水乙女
白耳鼬の耳は美味しい。
肉は大してうまいものではないが、耳の部位だけはとても美味しかった。
メメラータが仕留めたそれを何も貢献していないのに食べるのは気が引けたのだが、食べてみてよかったと思う。
白耳鼬の襲撃から三日が過ぎた。
船の雰囲気は良い。
天気も良い。相変わらず風は弱いが、ギュンギュン号の乗員同士の雰囲気は良好だと言える。
それもこれも白耳鼬の襲撃を一人の犠牲者もなく乗り切ったからだ。怪我人はいたが、死者はいない。
数匹に乗り込まれて誰一人死ななかったのは、ダナツの経験でも初めてだと言う。
大抵は一人二人が海に引きずり込まれて犠牲になる。悪ければもっとだと。
ヤマト自身の功績がゼロでも、致命的な被害が出なかったのだからそれが最良の結果だろう。
「…………」
アスカも、危ういところだったがフィフジャが救ってくれたという。大森林でもそうだったが、いつも本当に命がけでヤマトたちを守ってくれる彼に感謝の言葉もない。
全て良かった。それでいい。
(……ダメだな、僕は)
納得しきれない自分が嫌になる。
活躍できなかったからと不満に思うなど、本当に幼稚で恥ずかしい。
ケガの影響や船酔いがなければ自分だって、という気持ちが湧いてくるのが抑えれれなくて、自己嫌悪に陥るのだ。
「浮かない顔ね」
そう声をかけてきたのはサトナだった。
「まだ船酔いがひどい?」
「ううん、違う。大丈夫だよ」
自分の低俗な悩みで心配をかけるのも申し訳がないので、笑顔を作って応じる。
そ、と短く答えてサトナは空を仰いだ。
彼女は波や風を見ることを主に担当していて、大体はそうして遠くを見ていることが多い。
帆は上げられている。この場合の意味は、帆を上に畳んでいるという状態だが。
速度を落として、別の船と接舷しているところだった。
低速だからサトナの手が空いているのか、それとも今は別の担当の船員がやっているのかはわからない。
「メメラータのこと、大丈夫?」
そんな風に世間話を振ってきた。
気になっているのだろう。サトナはメメラータとの付き合いが長いはずだ。
(もしかしてラッサとも、かな?)
考えていなかった。体調も悪かったし色々と問題があって考えていなかった。
ふと思い当たってしまったヤマトの顔色が曇るのを見て、サトナが慌てて手を振る。
「いや、別に聞き出そうとか責めようってわけじゃないから。メメラータはちょっと乱暴かもしれないけど黙っていたら美人だと思うし、あれで意外と乙女なところもあるのよ」
「乙女……うんまあ、知ってる。大丈夫だよ」
その単語に引っかかってしまったが、ヤマトもメメラータのことを少しはわかっているつもりだ。
腕っぷしが強くて気風が良い印象と、案外と傷つきやすい繊細な内面があったりと。他にも――
――ダナツさん、水三樽で銀貨一枚はやりすぎじゃあないですかね?
少し離れた甲板でのやり取りが聞こえてくる。
ダナツと話している相手をヤマトは知っている。ノエチェゼで最初に紹介してもらった船主だ。
「俺ぁ別にいいんだぜ。無理に売るつもりもねえ。不足してるっていうから譲ろうかって提案してるだけだ」
「……それはそうですが」
「払えねえ金額を言ってるわけじゃねえだろ。むしろ、この状況じゃあ優しすぎるくれぇの格安料金だと思うがな」
ダナツの余裕の態度に、苦々し気にしているのはイオックという人だったはず。
ボンルが紹介してくれた気のいい船主だとかで、見た目は船乗りというよりは商売人という感じの。
渋々という形で金を払い、真水の入った樽を自分の船に運ばせる。
「おい、空樽も三つだぞ」
「わかっていますよ。業突く張りが」
捨て台詞を残して去っていくイオックの後に、空っぽの樽が三つ運ばれてきた。
ギュンギュン号の右舷に接舷していた渡し板を外して、また離れていく。
「けっ、てめえに言われちゃおしめえだぜ。イオックの野郎」
ヤマトはどうなのか知らないが、雰囲気からすると今はダナツが相手の足元を見た取引をしていたと思うのだが。
あまり仲良くない相手なのかもしれない。
ふと見れば、少し離れた場所でアスカが相手の船の甲板をじっと見ているのに気が付いた。
何か思う所があるかのように。
「……知り合いでもいたのか?」
アスカの様子が気になり、近付いて聞いてみる。
少しだけ首を傾げてから横に振った。
