海を越えた世界
海の広さは想像をはるかに超えていた。
広いというだけなら大森林だって広かったのだが、あちらは視界が非常に狭い。
海は違う。
深く青い水を湛えた場所が視界の遥か先まで続いていて、そのあまりの距離が現実的でないとさえ思う。
世界の広さを実感するのにこれほどわかりやすい場所もないだろう。
ノエチェゼの港からも見たはずだが、その大海原へと進むと、まだ自分の感覚が小さくとらわれていたのだと思い知ることになった。
世界は広い。
当たり前のことかもしれないが、それを目にしたアスカの気分は、雲一つない青空と同じように大きく広がっていくようだった。
「う、ぼええっぇぇっ」
「…………」
隣で嘔吐している兄の姿というか、その吐瀉音に、気持ちが曇るわけなのだが。
「ん、ん」
「あ、ふぁ……ぼげえぇぇぇぇっく、うぇほっぉふ……」
背中をクックラにさすってもらって、さらに嘔吐を繰り返す。まだ吐くものがあるのだろうかというのは疑問だが。
ひどい姿だ。
アスカとしても責めるつもりはないし哀れに思わないでもないが、それにしてもひどい。
「はっはっは、ひでえな坊主」
ギュンギュン号の船員がヤマトのその姿を揶揄する。
そんな言い方をしなくても、と思わないこともないのだが、
「『僕がいれば魔獣くらい平気だ』って、でかい口聞いといて。なっさけねえなぁ」
わははは、と笑われるのも仕方がない。
大口を叩いておいてこの体たらく。どうして兄はこう、フラグを立てるのが好きなのだろうか。
ノエチェゼでもそうだったようだが、何か王道のイベントを踏襲しないと気が済まない体質なのかもしれない。
まずは船酔い体質なのは疑いようがないのだが。
気持ちの良い晴天の海に、ヤマトの嘔吐の音が響く。
船出は、順調なのかどうなのか怪しいものだった。
「三日もすれば慣れるだろう。俺も最初はそうだった」
フィフジャの言葉が届いているのかどうか怪しい。
船出してすぐに、まずは海の魔獣について大口を叩いたものの、ケガの影響で体力を消耗していた為に船室で休んでいた。
起きて甲板に飛び出してきたかと思ったら、それからはげえげえとやっている。
おそらく背中を擦っているのがクックラだと気付いてもいないだろう。
ノエチェゼではほんの少しかっこいい兄だと思ったはずだが、この姿を見ての減点がそれを帳消しにして余りある。船酔いなのだから仕方がないとはいえ。
「……うぇ」
笑われても反論する気力すらないようで、とりあえず吐くだけ吐いたのかふらつく足取りで船室へと戻っていった。
心配しないでもないが、何か有効な手段もないので休ませておくしかあるまい。フィフジャがそれに付き添っていく。
アスカは意識を切り替えて、再び海を見渡した。
「お兄ちゃんはひどいみたいだけど、あなたは平気なんだね」
先ほどまで船首の方で風向きなどを見ていた女がアスカに話しかけてきた。
船長ダナツの娘、サトナ・キッテム。
「アスカよ。兄はヤマト。この子はクックラ」
名乗っていなかったかもしれないので、一応言っておく。
「アスカね。あたしはサトナ。クックラ、さっきは大変だったわね」
「うん、サトナ。よろしく」
「ん」
少なくとも数十日の船旅の中で、一緒に行く比較的年齢の近い数少ない女性だ。仲良くしておいた方がいいだろう。
そんなアスカの思いを知ってか知らずか、サトナはあっさりとした様子でよろしくと返した。
「私は……たぶん、乗り物に慣れてるから」
「そうなの?」
「小さい頃、家にあったねこ……荷車に乗って、ヤマトに押してもらったりしてたから」
猫車と言いかけて、それはここでは通じないと言い直す。
森のでこぼこ道を、幼いアスカを荷車に乗せてヤマトが押すという遊びをしていたことがあった。
船に揺られるのもそれに近いものがあるのかもしれない。先ほどフィフジャが言ったように慣れれば平気になるのだろう。
「グレイも元気なさそうだったぞ」
ヤマトを船室まで送っていったフィフジャが戻ってきて報告する。
