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 ~ 閑話 ~ 

「でぇ、こいつはなんだ?」

「…………」


 アスカたちは甲板でダナツに詰問されていた。

 難しい顔で、両腕を組んだまま。

 彼の正面には一つの樽が置かれている。どこにでもありそうな樽だ。

 あまり身長が高くないダナツ・キッテムの腹くらいまでの高さの樽。


「樽……」

「それを俺が聞いてると思ってんのか嬢ちゃんよ」

「怒らないで、オジサマ」

「やっかましいわい。ちょいと飛びぬけて可愛いからってうちのサトナに比べりゃ色気も何もないわ」

 作戦は失敗。


 船首の方で風を見ていた女が、深く溜息を吐くのがわかった。

「いや、俺たちも本当にさっき乗ったところで、何も知らないんだ。金なら払っただろう」

 金は払った。金貨二枚。二十万クルト。

 払わなければ船から落とすと言われたのだから選択の余地はなかったのだが。

 黒鬼虎の毛皮も金貨二枚だった。ギリギリ足りてよかったと思う。


 一人五万クルト。これは普通の相場らしい。

 ヤマト、アスカ、フィフジャに加えて、グレイは連れじゃないのかと聞かれた。なので四人分。

 そうじゃなければ解体して食うとまで言われたのだし、グレイも大切な家族だ。一人分として数えてもらってもいい。

 銀狼も飲み食いもするのだから、当然それに見合った費用が必要になる。そう考えれば無茶な要求というわけではないだろう。

 そもそもが、このドタバタのなかで急遽乗ることになったのだから、追い出されないだけでも有難い。

 しかし、樽のことなど言われても何もわからないのだ。


「こいつはな、何でか俺にゃあわからんのだが、借金の返済分なんだとよ」

「私たちにも意味がわからないんだけど」

「そりゃそうだろう。わかったら驚きだぜ。文無し」

 先ほどほぼ全所持金を徴収されたところだ。そう呼ばれても仕方がない。


 ヤマトはいない。戦闘、負傷、出血の上で治癒術でも相当な体力を消耗したらしく、船室でへばっていた。

 当然、個室などというものはないので雑魚寝のような状態だが、贅沢が言える立場ではないことは承知している。

 出航自体も予定外だし、乗員としても員数外。本来ならこんな状態で大陸間の船旅などすべきではないのかもしれない。


「っとに、あのバカが何を考えてんだかわかんねぇけどな」

 ダナツが乱暴に樽の蓋を開ける。液体などが入った密閉容器ではないので、ずらせば簡単に開くのだった。

 そこには――

「……ん」

 黄色い、太陽を反射するヘルメットが。

「クックラ!」

「知らねえとは言わさねぇぞ。こいつが金貨一枚になるってんなら俺も文句は言わねえがな」


 樽の中から抱き上げると、クックラは心配そうにアスカを見つめた。

 ごめんなさいとか、そういう顔で。

 そんなことは気にしなくていいと、アスカはクックラの小さな体を抱きしめる。

「密航は海に沈める規則だ」

「ああそうだ、ボーガ。海じゃ海の掟を破らねえ。例外を作ったら船も荒れるし海も荒れる」


 ぎゅっと抱き着いてくるクックラを抱きしめて、アスカはダナツを睨む。

 そんな風に怯えさせなくてもいいじゃないか、と。

「ああ、ええっと……船長。確かにわかるんだが、知っての通り……」

「お前らが文無しなのはもうわかっとるわ。だからこれをどうするか、一緒に考えましょうかっていう提案じゃねえか」

「そんな風には聞こえなかったけど」

「ったりめぇだ。聞こえてたら俺が海に沈むわ!」

 わははは、と周囲の船員から笑い声が上がった。


 どこがおかしいのかわからないが、海賊ジョークなのかもしれない。

 むう、と頬を膨らませるアスカと、困惑するフィフジャ。

「こういう場合の作法はわからないんだが、海に沈める以外の解決方法はあるのか?」

「金が払えねえんじゃな。後は奴隷としてその船で働くってぇだけだ。言っとくが甘くはねえぞ、ガキでもな」

 ふん、と面白くもなさそうにダナツは言う。


 アスカが抱いているクックラの体から少しだけ力が抜ける。

 殺されないというだけでいいと、そう思ったのか。

 それとも、アスカたちに迷惑をかけないということで安堵したのか。

「……その労役を俺が代わっても?」

「構わねえが、それこそ容赦はしねえぞ。それに、言っとくが往復だ。使えねえとなりゃメシの無駄になるから使い潰すことだってある」

 使えない奴隷なら食料の無駄だと。


 クックラの体がまた硬直する。

「向こうに着けば金の工面が出来るかもしれない」

「……だからって半額にゃならんぞ。掟だからな」

「ああ、それで……」


「フィフ」

 勝手に話が進んでいくが、この流れは違う。

 クックラのことで何か必要であれば、それはアスカの請け負うべきことであって、フィフジャではない。

 ここでクックラを見捨てられないのも、アスカがそう望まないからだ。フィフジャが無用な労苦をするのは違う。

 責任を取るのはアスカの役割。


「お金って、お金に代わるものでもいいよね?」

 アスカはクックラを離して立ち上がる。

 真っ直ぐにダナツを見つめると、厳つい顔の船長はやや居心地悪そうに頷いた。

「あ、まあな。しかし金貨一枚ともなりゃ……」

「これ」

 アスカは自分の荷物から一つの布袋を取り出す。


 少し重い。欲張りすぎたかもしれないが、これで役に立つのならそれでいい。

「あぁ?」

 受け取って中身を改めるダナツ。

(こんなこともあろうかと、ってことね)

