精神的幼さ
うずくまる。
膝を抱えて、体を丸めた姿勢。自分以外の世界から自分を守るかのように。
顔は膝に埋めたまま、どれくらいになるか。
眠っているわけではない。眠れないし、気が休まらない。
ドアを叩く雨風の音がだんだんと強くなっていた。強風というところだが、もっと強くなるのかもしれない。
「……ん」
こて、と。
抱えこんだ体の腿の辺りに小さな衝撃を感じる。
服は乾いていた。だいぶ時間が過ぎたようだ。
「…………」
うとうととしながらアスカにもたれかかってしまったクックラは、黄色いヘルメットが少し窮屈そうだ。
眠るなら外した方がいいだろう。
そっと顎紐に手を掛けて外すと、クックラは反対側にごろんとして床で寝息を立て始めた。
疲れていたのだろう。無理もない。
雨の中、必死に逃げたのだ。クックラの逃げ足が大人に負けないほど俊敏だったことを幸いに思う。
その逃げ足だったから、岩千肢からも逃げ延びていたのかもしれない。
「…………」
「アスカも、少し休め」
「…………」
雨で濡れたまま体温で乾いた体というのは、夏でも少し寒く感じる。
体を丸めていたのはそういう理由もあったのだと思う。意識はしていなかったが。
「少し、休め」
「……ちょっとだけ、楽しかったの」
ぽつりと、自分の気持ちを言葉にする。
自分の中でも整理できない気持ちを、口に出す。
アスカは幼いのだ。精神的に成熟していない。
自分では何でも上手く出来ると思っているのだが、心の整理が出来ない。
「……ああ」
フィフジャは質問をしない。
静かに、アスカの言葉に頷くだけだ。
彼は大人だと思う。アスカの言いたいことなどアスカにもわからない。まして他人の彼にはわからないだろうに、適切な応対をしてくれる。
「楽しかったんだと思う。一緒に……少しだけど、一緒に旅をして。ご飯食べて一緒に笑って……」
「ああ」
今度は、理解もある声音だった。
先ほどの戦闘のことではない。
ここ数日のことなのだと。
「……友達、みたいな。そういうの今までいなかったし、わからないけど」
「ああ、そうだな」
フィフジャは知っている。
アスカが、あの大森林の奥地で家族だけで暮らしていたことを。
他人などいない環境で生まれ育ってきたことを知っている。
「……楽しかったんだよ」
「そうか」
外の雨風の音が強いとはいえ、すぐ近くにいるフィフジャにはアスカの涙声はわかってしまうだろう。
消え入りそうな声なはずなのに、彼はちゃんと聞いてくれた。
ここに逃げ込めたのは幸いだった。
逃げながら、雨足が強くなってきて視界も悪くなっていた。
アスカの代償術による瞬間水蒸気の突風で追手を撒くことはできた。一時的にでも。
視界が悪いのは追う方としても難しいが、逃げる側としても視界が悪いのは良いとは言えない。
はぐれるかもしれないし、前方に敵がいるかもしれない。
ふと目に留まったのは、縄に撒いた石が吊るされたドア。
これは空き家の印ではなかったかと。
ドアに閂はかかっていなかった。中に入り誰もいないことを確認して、そこに息を潜めた。
どうしたものか悩んだが、ドアの外の石縄は外した。
追手の中にもしこの家の関係者などがいれば不審に思われるかもしれないが、その確率は決して高くない。
それさえわからなければ、多くある建物の中のどこに逃げ込んだかなど見つけることは難しいはず。
まして雨だ。
このままなら嵐にもなりそうなのだから、どれだけ優秀な警察がいたとしても簡単に見つけられるとは思えない。
しばらくはここで凌げるだろう。
だが、座り込んだものの、興奮した体が寝付くまでに落ち着くことはなかった。
クックラが寝付いたことで、ようやく少し気持ちが治まりつつあるところ。
ふと痛みを感じて見てみれば、左手の肌があちこち切れている。
「た」
ひどい手荒れというか、折れた木の断面でも擦り付けたような状態。
わかっている。水蒸気を発生させた時の反動だ。
フィフジャよりも出力が高いらしいアスカであれば、水を瞬間的に気化させるほどのエネルギーを扱えるようだった。