船が出航してからしばらくすると、グレイはヤマトの寝ている近くで小さくなっていた。
落ち着かない様子で、どうやら足元がふわふわするのが怖いらしい。これもどうしようもないので、休ませておくしかない。
森では大活躍のコンビも、大海原では本来の調子にはほど遠い様子だった。
「海の魔獣じゃないんだ。仕方ないよ」
「そうだよね。海の魔獣ってどういうのがいるの?」
せっかくなのでサトナに聞いてみる。もし襲われたら、乗客だからと見ているだけというわけにもいかない。
アスカだって自分が並みの戦士より役に立てるという自負があるのだから。
そういうアスカの勝気な性格が好ましいのか、サトナは笑顔で応じる。
「海は種類が多いからね。まあ有名なのだと、小浮顎、太浮顎、切波背とか。虚二結……白耳鼬なんかが出たら厄介かな」
「白耳鼬?」
「でっかい獣よ。もし群れに遭遇したら絶対に逃げる。っていうか遭遇する前に回避しないとやばい」
名前からすると白い獣なのだろうとは思うのだが。
そういえば、アスカは以前から気になっていたことがあった。
「魔獣の名前ってさ、二種類あるじゃない?」
「?」
サトナとフィフジャが、アスカの言い出したことに疑問の表情を返す。
少し唐突だったかもしれない。もう一度言葉を変えて聞いてみた。
「ええと、ほら。皮穿血とか黒鬼虎とか、その姿形が名前になっているのと、ババリシーとかニトミューみたいな愛称みたいなのと」
「ああ、そうだな」
フィフジャはアスカの聞きたいことがわかったようで、まだいまいち意図がわからないサトナはきょとんとしている。
動物の名前なんて、そういう風に決まっているものだろう、と。
生まれ育った言語圏ではないアスカだからの疑問であり、生まれた時からそれに慣れているサトナにはわからないのだ。
「主に家畜だな、鳴き声なんかが名前になってるのは。ブーアはそのままだし、ニトミューは生まれた頃にはみゅーみゅーと鳴くんだ」
「へえ」
「ババリシーは俺も知らないが」
家畜になるような生き物は、普段から人々の近くで接する。その鳴き声などから名前が定着したのだとして不思議はない。
「魔獣なんかは見たことがない人間も多い。だから、名前でその姿形や生態が想像できるように名付けられたんだろうと思う。牙兎は、まあ見たまんまだな」
「バムウは?」
「あれは子供の遊具の名前をつけられている。丸めた球の呼び方だ」
なるほど、とフィフジャの説明に納得する。
前々から疑問だったのだが、魔獣の名前はそういう実用性もあって名付けられているということか。わかりやすくて良いとアスカが思うように、この世界で生きる人たちにとっても同じように。
太浮顎。空を飛ぶ大きな口の魔獣だと、見たことがない人でも想像が出来る。
「ええと……もう一匹、いたじゃない。白くて大きい、あのSHIROKUMA……」
先ほどの白耳鼬ではないが、白くて大きな獣は見たことがある。名前を思い出せなかったが。
「白い……ああ、ブラノーソか」
「そうそう、それ」
森で出会った白熊。あれはどういう理由で名付けられているのか、今のルールと違う気がする。
「あれはラノーソの関係って話だと思ったが」
言いながら、フィフジャも記憶が曖昧な様子で、あまり自信がなさそうだった。
「ラノーソ? ユエフェンの町のこと?」
聞いていたサトナが横から聞くと、フィフジャは半端な頷き方をする。
「その、ラノーソの町の近くだったのか、ラノーソっていう戦士だったか、ラノーソを倒した近くの町がラノーソって名前になったんだったか。そういう話だったような」
「よくわからない話ね」
サトナの言葉にアスカも同意だが、フィフジャとて何でも知っているわけでもない。
うろ覚えでアスカの疑問に答えが返せずに、フィフジャは軽く肩を竦めた。
「そんな謂れがあるって話だ。俺もよく知らない」
「ユエフェンって寒いところだったよね」
今向かっているリゴベッテとは違う大陸で、気候的には寒いと聞いている。
白熊のような生物が生息していても不思議はない。その仲間だから同じような名前がついているということなのかもしれない。