 フィフジャは何が始まるのかと口を出せずにただ見ていた。


「――って、お前こりゃ……ハウタゼッタ石じゃねえか!」

「足りるかしら?」

 その中身を覗き込んで一同が口をぽかんと開けている。フィフジャも同じく。

 えへ、と笑うアスカに、クックラはおよおよと周囲を見回していた。


「や、ま、……まあ、確かに、だな」

「いったいどうして……?」

 フィフジャが疑問を口にするが、にっこりと笑って答えない。

 女の子には秘密があるものだと思うので、言わない。



 ノエチェゼを出て、追ってくる船の姿もいくつかある。

 そこには、生まれ育った町を捨てて新天地を目指す男女の姿がある。

 夢と希望を抱いて海を渡る若者たちの姿もある。

 あの混乱の中、出航する船に乗れたのは幸いだったのか、そうではないのか。

 どんな選択が正しくて、何が間違っているのかはわからない。後悔は先には出来ないのだから。


「あ、あの……おねえ、ちゃん……」

 初めてではないだろうか。

 クックラがアスカを姉と呼んでくれるのは。

 言葉の少ない子で感情表現が苦手だけど、純真な子だということはわかっている。


「なあに?」

「あの……わたし……」

「バカね、クックラ」

 泣きそうな顔でアスカを見上げるクックラに、全開の笑顔を向ける。

 今は泣くべき時ではない。


「いっしょに旅をしましょう。思いっきり楽しく生きるのよ」

 クックラの表情は固いままだけれど、言いながらアスカの笑顔はさらに輝く。

 灰色の瞳に、自分の最高の笑顔が映っているのが見えたから。


「……んっ」

 ごしごしと目をこすって、しっかりと頷く。

 黄色のヘルメットの下の表情は、この晴天よりもなお輝くのだった。



  ※   ※   ※ 



「あのクソババア、戦争でも起こそうってのか」


 喧騒から外れて、港から遠ざかっていく船をみながらボンルはぼやいた。

 手にした一切れの木板を遊ばせて、少し誇らしげな顔で。


 善い行いをした。

 あの幼女が事情を説明してくれたら、彼らとの間のいざこざについて多少はわだかまりが解けるはず。

 あとは連中が何とかするだろう。まあなんとかなるんじゃないだろうか。

 そして、借金も返した。

 色々と清算した。

 この騒ぎに乗じて一番うまく立ち回ったのは自分ではないかと思う所だ。


 それと――

「こんな物騒な、大長(おおおさ)の名前で全面的に協力しろなんざ正気の沙汰じゃねえぞ。竜人まとめてノエチェゼに攻めてこれんじゃねえか」

 その木板は、ゼヤンがアスカたちに渡していた木板だった。

 彼らはそれを、別の村で出したときに聞いたはずだ。


 ――出来るだけの協力をするように書いてある、と。


 出来るだけというのは、常識の範囲でという意味ではなかった。

 竜人としての誇りをかけて可能なこと全てに協力しろ、と。

 数日の宿と食料を依頼されたから、当然それには応じてくれた。

 悪用するつもりであれば、もっと何でも頼むことが出来たのだ。


「……バカか」

 クックラがこれを差し出して来た時にはどうしようかと思った。見なければよかった、と。

 銀狼を連れた一行に最大限の協力を、なんて。しかもその一行にこともあろうか弟分どもが悪事を働いたとか、もうどうすればいいのだ。

 泣きたい。

 知らない振りをしたかったが、がさつだが根は真面目なボンルにそれは出来なかった。


 仕方ないので聞いてみた。幼女に。

 お前はどうしたいのか、と。

 本来の持ち主ではないが、この様子であれば彼らから託されたことくらいわかる。

 なら、とりあえずこの幼女の希望を叶えることでこの罪悪感から逃げようと。


 幼女は、彼らと一緒に行きたいと言った。泣きながら。

 そうと聞いたら竜人ボンル、それを叶えてやるのが己の仕事と。

 樽に詰めてダナツの船に持っていったら銀狼が甲板にいた。間違いなくこの船に乗っている。

 そこでもう一つ閃いた。

 やつらにこれの船代を払わせれば、ついでに借金もチャラになるような……あれ、船代ということだとチャラにならないのか。いやいや俺様の働きで船代が入るんだからやはり借金がチャラになるんじゃないかと。

 そこらにいた連中にそれを渡していたら、船が岸を離れようとしたので退散したのだ。間違ってダナツの船に乗って出航など御免だ。

 少しだけ、()()()もなくはなかったのだが。


 だが御免だ。こき使われる姿を思い浮かべたらケツがむずむずする。

 そうして彼らの船出を見送ることになった。



「こんなもん、縁起でもねえや」

 右の拳で、その木板を殴りつける。他の者が見ていれば軽い一振りだったかもしれないが、その衝撃は木板を微塵に砕く。

 粉々になった木板は、波間に散っていった。

 ボンルはそれを満足げに見やって、息を吐いた。




「……久しいな」

「おめぇか」

 竜人の言葉で話しかけられ、ふと見れば意外な人物がいた。

 意外ということもない。ボンルは自分が全く驚いていなかったことに気付く。


 あの岩千肢を、一撃で仕留めた竜人の戦士。

 自分以外でそんなことが出来そうな顔はそれほど多く思い浮かばない。


(ああ……今なら、俺でもやれるか)