「ううん、ちょっと話したことがあるだけ」
離れていったイオックの船を見ると、ヤマトより少しだけ年上かと思える青年が甲板の掃除をしていた。
他にも、今の渡し板を片付けて繋留していた縄を解こうとして、別の船員に叱られている若者もいる。
不慣れな船員、というか見習いというか。
「どうしたの?」
サトナがアスカに訊ねると、やはり少し考える仕草をしてから、
「あの人たち、たぶんお金を払って乗ってると思うんだけど……」
と、その不慣れな様子の若者たちを指した。
サトナは何か知っているのか顔を顰めて、その奥でダナツが呻く。
「けっ」
不愉快そうに吐き捨てるのは、彼も何か知っているのだろう。
「何かあるの?」
アスカが訊ねる。ヤマトが訊ねないのは、ダナツの心証ではヤマトが軽んじられていることを理解しているからだ。
重視しているアスカの疑問になら答えてくれる。
「俺ぁイオックの野郎は好かねえ。あいつのやり口はな」
「船代だけなのよ、それ」
不十分なダナツの言葉をサトナが補足した。
とはいえ、まだ十分ではない。
「?」
「食費だとかが入っていないの。水も」
「ああ」
運賃だけの料金を提示して、徴収している。
物品を運ぶのであればそれでもいいが、生きている人間を運ぶのならそうはいかない。
「海に出てから飯は別だ水は別だと。安い船代に釣られた間抜けが身包みはがされるか、ああして働かされるか」
言いながら、ダナツはもう一度面白くなさそうに鼻を鳴らした。
サトナも陰鬱な面持ちで溜息を吐く。
「それで」
「男手ならまあマシよ。重労働とか危険なことをやらされるけど、まだね」
「…………」
アスカの顔がわずかに歪むのを見た。
その表情の意味をヤマトが察するように、サトナも理解したようだ。
「……あとは、中で賄いとかさせられてるんじゃない」
「…………」
嘘つき、とでも言うようにサトナを見てから、アスカは被りを振った。
サトナの今の言葉はアスカへの気遣いだ。彼女を非難することではない。
ヤマトが言うまでもなくそう飲み込んだアスカの後ろで、またダナツが面白くなさそうに唸るのだった。
間抜け、とダナツは言った。
うまい話に乗せられて、そのツケを払わされる間抜け。
そうなのかもしれないが、正しいことだとは思えない。歪んだ行いだ。
聞いている誰もが不愉快な気持ちを抱いている。
「どうにかならないの?」
サトナに聞いてみるが、やはり返答は否だった。
「よその船のことはね、向こうから要望がない限りは関わらないの」
「それが海の掟だ」
掟か。
ただの規則という意味ではない。
大陸間を航海する船では、一定の規則を遵守することで少しでも安全を高めようという取り決めがあるのだろう。
安全が確保された旅路ではない。どういう危険があるかもわからないし、時には仲間を見捨てなければならないこともある。
長い歴史の中で掟が出来た。
素人のヤマトたちが口を出していいものでもないとはわかっている。
「ううん、本当に少し話して顔を知ってるってだけ。別になんでもないから」
そう言ってアスカは船尾の方に歩いていった。
船尾の、今接舷していた船とは逆の左舷に。
「ごめん、迂闊だったわ」
「別に君のせいじゃないよ。僕も知らなかった」
ついうっかり女性の扱いについて言及してしまったことを謝るサトナ。
こういう話の流れになるとは思わなかったのだから仕方がない。
ちょうど思春期初期のアスカにとっては特に消化しづらい話題だっただろう。
――どうしたよ、嬢ちゃん。元気ねえな。
――俺が海笛教えてやろうか。
――何言ってやがる、さっき飛羽魚捕まえたんだ。うまいんだぜ、これが。
アスカが向かっていった辺りからやいやいと騒ぎ出す声が聞こえてきた。
やれやれと肩を竦めるサトナの視線の先には、こめかみに血管の筋を浮かべた船長の怖い顔があるのだ。
船員たちの雑談を微笑ましく思っている様子ではない。
「あいつら……てめぇらはてめぇの仕事しやがれ! 海に叩き込むぞ!」
「うっひゃぁ、おっかねぇ」
「あとでな、水乙女の嬢ちゃん!」
「水乙女の為ならいっくらでも働くぜ!」
「じゃかましいわ!」
怒鳴って船員を追い回すダナツを見送って、サトナとヤマトは顔を見合わせる。
なんだかんだで、この船はいい雰囲気だ。
妙な呼び名が定着してしまっているのも理由があって仕方がない。
