、その時のことを思い返すように話す。
(お尻って……川で?)
思い当たった。
ボンルたちと知り合って初めての夜だ。アスカは一人で川で水浴びをしてぷかぷかと浮かんでいたことがある。
何かの気配を察したような、そんな気がした時があった。
「あの時!」
「白いまん丸い尻が」
「まん丸くない! もう言わなくていい!」
海モグラが食べているイモを取り上げて抗議する。
わたわたとイモを取り返そうとする海モグラ。周りの船員たちが興味深そうに耳を傾けていた。
「み、見てたのね!?」
「なンのことだ?」
「とぼけるんじゃない! 私の裸、見たでしょ!」
ああ、と何でもないことのように頷く海モグラに、アスカの顔が怒りに歪む。
乙女の肌を見ておいてこの態度、許せるものかと。
妖魔にとっては確かに何の意味もないかもしれないが、被害者にとっては大きな問題だ。
「おめだって、今オラのはンだか見てるでねえか」
「るっさいわよ! そんな毛むくじゃらとは価値が違うって言ってるの!」
「ンまあ言われてみりゃあ、おめには毛がな――」
「黙んなさい!」
怒るアスカと海モグラのやりとりを、船員たちが笑って、あるいは興味津々で囲んでいた。
妖魔の身の上話など聞く機会があるとは思いもしなかったが、それも含めて船乗りの伝説なのだと言う。
船乗りの助けとなった後で、また食べ物を要求にくるのだと。
それに付き合うと、嘘か本当かわからないような身の上話をしてくれたり、また安全な航路を教えてくれたりと。
気ままに世界中の海に出没するらしく、会えるのは運がいい者だけだと。アスカたちは運が良かった。
逆にラジカは運がなかったのでネレジェフに当たってしまったが、それも船乗りの宿命だと気にした様子ではなかった。
アスカと海モグラの騒ぎにやや気を取られていたラジカ達だったが、思い出したようにダナツが言う。
「ああ、坊主を姫さんの婿にって話な。そいつぁ無理だぜ、ラジカよぅ」
アスカもひとしきり海モグラに怒ってから、これ以上はからかわれる対象になりそうだったので、いーっと牙を剥いてみせてからヤマトたちの方に戻る。
「オレのラッサが気に入らねえってんのか? ダナツ、オレがおめえを振ったのまだ根に持ってやがんのかよ」
「バカッ! 違うわバカ! 娘の前でなんてこといいやがんだおめえ!」
サトナは軽く肩を竦めただけだ。知っているらしい。
言い合う二人を困ったように半笑いで見ている。父の失恋話など聞きたいものでもないだろう。
「……っとに口のわりいやつめ」
他人のことは言えないと思うのだが。
「ほれ、メメラータ。言ってやんな」
ダナツはまだ正座しているメメラータに促して、ぐいっと杯を呷る。
そういえばそうだ。凶鳥とやらが何を言ったところでヤマトは既に――
「あ、あ……」
メメラータの顔色が悪い。
苦手な相手を前にして、緊張しているのだろう。
「なんだぁ? そういやメメラータ、あんたもいい加減いい男見つけろよ。アウェフフほどじゃあなくっても、このヤマトみてえなのがいいぜ。ちいっとちっちぇえか」
何も知らないラジカがそう言って笑う。
メメラータの男運のなさはやはり有名なのか。
だが今はもう違う。ラジカの知っているメメラータは過去のこと。
「さっさと言ってやりゃあいいだろ。ヤマトはおめえの恋人なんだってな」
酒の勢いか、メメラータが口ごもることをダナツが言ってしまう。
照れもあるかもしれないから、こういう勢いも必要かもしれない。
歓声とどよめきが甲板に湧いた。信じられないとか、囃し立てるような感じで。
「あ、いや大将……それは、あの……」
「そうだったのかい? そいつはわるかったぜ。まさかメメラータがこんな若い子に手ぇだすとは、オレもびっくりだ」
「いえ、姐さん……ええと」
男運のないと思っていた妹分というか子分なのか、そんなメメラータに恋人が出来たという報告に上機嫌の反応を見せるラジカ。
まだ正座しているメメラータの首に手を回して、よしよしと後頭部を撫でた。
祝福するかのように、凶鳥がメメラータの首を掴んだ。
「ふざけんじゃねえぞメメラータ」
低音。
メメラータの顔のすぐ近くまで顔を寄せて、視線を合わせる。
弛緩していた甲板の空気が凍り付く声音。
「オレを舐めてんのか?」
「い、いえ」
「オレが間抜けだと思ってんだろ」
「違います!」
アスカ心の中で少し反応したいところもあったが、口には出さない。怖いから。
今まで見てきた女性の中で群を抜いた迫力だ。メメラータが委縮する気持ちもわかる。
ラジカはじいっとメメラータの目を見つめて続けた。
「匂いでわかんだよ。オスとメスがどうなのかくらいよ」
獣か。
どういう嗅覚をしていたらそんなものがわかるのかアスカには不明だが、このラジカという生き物なら本当かもしれない。