 ヤマトたちと一緒に戦った時は、体が竦んでまともに動かなかった。

 強敵だと思うと、全竜武会の決勝の敗北を思い出して十分に動けなくなっていた。トラウマという言葉は知らなかったが。


「どうしたよ、こんなとこで」

「戦っていたが、戦う理由がなくなったと言われた」

「?」

 要領を得ない。こいつは話が下手だ。

 戦いとなれば、ボンルを一撃で昏倒させるような強さのくせに。


「お前はなぜ?」

「……逃げてたからだよ」

 こいつとは違う。

 村に帰るのが怖くて、逃げてここに来た。

 ここの生活が何となく居心地よくて、そのまま居ついているだけだ。


「お前ほどの戦士が?」

「それをお前が言うかよ」

 やれやれ、とボンルは頭を振った。

 一撃で俺様をぶっ飛ばした本人がよくもまあ。


 彼こそが、ボンルの世代での全竜武会の優勝者。世代最強の竜人だ。

 次に会うことがあれば、復讐心に火が付くか、あるいは怯えるかのどちらかだと思っていたのだが、どちらでもない。

 なんとなくやっぱりな、という気持ちと、こいつ強いなと思う気持ちがあるくらいで。


「私は、お前が怖かった」

「……はぁ?」

 唐突な言葉に、何と返したらいいのだろう。

「違うな。お前を恐ろしいと思っている」

 何が違うのかわからなかったが、本人の中のニュアンスは何か違うらしい。

 どちらにしろ、何を言い出すのか。


「私は、お前と戦いたかった」

「何をいまさら」

「叔母上から聞いた話なら、お前は私以外に負けぬと思った。事実、決勝で戦うことが出来た」

「…………」


 勝手に語り出す。

 こうして話す機会はなかった。

 全竜武会の優勝者は、点在する竜人の集落を渡って賞賛を受ける。

 ボンルが目を覚ましたときには、既に彼はその旅程に出ていて、言葉を交わす時間はなかった。

 その時に話したかったことを、本人なりにまとめて喋っているつもりなのだろう。

 話の脈絡がわかりづらいのは生来の性分なのだろうが。


「決勝で、私はお前に対して私の最高の拳を最高の形で叩き込んだ。正直に言えば殺したと思った」

「ああ、死ぬかと思ったぜ」

 言ってみたものの苦笑が漏れた。

 嘘だった。何も覚えていない。


「だがお前は倒れなかった」

「……?」

 話が違う。

 ボンルの記憶と、彼の話が食い違う。


「私の最高の一撃を受けて、お前はなお立ち上がり、私の前に立ちはだかった」

「……そう、だったか?」

「大長が止めなければ私はお前を殺していた。恐怖に駆られて。勝ったと言われたが、そうは思えなかった」

 ぽつり、ぽつりと。

 当時の心境を吐露する言葉を聞きながら、決勝の後で村の面々に言われた言葉を思い出す。


 立派な戦いだった、歴史に残る決勝だった、と。

 あれは慰めの言葉ではなかったのか。

 本当にあの時の自分は、決勝の相手として恥ずかしくない姿を見せられていたのだろうか。



「……へっ」

