憧れの背中
三日後。
まだヤマトの顔色は優れない。嘔吐こそはしないものの、食欲はないし気分は悪そうだ。
船員たちの顔色も優れない。
天候は晴天で波も穏やかだと言うのに、ダナツを始めとして船員の顔色は浮かなかった。
「風が弱すぎる」
サトナがそう言うのだからそうなのだろう。
台風一過と言うのか、嵐の後の好天は予想通りではあるのだが、洋上でここまでの微風は一日二日程度なのが常なのだそうだ。
本来ならもう少し風が強まり、船足も速くなるということだが。
「今年は嵐の日も少しずれてたけど、何かいつもと違う」
「考えても仕方ないさ」
不安げなサトナを元気づけるようにメメラータが声をかけるが、サトナは首を振った。
そうではない、と。
遅いことを憂いているわけではない。それもあるが、そうではなくて。
「北に流されすぎてる」
「?」
アスカは改めて船の進路を見てみる。
弱いとはいえ若干の風はある。帆船であるギュンギュン号はその風を帆の右側に受けて進んでいた。
西へ。
北東が目的地なのに、西へ。
周囲には水平線と並走する他の帆船も同じ状態で、どの程度の速度が出ているのか把握しにくい。
夜になれば星の配置などで現在地を割り出すことが出来るようなのだが、アスカにはそういう技術がなかった。
「海流があるの」
仕事の話に口を挟んでいいのかわからず黙っていたアスカに、その疑念を察したサトナが説明してくれた。
「ズァムーノの西側から北東に流れてリゴベッテの東に行く海流と、もう少し北のユエフェンとの間辺りからリゴベッテの西に流れる海流」
「風が弱いから、その潮の流れに押されちゃってるってこと?」
「そう。この海流だと海皿砦の近くを通ることになっちゃう」
「イチかバチかの航海なんてごめんさ」
そのルートは例のネレジェフの住む方角だ。広い海なのだから絶対に当たるとも限らないが、確率は高くなる。
避けるべき航路。
「思いっきり東側から回るのはダメなの?」
今は西に迂回するルートを取っているが、東回りで避けていくことは出来ないのだろうかと。
アスカの疑問に、サトナが帆を指さした。
「風向きがね、ほとんど北西からだから」
「そっか、わかった」
サトナの短い言葉でアスカが理解を示すと、メメラータと二人きょとんとする。
聞いていた他の船員たちも不思議そうにアスカを見た。海が穏やかすぎて船員たちも暇らしい。
「今のでわかったのかい?」
船乗りでもないアスカが、たった二言三言で本当にわかったのか、と。
「うん、帆船は風に向かっては進めないもの」
アスカは自信を持って答えた。
本当に理解しているか怪しんでいる彼らに、ちゃんと理解したと説明する為に地図を描いたノートを広げる。
書いていなかった海流を書き加えて、消しゴムを船に見立てて現在地っぽいあたりに置いた。
「北西からの風だけど、実際に行きたいは北東。だけど直線ルートには危険があるんでしょ」
「ああ」
「右回りで行こうとすると、リゴベッテの右側に出ちゃう。そうすると、そこから西に向かおうとしたら風向きと正反対になっちゃうし、海流とも真逆。これじゃ進めないもの」
アスカの理解度を確認して、サトナとメメラータが反論の必要がないと無言で頷く。
「左回り……北西の風を帆の右側に受ければ、船は西側に進む。そうやってなるべく西回りに北に向かってから、今度は海流と風を後ろから受けて進めば、北東に行くスピードも速くなる。距離は大回りになってもこっちの方が早いのかな」
サトナとメメラータが顔を合わせる。
周囲にいた船員たちも、アスカの答えを聞いてどよめいていた。
「船乗りでもねえちっちゃいのが、よく知ってるなぁ」
「こいつぁ驚いた」
「兄ちゃんはあれだが、嬢ちゃんはいい船乗りになれんぞ」
ならないけど。
喝采は悪い気分ではない。
その兄は今も船室でぐったりしている。クックラが付き添っているが何もすることもないだろう。
フィフジャはあまり甲板に出てこなかった。最初にケルハリと喧嘩のようなことをしてしまったことを気にしているようで、やや体面が悪そうだ。