ブラノーソのことは置いても、とりあえずの疑問は解消された。
「海にはまだまだたくさんの種類の魔獣がいるんだから。舐めてたら死ぬよ」
「うん」
生態のわからない魔獣は恐ろしい。どういう攻撃手段を持っているのかわからない。
小さな生き物でも猛毒を持っているかもしれないのだから、警戒しすぎるくらいでいい。
「バムウみたいな毒のある生き物は?」
「そういうのは割と海の底の方だから、海面に出てくるようなのなら虚二結くらいね」
「どういうの?」
「長細い紐みたいな魔獣よ。うねうねと体をくねらせて、自分の体を結ぶみたいな動きをするんだ。惑わされると噛まれて毒にやられる」
名前に準じたの生態だった。海蛇か。
「まあそれよりも何よりも、ネレジェフが一番おっかないけどさ」
「違いない」
サトナの言葉にフィフジャも苦笑いを浮かべて頷く。
ネレジェフ。何度かその名前を聞くのだが、アスカはそれがなんなのか全く知らない。かなり有名なようだが。
「…………」
「ネレジェフっていうのは海の妖魔……妖獣かもしれないんだが、海の悪魔と呼ばれている」
「知らないの?」
アスカの様子を察して説明したフィフジャを見て、サトナが驚いたようにアスカの顔を覗き込んだ。
船乗りとして当たり前というより、世界的な常識という認識らしい。
アスカは、後ろで静かにしているクックラを振り返った。
反応を求められたクックラは、ふるふると首を横に振る。
「はあ……まあ、そういう子もいるか。港町で育ったら知らないなんて有り得ないから。気を悪くしないでね」
「ううん、いいけど。ネレジェフってどんなの?」
バカにされたと思うわけではない。本当に知らないことに驚いただけの様子だったので、別に腹は立たない。
世間の常識が不足している自覚はあるのだし、いちいち怒っても仕方がない。
「どんなのって言うと……噂話だが、海水で出来た大きな魔獣だとか」
「海水?」
「水っぽい体をしているって話だよ。とんでもない長さの生き物で、通りかかる船でもなんでも捕まえて食うって話」
「俺が聞いたのは山のような大きさだとか。気づかずに船が突っ込むとそのまま飲み込まれると」
サトナとフィフジャの説明から想像してみようとするが、いまいちよくわからない。
水っぽいというのは、クラゲのような生き物ということなのか、アメーバのような粘菌風の生物ということも考えられる。
海の中にそんなものがいたとしたら、気づかずにその体に向かって進んでしまうことも考えられる。
というか、そんなの海では無敵ではないのか。
「……本当にそんなのがいるの?」
「実際に被害にあった船団もあるし、逃げ延びた奴らもいるって」
「龍が」
サトナの説明にフィフジャが続ける。
「異界の龍が死ぬ際に海に落ちて、この妖獣が生まれたという話だ。伝えられる龍の姿とは大きく違うから関係があるのかわからないんだが」
「それ以前から海にいたって話もあるからね。正体はわからない」
海の悪魔。
悪魔という呼び方は初めて聞いたが、他の危険な生き物と一線を画す災厄のような存在なのだろう。
伝説の龍と並んで、世間では広く知られている。知らないなんて珍しい、と。
「そんなのどうするの?」
今の話が本当なら出会ったら即全滅のような存在だ。
心配になるアスカに、サトナが笑って頷いた。
「大丈夫、あれがいるのは海皿砦の近くから東辺りだから」
「海皿砦って?」
「ズァムーノ、リゴベッテ、ユエフェンの真ん中あたりに……ああいいや、おいで」
説明しかけて、いいことを思いついたというようにサトナがアスカを促した。
どちらかといえば、悪いことを思いついたという顔だったかもしれない。
アスカはフィフジャとクックラの顔を見てから、そのサトナの後をついていくのだった。
※ ※ ※
「くぉらサトナ、おめえは物見番だろうが」
「このまんまなら夜まで待っても風は吹かないよ。干からびるまでそうしてろって言うの?」
船室……ヤマトたちがいる船室とは別の高い場所の入り口に、サトナは歩を進めた。