「どうした?」

「お前の叔母って誰だよ」

「ピメウだ」

「ああ、そうだったかよ」


 全竜武会の優勝者は、各集落を回る。

 ピメウもそれでボンルの村に来たのだ。まだボンルが十三歳の頃に。

 全竜武会の優勝者として稽古をつけてくれるということで、村の若者がこぞって挑んだのだ。

 全てこてんぱんだったが。


 ――あのおっぱい、な。


 ボンルも挑んだ。勝てないまでも、その胸部に抱き着いてやろうと。スケベ心で。

 彼女の蹴りが強烈だったのは覚えている。

 そう、それを食らいながら顔を埋めた胸部のことも覚えている。汗臭かったけれど、けっこういい思い出だ。筋力は異常だが胸部は柔らかかった。


「は、ははっ」

 自分が何にこだわっていたのか、ボンルはそれすらわからなくておかしかった。

 大した話じゃあない。

 この男はボンルとの戦いを望み、その戦いに負けたボンルがいじけていただけのこと。


 ヤマトたちの姿を見ていたらそういうみみっちい自分の情けなさをつまらなく感じて、あまり気にしなくていいかと思ったところでこれだ。

 答えを出したところで答えを開示される。そんな間の悪さだが、別に悪い気分でもない。



「お前、ヘロに雇われてるんだって?」

「いいや、違う。私はズァムナの子を守りたくてこの町に来たのだが、ヘロという家に留め置かれただけだ」

 ズァムナの子とはまた古臭い話を、とボンルは笑う。

 そんな伝説がどこに転がっているというのか。


「で、どうすんだよ。これから」

「使命は果たされた……のだと思う。特に他にはない」

「あぁ? まあなんでもいいや、ちょっと手伝えよ」

 話していてもよくわからない。話下手に聞き下手だ。無駄なことに時間を費やすこともない。


「大長の割符を持った奴が、ロファメトの連中に世話になってたみたいだからよ。ちぃっと手助けしてやろうかって」

「別の竜人にも言われた。ロファの手勢に加勢してほしいと」

「なんだ、ちょうど良かったじゃねえか」

 竜人の部族の名は短いので、長い普人族の家名を略すことがある。ロファで始まるのならロファメトで間違いないだろう。

 どこの誰だか知らないが、ボンルの都合と合うのなら別に誰でもいい。


「じゃあ、そういうことでいいな」

「お前がそうするなら、私も共闘しよう」

「堅っ苦しい奴だな。ってか、お前普人族の言葉覚えろよ」

「ジナの大長にも言われた」

「はっ、あのクソババア」

「叔母上にも言われた」

「ぶ、あの筋肉女が勉強しろってか」

 いまだ荒れるノエチェゼの町を、まるで性格の違う二人の竜人の戦士が歩いていくのだった。



  ※   ※   ※ 



 ノエチェゼの混乱は数日を過ぎても終息することはなかった。

 御三家の武力が分散しすぎて、今度は他の抑えが利かない。小競り合いや殴り込みなどの抗争は当分続きそうだ。

 そんな中、ロファメト・ラッサーナは自宅に戻ってきた。

 