「よくわかったわね。本当にその通りよ」
サトナに認められてアスカの気分も良い。
帆船については漫画の知識だが、それを実際の航海で現地の状況に合わせて理解することができた。
知識は万能ではないが無駄にはならない。活かすことが出来る。
「あたしゃいまだによくわからないんだけどさ」
「メメラータは感覚派だから」
サトナがフォローするが、意味合いは感覚派ではなくて肉弾派なのだと思った。
(竜人だし)
人種的な偏見かもしれないが、そういう傾向の人が多かったのは事実なので否定する根拠はない。
「どこも状況は同じだ」
サトナの所にボーガが来て溜息交じりに告げる。
先ほどまで、手旗信号で他の船とやりとりしていたようだったが。
「慌てて出航したから食料が不足しそうだ。水も少ない」
「こうなると雨でもほしいところね」
ギュンギュン号には二十人以上の乗員がいる。
海水を飲むわけにはいかないのだから飲用水の準備は絶対に必要だ。保存のきく酒も準備してあるが、真水もほしい。
雨水が衛生的にどうなのかは疑問もあるが、海原でそんなことを気にしていては生きていけないだろう。
サトナは遠くの空を見やって、力なく首を振った。
雨の見通しはなさそうだ。アスカも見る限り雨雲のようなものは見当たらないし、この微風で急激に天候が変わることもないと思われる。
晴天続きも良し悪しということか。
「こうも船足が遅いと――」
「剣日の方角に波しぶき!」
メメラータが言いかけたところで、マストの上から声が響いた。
全員が一斉に反応する。
進行方向に向かって右側やや前方。アスカもそれを見て同じ方角を見る。方位とすれば北ということになるが、言い方は違った。
他の船でも似たような反応が起きている。剣日の方角というのがよくわからないが、とにかくそちらに。
「大きい……?」
「いや、群れだ」
大きく波しぶきが上がる辺りを見てアスカが漏らした言葉に、ボーガが訂正する。
一匹の大きな生き物ではなく集団だと。
「切波背の群れね」
穏やかだった甲板は、俄かにに騒がしく慌ただしくなるのだった。
※ ※ ※
切波背。
魚なのかと思っていたら違った。波を切り裂くように三角のヒレのようなものが立ち上がっているが、手足がある。
手足というか、触腕というのか。複数の触腕を持ち、三角のヒレのある生き物。
「普段ならやり過ごすんだけどね」
サトナはそう言ったが、隣に立つメメラータは楽しそうに銛を構えた。先端が二つに割れている銛だ。
「気をつけなよ。別に獰猛ってわけじゃあないが、こっちが手出しすりゃあ向こうだって黙っちゃいない」
攻撃するつもりなのか。だから銛を手にしているのだろうが。
他の船員たちもやる気を出しているようで、進路を切波背の方に取りながらやはり銛を手にしていた。
誰の顔にもあまり覚悟めいたものはない。笑顔が多い。
「そんなに強い魔獣じゃないのよ。でも食べられるから」
「ああ、そういうこと」
食料に不安があるという話だった。群れを見つけたので狩っていこうという話。
そうこうしているうちに、切波背の集団は近くなっていた。
見てみれば、十本近い足をうねらせて、平泳ぎのような形で推進している。
網で取れば一網打尽のような気もするのだが。
「気をつけな。怒ると飛びかかってくるし、背ビレの鋭さはちょっとしたナイフだよ」
網を使わない理由もある。
鋭い背ビレで網が切れてしまうのでは使えない。
アスカも手伝いたいと思うところだが勝手がわからない。
余計なことをして邪魔になるのもいけないと思い、少し離れて見ていることにした。
念の為に手にはステンレス製のナイフを握っている。
(たぶんイカってやつ)
図鑑で覚えている限りで似たような生き物を思い浮かべてみた。
地球のイカのサイズよりは大きいと思うが、海に生きる手足がたくさんの生き物だとそれが一番近い気がした。
考えているうちに、メメラータの銛が投げられた。
ロープが結わえられていて、投げた後にそれを引っ張って巻き上げている。