中にいたダナツから苦言を吐かれるが、慣れた様子で言い返すと後ろで待っていたアスカたちを招く。
「おめえ、ここは遊び場じゃねえと……そいつぁタダじゃねえんだぞ」
「何よ、あたしが小さい時はここで遊べって言ってたくせに。だいたい減るもんじゃないんだからケツの穴の小さいこと言わないの。海の男が廃るわよ」
「ぬ、う……」
入ってもいいものだろうかと戸惑うアスカだが、言われたダナツは渋面で黙り込む。
黙認ということなのだろう。外見はごついが娘には弱いらしい。
「ほら、ここだよ。ここに海皿砦があるの」
彼女が指さしたのは、壁に掛けられた一枚の日焼けした大きな布。
「……これ」
世界地図だった。
初めて見る、ちゃんとしたこの世界の地図。
どこまで正確なのかはわからないが、少なくとも大陸間航行をする船にあるのだから、それなりに信頼できるものなのだろう。
紙ではなく布に描かれている。
「すごいでしょう。こんなにいい地図はよその船にはないんだから」
「はっ、ったりめえだ」
サトナが自慢げに言うと、ダナツもそれに続いて胸を反らす。似た者親子だと思う。
さっきは惜しんだのに、見せるとなれば得意そうにするダナツ。
「確かに……これは、大したものだな」
フィフジャも驚いていた。クックラは何がすごいのかわからないという顔だったが。
世界地図。
下の方の真ん中辺りにジャガイモのような大陸が描かれている。真ん中辺りに上から裂け目が入った大陸。それがズァムーノ大陸。
その右上に、右曲がりの太いナスのような、そんな形の大陸がある。それがリゴベッテ大陸。
反対の左上に見える、独楽のように上の方は分厚く下の方が細っていく形になっているのがユエフェン大陸ということか。
「あれ、ユエフェンの上の方って?」
描かれていないというか、ユエフェン大陸の左上は地図からはみ出して切れている。
「ユエフェンの北西部は極寒の山脈が続いていて、そこから先はわからない」
フィフジャが説明してくれた。
「そこいらは海も凍ってるって話だ。まあ俺らにゃ関係ねえがな」
ノエチェゼの船乗りからすれば関係ないのだろう。そこの地図は必要ないし、そもそも人跡未踏ということなら描きようがない。
先ほどサトナが指さしたのは、三つの大陸のちょうど中央あたり。
ズァムーノから見れば、割れた部分から上に進んだ地点に丸い印が書かれていた。
「ここに海皿砦っていうのがあって、ネレジェフはそこの周りから東辺りにしか出ないの」
「へえ、そうなんだ」
どんな理由があるのかわからないが、そういう事実がわかっているから航海が出来るのだろう。
なぜどうしてと聞いても答えがないことはわかっている。とりあえず事実確認だけでいい。
そこに対処不可能な危険があるとわかっていれば、それを避けて通るだけのこと。
世界地図全体を見て、生まれ育った家の辺りを見てみる。木々らしいものが書き込まれているだけなのだが。
どの辺だったのだろうか。少なくとも山脈沿いだったことはわかっていても、それ以上のことはわからない。
「ねえ、オジサマ。これ書き写してもいい?」
「あぁ?」
アスカの申し出に怪訝そうな顔で応じるダナツ。
自慢げな様子から考えると、勝手に書き写したら悪いかなと思ったのだ。アスカにだって遠慮する気持ちくらいはある。
ダメだと言われても今見て覚えた限りの記憶を残すだけなので、とりあえず筋を通そうかと思っただけ。
「書き写すって、ここにゃ木板も墨もねえぞ」
ダメだとは言われなかった。
「大丈夫、持っているから。オジサマありがと」
「あ……っていや、おい嬢ちゃん……」
呆気に取られているダナツを尻目に、アスカは船室に走っていった。
ヤマトは寝転がって呻いていた。その隣に置かれた荷物の中からノートと筆記用具を持ち出してダナツの部屋に戻る。
とてつもなく高品質な紙ということでダナツたちも驚いていたが、惜しげもなくその紙に地図を書き写していくアスカに、気が付いたら許可してしまった形になっていた。
※ ※ ※