 ぼふっと。

 ベッドに体を預ける。

 仮宿の寝床とはまるで違う。やはり自宅は落ち着く。

 お風呂にも入りたいが湯を沸かすのは贅沢かもしれない。燃料だって無駄に出来ないのだから。

 魔術で水を温めるのは、ラッサには力が足りない。頭痛がするまで頑張ればぬるま湯くらいまでにはできるかもしれないが。


「…………」

 ここはラッサの自室ではない。

 先日までヤマトが使っていた部屋。

 ベッドにヤマトの匂いが残っているだろうか、と息を吸い込んでみるが、そもそもヤマトの匂いなど覚えているわけではない。

 絨毯に灰色の毛が落ちているのは、間違いなくグレイのものだ。

 彼らがここにいたという証。幻ではなかったと思うと少しだけ心が和らいだ。

 ベッドから手を伸ばして、その毛を摘まみ取ろうとする。が、少し遠い。

 ごてん、とベッドから転がり落ちてしまった。


「…………」

 我ながら気が抜けている。

 戦況が落ち着いたからこうして自宅に戻ってこれたのだけれど、忙しさのあまり忘れていた心の隙間が大きすぎる。

 それほど長く一緒にいたわけではないし、そこまで依存していたつもりもないのだが。


「…………」

 見たことのない人だった。

 今までに会ったことのないタイプの少年だった。

 抜けているけれど鋭くて、気が利かないようで妙に優しかったりきめ細かかったり。

 あの時、変なことを言わないで真っ直ぐに好意を伝えていたら、状況は違ったのかもしれない。

 好転したかそうではないのかもわからないけれど、こんな風に床に転がる気持ちにはならなかっただろう。


「可愛いかったもんね……」

 ラッサは、今までそれほど明確に自覚していたわけではないが、自分より見目が良い同性というものをほとんど知らない。

 明らかに自分より可愛いと思ったのは、エズモズの町長の娘以外ではアスカが初めてだった。

 サトナのことは同じくらい可愛いと思うし、メメラータの魅力は自分とは全く違うとも思っている。少し男運がないのは可哀そうだけれど、いつかいい人が出来るはず。

 アスカを見た時に、負けてる、と。そう思ってしまった。

 あんなに可愛い妹がいるなら、そっちが心配で当然じゃないの。さっさと助けにいっちゃいなさいよ、と。

 そういう気持ちがなかったわけではない。


 妹に対して何をやきもち焼いているのかという話だが、こういうのは感情の問題なのでどうしようもない。

 ただ、ヤマトの負担になりたくないと思う気持ちも本当だ。彼はこの町に長く滞在するつもりでいたわけではないはず。

 あの状況で、よくもまあリゴベッテへの船に乗れたとも思うのだが。メメラータの船なら心配はないだろう。

 サトナは優秀な船乗りだし、他の面子もベテランだ。船長のダナツはアウェフフと一緒に航海していたというくらいの猛者なのだ。


 不意に助力を申し出てきた竜人がヤマトのことを知っていたのは驚いたが、お蔭で彼らが無事だとわかった。

 ダナツの船に乗っているという話も彼から聞いた。


 安心した。

 混乱の中で同行できなかったけれど、ヤマトが無事だと聞いて安心した。

 そして、助力に来てくれた竜人は本当に頼りになった。

 サトナがぼこぼこにすると言っていた竜人だと思うが、次に戻ってきた時には少しだけ口添えしてあげようと思う。悪い人ではないのだと。

 働いた分は食べるという感じだったけれど、戦力に限りがあったチザサ、ロファメトにとっては有難い限りだ。