「水乙女、ねえ」
そんなに可愛げがあるものか、と。
先ほどサトナがメメラータのことを乙女と言ったのも、最近船員が口々に言うアスカの呼称があってのことだろう。
「大人気ね、妹さん」
「みたいだけど」
兄は色々と形無しだ。人気アイドルと地味な兄といった感じで。
「水乙女ね」
随分と素敵な呼び名をつけてもらったものだと、誇らしいのか何なのかよくわからないところだった。
※ ※ ※
代償術が使い勝手が悪いと言ったのはフィフジャの師匠だったか。
ラボッタ・ハジロとかいう名前の魔導師と呼ばれる人で、けっこうな有名人らしい。
あまりその名を出すなとフィフジャからは言われている。
有名な名前というのは厄介事も招きやすいのだとか。
そういえばフィフジャ自身も、ノエチェゼでフィフジャ・テイトーとは名乗っていない。
ケルハリと喧嘩になった時も、彼がその名を知っていたからという理由のようだったけれど。
それは今は関係ない。代償術が世間一般で非効率的な魔術もどきと認識されていることは事実らしい。
使う人間も少ないし、確かに何でも出来るというわけでもない。半端な力という印象もわかる。
「使い方次第よね」
半端な力でも出来ることはある。
ちょっと温めたり、ちょっと冷やしたり。
先ほど少しイヤな気持ちになったので、それを忘れる為に自分に課した職務に没頭する。
海水を掻き回す。
樽に汲んだ海水に片手を突っ込んだまま、軽くバシャバシャと遊ぶ。
(水を動かさない方が効率いいかな?)
落ち着きを失くしていた右手の動きを止めて、集中してみた。
「…………」
左手には鍋の蓋を持っている。
最初はアスカが持っていた鍋を使っていたが、もっと大きいものをと要求したら厨房の大鍋の蓋を用意してくれた。予備らしいが。
右手に力を、左手にも力を。
――ん。
熱めのお風呂という感じだろうか。
バケツに水を汲んで真夏の日差しの下に置いておくと、案外とすぐに減ってしまう。
沸騰するほどではない温度でも蒸発するのは早まる。
樽に汲んだ海水を温めて、湯気が立つその上に金属の鍋の蓋を斜めに掲げる。
温まった海水の代わりに、鍋の蓋が冷える。
凍り付くほどの温度ではない。冷蔵程度の温度だから、触れている手が凍傷になるほどでもなかった。
加湿した空気を冷却すればどうなるのか。
難しい話ではない、結露して水滴が出来るのだ。
除湿器という家電製品がある。少し能力が大きいものだと、10リットル以上のタンクが数時間で満杯になったりする。
湿気を取り除こうとし続けて室内で運転させた場合の話でそういった数字を出せるわけだが。
加湿しながらそれを行えば、短時間でどれだけの水を確保できるのか。
海水の入った樽から少しずらして斜めに構える鍋の蓋の下には、別の空樽がその結露した水を受けとめている。短時間でもそれなりの量に。
水不足だと困り顔の彼らにアスカが実験した成果は、彼女を海の聖女と崇めるほどの信仰心を生み出していた。
「無理すんなよ、嬢ちゃん」
船の影でそれを行うアスカに船員たちが声をかけていく。
珍しい魔術で真水を作ってくれる可愛い少女ということで、水乙女と呼ばれるようになった。
別に望んだわけではないのだが。
(……まあ、私に似合っていないとは言わないけど)
悪い気分ではない。
いや、それなりに嬉しくて、つい張り切ってしまっている。
(綺麗で可愛い感じだよね。次は何て呼ばれちゃうかな)
さらなるランクアップも目論んでいた。
船の影で水を生成しているのには理由がある。強い日差しでアスカが参ってしまわないようにということと、他の船の連中に見つからないようにと。
技術を秘匿したいというギュンギュン号の思惑もあるし、アスカの有用性を知った他の船が何か悪さをしないとも限らない。
だから船の影で、船員が汲んでくる海水に手を突っ込んでいるのだ。
アスカがやりやすいように適度な高さの椅子や台まで用意された。気分はちょっとしたお姫様だ。
「疲れていないか?」
フィフジャがやってきた。クックラも一緒で、簡単に食べられるように固めて焼いたものを持っている。
「大丈夫……はむ」
クックラが差し出したそれにかぶりついた。
決して行儀が良いとは思わないが、仕事中で手が離せないので許容範囲のはず。
「んぐ……ありがとう、クックラ」
「ん」