「おお、負けちゃいらんねぇな」
「男捕まえんのは空振りばっかりだってのによ」
「るっさいね、ぶっ飛ばすよ!」
そんな軽口を叩きながら引き上げたメメラータの銛の先に、二尺から三尺ほどの灰色っぽいぬめりとした水棲生物が突き刺さっている。
まだびちびちと動くそれを、メメラータが銛ごと甲板に叩きつけた。
死んだのか意識を失ったのかわからないが、そうされると切波背は力を失うようで、びちびちと動いていた触腕がだらりと、また鋭く尖っていた頭部のヒレからも力が抜けていく。
力が抜けると、刺さっていた銛もするりと抜けた。何かコツがあるのかもしれないが、メメラータはまた次の獲物に狙いを定める。
「まだ生きてるから注意してね。ここを持って」
甲板に置き去りにされた切波背にサトナが素早く寄る。
頭部のヒレの尖っていない側を手で引っ張り上げて、その付け根にナイフを当てた。
すぅっと。
刃のようになっていたヒレを切り取り、どこからか用意してきたタライに放り込んだ。
切波背の体の方は、また別の大きな容器に放り込む。
「やってみてもいい?」
「急に暴れることもあるから、メメラータの獲った分だけにして」
別の船員が取ったものをまたサトナが捌いていく。
アスカは言われた通り、メメラータの次の獲物を待った。
「あいよっ」
良い具合にアスカの足元へと届けてくれる。
先ほどサトナがやったようにヒレの後ろ側を掴んで引っ張り、それを根元から切断。
つるん、というような軽い感触で刃物が入っていくが、最後の付け根の所だけ少し抵抗があった。
ステンレスナイフを滑らせると、そのあたりの繊維質な部分も綺麗に切り取れる。
「へえ、いいナイフじゃない」
見ていたサトナが口笛を吹いてアスカの道具を褒める。まあ腕がいいと主張するつもりもない。
背ビレをタライに放り込み、本体を――と思ったら結構重たかった。
力を入れていなかったので、簡単に持ち上がらない。
「ああ、置いとい――」
「ふんんぬぅ!」
えいしょっと。
持ち上げて容器に放り込む。
「っと……なぁに?」
「ううん、なんでもないよ」
サトナの表情は少し引きつっていた。はしたない声を出してしまったかもしれない。淑女なのに。
気を取り直したように、サトナは次に上がってきた切波背を捌きにかかるが――
「うぁっ!?」
力を失ったかと思った切波背が跳ねて、サトナに飛びかかった。
メメラータの獲物が来るまで手が空いていたアスカは、その通り手が空いていた。
その獲物が跳ね上がったと同時に甲板を蹴り、手にしたナイフを切波背の灰色の体に差し込む。
「ったぁっ!」
そのまま甲板に叩きつけた。
アスカのナイフの先端が甲板に刺さり、貫かれた切波背が標本のように縫い留められた。
「大丈夫だった?」
「あ、ありがと」
先ほどの淑女らしくなさを取り戻そうと微笑みを浮かべて聞いてみたが、サトナの表情は引き攣ったままだった。むしろ酷くなったというか。
「あ、うん……ってこらぁ! ちゃんとやんなさいよ!」
「わりぃわりぃ」
切波背を気絶させられなかった船員に怒鳴るサトナ。
こういうことがあるからメメラータの獲った分だけにしろと注意してくれたのか。
不慣れなアスカを気遣ってくれたわけで、逆に余裕があったアスカが彼女の助けに入れた。
お互い様というところだ。
アスカがやらなくても何とかしたのかもしれないが、危ない目に遭わずに済んだのならそれでいい。
「そろそろ引き上げるぞ!」
そう号令をかけたのは船長のダナツだ。
他の船も同じように、獲物を捕ることを終わりにして方向を変えようとしていた。
「まだいるのに?」
せっかくの食料だ。もっと獲っておいた方がいいのでは、と。
「やつらの気が立ってきてるからね」
「長居すると今度はこっちに襲ってくるのよ」
海を見たら、どういう手法かわからないが、海から射出されるように飛び出して他の船に飛びかかる切波背が見えた。
波間から大きく跳びだして、船に突っ込む。
活きの良いまま船に上がってこられたら厄介だ。