「…………」

 いつまでも床に寝転がっていても仕方がない。

 こうしていても、ヤマトはラッサを助けにきてくれたりはしないのだから。

 颯爽と、あの窓を開けて来てくれるならそれでも――いや、やめよう。


 体を起こそうとして、それに気が付く。

 ベッドの下に輝くそれに。

「……?」

 ごそごそと、隠された宝物のようなそれを探ると――

「これって」

 真っ赤な防具に真っ赤な色眼鏡。この色眼鏡は随分と高級そうだ。ガラスではない不思議な材質で出来ている。


 知っている。町を騒がせていたスカーレット・レディの装束。

 正体はアスカだったはずだが、それをヤマトが回収して、ここに隠していった。

 意味のあることだったのか、特に意味はなかったのか。


「……()()()()わ、ヤマト」

 何がわかったのか。ラッサはそれを消えぬ絆の証のように胸に抱く。

 誤解なのだが。


 時に思い込みが歴史を変えるというのは地球でも例がある。

 それがこの時、このノエチェゼにもあったとしても何の不思議もない。

 世界は、ヤマトやアスカの思いとは無関係に転がっていくし、進んでいくのだから。


「……この町の悪は、私が裁く」

 色眼鏡を装着すると、世界の色が変わった。

 ロファメト・ラッサーナの世界が、変わった。


「この、スカーレット・レディが!」




 ノエチェゼには古くから伝わる伝承がある。

 この町に悪が蔓延る時、真紅の姿をした伝説の怪盗が現れ、その悪を裁くのだと。

 時代を超え語り継がれるその怪盗の名はこう呼ばれる。

 ノエチェゼの真紅、スカーレット・レディ。


 伝説はまだ始まったばかりだ。

 ノエチェゼの真紅の夜は続く。



  ※   ※   ※ 



 嵐が近づいていた。

 北の空から雷雲が近づくのが見える。

 沿岸部を襲った嵐が、内陸部へと近づきつつあるのだ。

 恐れることはない。毎年のことでもあるし、沿岸部ほどひどく荒れることもない。

 夏の終わりを告げる嵐という程度。

 この、ズァムナ大森林の終端にあってもそれは変わらない。




「やっとお出ましかい」

 彼女は大きく溜息を吐いた。

 森に向かって。

「……待ち合わせたわけでもないさね」

 森が答えた。

 低く静かだがよく響く声で。


「なんだい、そりゃ。しまらないじゃないか」

 彼女が指摘したのは受け答えに対してではなかった。

 茂みを分けて森から出てきたそれに対して。

 姿を現した伝説の妖魔《朱紋》の威容に対しての指摘だ。

「大したことじゃあないよ。ちょいと掠り傷さ」

「はっ、約束を守らないからそんなことになるのさ」


 《朱紋》

 白い巨体の猿の姿に、下腹から肩、耳の辺りへと炎のような朱色の鬣を持つ妖魔。

 襟のような紋様のその朱色とは別に、胸に斜めに赤い傷跡が二つ。

 掠り傷というにはやや深い。


「だぁれが約束を破ったってんだい」

「あの子らを襲ったんだっていうじゃないか。森を出ようとしてたのがわからなかったとは言わさないよ」

「ちょっとからかっただけさね」

 バツが悪そうに、悪戯を見咎められたかのように、伝説の妖魔が顔を逸らした。

 竜人の大長、ゼヤン・ジナから視線を逸らした。


「その悪戯に夢中になっていて虎に襲われたって? 笑わせるじゃあないか。ルドルカヤナが教えてくれなきゃやられてたんじゃないかい?」

「バカをお言いでないよ。あたしを誰だと思ってんだ」