男女の機微がわかるというよりは、むしろ説得力がある。
「は、い……」
「なんでそんな話になってんのか、きっちり聞かせろ」
メメラータの自白は、全員に深い溜息と、ほんの少しの憐れみを抱かせるのに十分だった。
「ゾカの恥だ」
ぼそりとボーガが言う。
その隣で泣き崩れるメメラータ。
「だって、そうでもしないとあたしに男なんか……」
「ゾカの恥だ」
脅されていたのだと。
ヤマトの何らかの弱味を知ったメメラータが、それを条件にヤマトに提案をした。
――この船にいる間だけでいいから、あたしの恋人ってことにしてくれ。
リゴベッテまで行けば、ヤマトは船を降りる。
メメラータはそれを見送り、一時の愛だったのだという憂いとともにまた船旅に出る。
そうしてメメラータは恋人がいたこともあったというアリバイを作り、だが旅路の違いの為に別れを選んだのだという箔付けも出来る予定だった。
阿呆だ。
いつまでたっても男の一人も出来ないという焦りからの児戯のような計画。
恋人いない歴という言葉が地球にはあるらしい。イコール年齢というのはこの世界でもそれなりのプレッシャーなのか。
くだらない。
そう切って捨てられるのはアスカが若いからなのだが。
「でも、だって、ヤマトも若いし、もしかしたらなんかの勢いで本当になるかもって……」
「どこまでクズなんだお前は」
ダナツが頭を抱えて唸った。
ボーガの顔色は黒い。集落の恥さらしを殺すと言い出しそうなくらいに。
せっかく拾った命なのだから大切にしてほしいと、アスカは思うが。
だが、泣き崩れるメメラータの姿を見て思う。
心の底から、思う。
(こんな風にはなりたくない)
メメラータの評価は地に落ちた。
「まあわかった。メメラータをそこまで追い詰めてたってんなら、そりゃあオレらも悪かったかもしれねえ」
反対に、意外とラジカの物分かりは悪くなかった。
その言葉に、助かったというように顔を上げるメメラータ。
だがその凶鳥、決して優しくはないことは知っていたはず。
「でもお前よぉ」
ぐいっと、その首根っこを掴まえるラジカ。
小柄なのに、大柄なメメラータを摘まみ上げるように持ち上げて聞いた。
「うちのラッサといい仲っていうヤマトにこんな真似して、どうラッサに面目が立つんだ?」
「え、あ……姫様には、内緒で……」
「おいダナツ!」
ラジカの呼びかけに、ダナツは面倒くさそうに手を上げた。
「こいつはオレの船に乗せてくぞ」
「ああ、そうしてくれ」
「ひい、勘弁してください姐さん」
「やかましい!」
ぽいっと転がされるメメラータの姿は、いつかの頼もしさの欠片もなかった。
人間、悪い企てをすると器とかそういうものを台無しにしていしまうのかもしれない。
「どっちにしてもダナツ、そろそろ出発だ」
ラジカが西側を指さした。
見張りも何かを伝えるように指している。
海に日が沈む。
オレンジ色に揺れる海面を指して、ラジカは何でもないことのように、とんでもないことを言った。
「そろそろ、オレらを追ってネレジェフがこっちに来ると思うからよ」
夕日に揺れる海面が少し盛り上がったように見えたのは、錯覚ではなかったようだった。
※ ※ ※
後方の海面が盛り上がり、長い蛇のような水柱がいくつか上がるのを見た。
ネレジェフ。
大きさは、見当がつかない。
少なくとも水柱の高さは数百メートルといったところで、盛り上がる海面の横幅が、他に比べる物がなくてわかりにくい。
山のようなとでも言うのか、とてつもない大きさの塊が、じわりと進んでくるのを船尾から見ていた。
あれの活動範囲に入ってしまったら、生き延びることなど出来そうにない。
海の悪魔と呼ばれるのに相応しい、手のつけようのないどうしようもない存在。
だが、北西からの風に乗った帆船に追いつけるほどの速度はない。ラジカの船もそれで離脱できていたので、進む船からは段々と遠ざかり、そのうち見えなくなった。
バナンガ諸島から東に向かうと、四日後にそれが見えた。
海皿砦。
せっかくだからという理由で、普段は見られない海皿砦を眺めてから進路を北に取る。
途中、ヤマトが妙なことを言う。
「見たんだって! 頭がTAKOみたいなYAGI!」
波間にそんな生き物を見たと主張するヤマトだが、他の人は誰もそんなものを見ていない。
というか、途中の単語が日本語になっていて伝わるはずもない。それほど取り乱していた。
「ババリシーみたいな体で、頭のところが切波背の足みたいな……海を歩いていたんだ!」
疲れているのだ。アスカは少しだけヤマトに優しくしようと思った。
海皿砦辺りから、ラジカの船は南に向かっていった。ノエチェゼに帰るのだろう。連行されたメメラータを乗せて。
ヤマトとアスカを乗せた船は、予定外の状況を乗り越えながらリゴベッテに向かうのだった。
※ ※ ※