適度な頃合いで退散するという船長の判断は正しいのだろう。
「何の騒ぎ――」
間の悪いヤマトがドアを開けた瞬間だった。
ぐらりと、転進する船が揺れる。
通常なら帆船で急激な舵取りというのはあまりしないが、それでも方向を変える時には揺れる。
ちょうどそこに飛びかかる切波背が重なって、急な揺れにバランスを崩したヤマトの正面に衝突した。
「ぶはっ!」
「ヤマト!」
切波背と一緒に甲板に転がるヤマトに慌てて駆け寄るアスカ。ドアの後ろからフィフジャも顔を出す。
切波背はヤマトの顔の上に触腕を這わせていた。
吸盤のようなものが付いたぬめった触腕を。
「う、うわぁぁああっなんだこれっ!? 気持ち悪いっ!」
「やめて! 刃があるから暴れるとケガする!」
顔にへばりついたそれを払いのけようとするヤマトを制止するが、混乱しているヤマトは引っ付いた切波背を引きはがそうと闇雲に暴れてしまう。
逆の立場ならアスカもそうだったかもしれない。いきなり得体のしれないぬめったものが顔にへばりついたら。
想像しただけで気持ちが悪い。混乱するのもわかる。だがこのままでは背ビレの刃でケガを――
「おとなしくしてな!」
メメラータだった。
暴れるヤマトを一喝すると、背ビレの根元を掴みあげる。
そのまま海に放り込んだ。
「あ、うぁ……あり、ありがとう……」
「大丈夫か、ヤマト」
フィフジャが倒れたヤマトを助け起こすが、ヤマトはまだ今のショックから立ち直れていないようだった。
間も悪いが体調も悪い。今の衝突で大したケガをしなかった運は悪くないと思うのだが。
(海だと全然ね)
苦手なこともあるだろうが、ここまで色々とダメなヤマトというのは今まで見たことがなかった。
とりあえずの食料を調達して、ギュンギュン号を始めとする船団は再び西に進路を取っていた。
どたばたしている間に切波背の群れからは抜けたらしい。
「坊主、かっこわりいなぁ」
「嬢ちゃんの方が頼りになるんじゃねぇか」
余裕が出てきた船員たちが、ヤマトをからかうように笑う。
「…………」
アスカもそう思うのだが、他人に言われるのはちょっと腹立たしい。
万全な体調で陸地だったら、あんな魔獣などに不覚を取るような兄ではないのに。
とはいえ今の様子から言い返すことも出来ない。ヤマト本人もアスカにしても。
「やっかましいんだよ!」
メメラータだった。再び。
ヤマトを笑いの種にしていた船員に、帆が波打つほどの怒号で一括する。
「あんたらだって最初の航海んときは似たようなもんだったろうが! こんな坊や掴まえて笑いものにするなんざ恥を知りな!」
怒号を受けて、静まり返る甲板。
そこまで怒らなくても、彼らも軽口のつもりだったのだろうに。
「あ、ああ、そうだな……」
「わるかったぜ、坊主。まあ気にすんな」
そこは、気にするのはお前の方だと言いたいが。
叱られて弱々しい謝罪の言葉を残して散っていく船員たちに、メメラータが苦々しく舌打ちした。
それから、やはりしょげているヤマトの頭に手を乗せる。
「ま、ちっとカッコ悪かったのは本当だね。海の戦い方ってのを今度教えてやるよ」
頼もしいお姉さんというのは、ヤマトには経験のない相手だと思う。
頭を撫でられ、なんとも不思議そうな顔で俯いた。
「……ちょっと切れてんじゃないかい? おいで、あたしの薬塗ってやるから」
そう言ってヤマトを連れて船室に向かう。
彼女の部屋はヤマトたちが雑魚寝している部屋と違い、サトナと二人の部屋だ。
「あんたら、さぼってないでちゃんと働きなよ!」
そう言い残して去っていくメメラータの背中を見送る。
彼女の背中は大きい。背も大きいが、なんというか、とても頼もしい。
ノエチェゼでもそうだった。追われているアスカたちを庇って、敵を食い止めてくれた。
そういえば、あの時のお礼もちゃんと言えていなかった。
「……かっこいい」
「そうだな」
フィフジャも認める。
見返りも求めず、真っ直ぐに生きる姿は美しい。
メメラータの背中。ああいう風になりたいと、アスカは改めて思うのだった。
※ ※ ※