 吐き捨てるように言ってから、憎々し気に大森林の上空を睨む朱紋。

 その眼には何も映らなかったが、ふんっと鼻を鳴らす。


「あたしがやられたところで森は変わらないさ」

「そうかもしれないけどね。あたしゃ、あんたしか知らないから」

「《朱紋》を知っているような人間はお前さんくらいのもんだよ。おかげであたしもあんたらの言葉を覚えられたから悪かないがね」

 少しだけ機嫌が直ったのか、朱紋の声が愉快気に揺れる。

 ゼヤンも、まさかこの朱紋とこんな風に話す日が来るとは想像もしていなかったが。


「あんたを取り逃したのは、まあそれはそれで良かったってことかねぇ」

 若い頃のことだ。

 腕に自信があったゼヤンは、己を過信してズァムナ大森林の奥地を目指したことがあった。

 当然、森の守護者と噂される朱紋と戦うことになり、命からがら逃げ延びたのだが。

 なぜか、それからこんな風な関係になってしまった。

 ゼヤンから言葉を教わった朱紋の喋り方はゼヤンに似ている。


「森に入ろうとする者を殺す。それがあんたの役目なんだろう」

「ああ、そうさ」

「だったら森を出ようとしたあの子らを襲うのはおかしいじゃないかい」

「……からかっただけさね」

 今度の言い訳には少し力がなかった。

 自分でも少しはまずかったと思う気持ちがあるのだろう。

 妖魔は獣と違い知性がある。だからこその感情。


「あの子らは、何なんだい?」

 ゼヤンの質問。

 ズァムナの子だなどと言ってみたが、この大森林の奥地に本当に人間が暮らしているとは思えないのだ。

 一度は踏み込んでみたゼヤンだからわかる。人間が住むには環境が過酷すぎる。


「知らないよ」

 朱紋の答えは素っ気ない。

「大森林の中心部はあたしらも入らない。原始からの獣と、あの馬鹿鳥……ルドルカヤナくらいさ。あの鳥は喋れないから知らないよ」

 ゼヤンにはわからないが、そういう取り決めがあるのだろう。

 あの子供たちの正体がわかればと思ったのだが、そこまで期待していたわけではない。

 竜人の祖先についても曖昧な話ばかりなのだから、簡単にわかるものでもあるまい。



「だけどね」

 朱紋が続ける。

 その猿の顔を、意地悪気に歪めながら。


「あの子らが森に帰ろうとするってんなら、容赦はしないよ」

「…………」

「ズァムナ大森林の深奥を目指す人間は殺す。()()()()《朱紋》が森にある限り」

 嵐が、稲光と共に雷鳴を轟かせた。




 今頃、彼らははノエチェゼの嵐の中だろうが、それもそろそろ過ぎる頃だろう。

 願わくば、何事もなく船出が出来ればいい。


「それがあたしらがヘレムから受けた使命だからね」

「……そうかい」

 ゼヤンは北の空を見やる。

 嵐の向こうで、彼らは無事にやっているだろうか。


 良い子たちだった。

 竜人の始祖と何か関係があるのかないのか、ないとしても、元気で幸せに暮らしてほしいと思う。

 彼らの境遇がそれを許すのかどうかはわからないが、できればつらい道など歩んでほしくはない。


「……戻らないといいけどね」

「お互いの為ってんならそうさ」

 朱紋もまた、彼らが戻らぬことを望んでいるようだった。


 夏の終わりを告げる嵐が、大森林に差し掛かろうとしていた。



  ※   ※   ※ 



 目を覚ます。

 辺りはまだ薄暗い。

 明るかったところで心境が変わるわけでもない。

 自分の心の内は、薄暗いままだ。


 喉が痛い。