もう一口で食べきってしまう。口の中が満杯になってしまった。
「そんな代償術の使い方があるとはな。知らなかった」
「んん……んむ」
「いや、いいから食べててくれ」
食事中に話しかけてしまったとフィフジャが苦笑を浮かべてアスカを促した。
その左腕にはまだ生々しい傷が残っている。おそらく跡になってしまうだろう。
アスカの為に負った傷だと思えば申し訳ない。彼はそんなことを言わないが、やはり申し訳ない。
「少し休んだ方がいいだろう。俺が変わろうか」
フィフジャがそう言ったところに、彼の後ろにぬぅっと人が姿を現す。
数人の船員さんたちだ。その中の一人は肩に大きく包帯を巻いたコデーノという白耳鼬に噛まれた男だった。
数人でフィフジャの首に手を回し、仲良さげに肩を組む。
「何言ってくれてんだ、兄さん」
「そうだぜ、兄さん。いくら兄さんでも水乙女の仕事に横入りはいけねえや」
「だな。それぞれ役割分担ってもんがあらぁ」
船乗りというのはそれぞれ持ち場があるものだ。もちろん複数の持ち場をこなせるが、与えられた持ち場を完璧に遂行することを求められる。
そういう気質なので、役割分担というものには厳しいようだった。
「お前ら……」
フィフジャが半眼で彼らを見据えた。
アスカはクックラと顔を見合わせる。何が始まるのだろうか、と。
「どういうつもりだ?」
「どういうつもりって、兄さんよ」
「聞きてえのはこっちだぜ」
「まったくだ」
船員たちの気持ちはブレない。
フィフジャが見かけによらず強者であることは、先の戦闘で知ったはずだが。
しかし彼らが怯むことはなかった。
この青空のように明らかなことをなぜ理解できないのかと言うように、フィフジャに諭す。
「野郎の手ぇ突っ込んだ水と、水乙女の手から滴る水。どっちが飲みてえかって話だろ」
「聞くまでもねえやな。野郎の手なんざ女の足よかヤだぜ」
「そうそ……いんや、足ってんなら……そうか、足なあ」
「お前らな……」
船員たちの目がアスカに向いた。
バカな目をしている。輝くほどバカな顔だ。
「嬢ちゃん、疲れたら足で――」
「フィフ、疲れたから交代ね」
「んのぉぉぉぉぉ!」
バカの相手をするのは疲れるのだ。
フィフジャは使えなかった。
代償術が使えなかったとかそういう意味ではなくて、役に立たなかったというか。
足手まといというか、本当に。
「本当に魔術の才能ないのね」
げえげえと船縁で吐いているフィフジャに、いっそ感心してしまっているアスカだった。
吐くまでやることもないだろうに。
「…………」
フィフジャに魔術の才能がないというのは聞いている。世間で魔術士として認められるようなことが出来ないことはわかっている。
火種の魔術が使えないことで、その発展の光弾の魔術も使えない。
そういうことだと思っていたのだが。
「う、ぶげぇえ」
それだけではなかった。
フィフジャには魔術の才能がない。
アスカは、海水を沸騰させない程度の出力で、蓋を凍らせない程度の力で、適度にやっていた。適当な加減というか。
持続しなければならなかったし、沸騰させたら火傷してしまう。
いつもフィフジャが代償術を使う時に傷んでいることだし、アスカも水蒸気を発生させた時には自分の手が傷んだ。
別に常に全力を出すこともない。自転車を全力で漕ぎ続けるのではなくて適度な力加減で進めるように。
アスカと同じことをフィフジャがやろうとしたのだが、そういう調整がとても難しいらしい。
彼は、100か0かという使い方以外は得意ではないのだ。
それすら得意ではないのか。とにかく魔術的な才能が極めて低い。
師匠に呆れられたと言っていたフィフジャだが、彼の弟子にあたるアスカでも少し、何というか、やはり呆れてしまうほど才能がなかった。
「吐くまでやらなくてもよかったのに」
代役を務めると言い出した意地だったのかもしれないし、アスカにいい所を見せようとしたのかもしれない。
だが、出力調整に手間取った挙句にこの有様。
「フィフ……休んだ方がいいよ」
正直、邪魔なので船室に帰っていてくれと。
そこまで言わないだけの恩義は感じているのだが、素直に言った方がいいだろうか。
ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返すフィフジャの背中を見ながらアスカは悩むのだった。
※ ※ ※