 夢を見ていたのだろう。いつもの悪夢を。

 声は出ないのだが、必死で呼ぶのだ。何度も、何度も。

 失ったものを。失ってはいけないものを。

 薄暗い闇の中で、どれほど手を伸ばしても届かない、大切なものを掴みたくて。


 身を起こして、あまりの静けさに歯ぎしりをする。

 誰もいない家で、一人きり。

 何年経ったところで忘れられない。この家に笑顔と元気な声が溢れていた頃のことを。

 起きて台所に行き、コップに水を灌ぐ。やや乱暴に、溢れるほど。

 それを渇ききった喉に流し込む。


 まずい。

 まずい。

 あれ以来、何を口にしてもまずいとしか思わない。


 妻は、どうだったのだろうか。

 元妻だ。いつまで自分の女房と思っているのか。


 ひどく罵られた気もする。激しく責められた気もする。

 いつも泣いていた。泣かせた。泣き止ませることはできなかった。

 今でも、何も変わらない。

 当時と違うのは、今は一人だ。


 彼女は、それでもすぐに出て行ったわけではない。おそらく自分を支えようとしてくれていたのだ。

 あんなにボロボロの状態だったのに、夫だった自分を支えようとしてくれたのに。


 応えられなかった。

 堪えられなかった。

 彼女の心情を察することは出来る。彼女の荒れ狂う気持ちを聞くことは出来る。


 けれどそれと同じくらいに。自分の主観で言えばそれ以上に。

 自分も心が壊れていたのだ。引き裂かれ、荒れ狂い、悲嘆に暮れていたのだから。

 彼女が出て行ったのは息子の為だ。幼い息子の為に。

 その判断は冷静に考えれば正しいと思う。決して責めるつもりはない。


 おかげで一人になれた。

 一人に慣れた。

 こうして誰の目も気にせずに泣き通すことが出来る。

「芽衣子……芽衣子、必ず……」

 流しに涙が落ちる。

 鼻水も、涎も、顔じゅうがべたべたになるほど。


「…………」

 振動音に気付き、軽く顔を洗った。

 適当に水滴を拭いながらそれを手にする。


「先輩、寝てました?」

 スピーカーの向こうから遠慮がちな呼びかけが聞こえる。


「大丈夫だ、起きていた」

「まだ四時過ぎですけど……いえ、遭難者の捜索協力の依頼があったんで。隣の市ですけど」

「わかった、行く」

「先輩休みじゃないですか。一応、必ず連絡しろって言うからしてますけど」

「いいんだ、行く」

 自分の要求の通りの行動だ。

 遠慮がちな様子だが、何も遠慮する必要はない。


「行く」

「……わかりましたけど、いつまでも若くないんですからね。休みは――」

 ぶつり、とそこで断ち切る。



 行方不明者や遭難の人間があれば、とにかく率先していくと決めている。休みなら特に自由が利く。

 どこに手がかりがあるかわからないのだから、全てに向かう。

 今の自分に出来ることはただそれだけだ。

 そんなことしか、娘の為にしてやれない。

 どことも知れぬ場所に置き去りにしてしまった娘の姿をもう一度、と。



「…………」

 寛太は、もう一度水を飲んだ。

 顔を洗って、仕事着に着替える。

 もしかしたら、今度こそは、あの森への手がかりがあるかもしれないのだと。


「芽衣子……パパが必ず迎えに行くからな」

 尾畑寛太は、生まれ育った故郷で、今も彷徨い続けていた。



  ※   ※   ※ 

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