だが当然、水蒸気ということは摂氏百度を超えるのだし、発生した突風もまともに受ける。まるで無傷というわけにもいかない。
やはりこの世界の魔術というのは、無条件に便利に使えるものではない。
「…………」
黙ったまま、荷物の中から秘伝のアロエ軟膏を出して手に塗る。
よく見たら他にも傷があったのでそれらも一緒に塗ってしまう。
「私、甘かった」
塗りながら、心の葛藤を言葉にする作業も続ける。
「…………」
「襲われて、殺さなきゃって思った時に……フィフに聞いたよね」
「……ああ」
「甘えてた。フィフに、殺してもいいって言ってほしくて……私、責任を押し付けようとした」
「いいんだ。それで」
「よくないよ」
「いいんだ」
フィフジャも譲らない。
彼ならそう言うとわかっていて、その優しさを期待して言っているのかもしれない。
「アスカ、君はまだ子供だ。そんなこと、割り切れるもんじゃない」
「だって……でも、フィフは私のお父さんじゃないから。だめなんだよ」
「…………」
子供だから、甘えてもいい。それはそうかもしれない。
大人が責任を負う必要があることもある。
でもそれはきっと、親とか、そういう人が負うべき責任だ。
いくら優しいからといっても、赤の他人にこんな責任を被せるのは違う。ヤマトに頼るなら許されるかもしれないが。
「私は、出来ると思っていたの」
「…………」
「もしあんな状況で、違う場合でも。本当に私やヤマトが危険だと思ったら、迷わず出来るって……そう思っていたの」
「そんなに簡単なもんじゃない」
「そう、わかってなかった」
噛み締める。
自分の至らなさを。
思い上がっていた自分の愚かさを、ぎりりと歯を噛み締めて。
「わかってなかったって、わかった」
「ああ」
何度も、殺意を抱いた。
あのヤルルーの背後を取った時も、殺すと思った。殺せると思った。
事実、あの時に全力で首を捩じり切っていたら、命を奪うことも出来たと思う。
だけど意識を奪えばいいと思って、締め上げた。
殺すのが怖くて。人を殺したくなかったから。
そういう自分をわかっていなかった。
幼かった。それは仕方ないけれど、そういう自覚がなかった自分の愚かさが悔しい。
「あの時……」
座り込んでいる近くの床に、濡れた鉈が投げ出されている。
ぎらりと、薄暗い室内で金属が光る。
雨に濡れ、温度のないその刃は濡れたままだ。
乾かない。
「……やらなきゃ死ぬって思って」
「ああ……」
「死にたくないって、思ったの」
ただそれだけのこと。
切羽詰まって、殺すのが怖いだとかそんなことを考える余裕もなかった。
ただ自分が死にたくないと、それだけしか頭になかった。
「でもさ、本当に……本当に、友達みたいだって……思ってたんだよ」
「……ああ、そうだな」
フィフジャはそっとアスカの頭を撫でて、静かに頷いた。
「大丈夫だ、わかってるから」
フィフジャの手は大きくて、ただ優しかった。
※ ※ ※
「あのヤルルーが負傷とは。この時期にあれが大人しくしてくれるなら有難いですが」
報告を聞いたジョラージュは驚いた後に、自分の計画に対する不安材料が減ったことを喜ぶ。
ヤルルー・プエムは理屈では動かない。本当に気分屋で我侭で勝手な人間だ。
明らかに損だとしても、面白いと思えばそちらに全力で走っていくような男。
それでいてかなりの暴力を備え持つという、計画的に物事を進めたい人間にとっては歓迎しない存在ということになる。
なんでも下町で喧嘩騒ぎに首を突っ込み、石壁に思い切り激突して肩周りの骨を折ったのだとか。
当分は動けまい。
さすがに石材の壁に激突すればケガをするらしい。あれも人間ということだ。
以前にひどい乱闘の中で暴れている姿を見た時には、人間ではなさそうだと思ったものだが。
ああいう男が何かのはずみでジョラージュの手の者とぶつからないとも限らなかったので、大怪我をしたというのは朗報に違いない。
プエムの兵士も荒っぽい人間が多いとはいえ、トップからの指示がなければ組織だった行動はしない。
これで心配事の一つは片付いた。
当初からの敵対勢力であるチザサとそれに近しいロファメトだけに集中できる。
「あの竜人の戦士も、かなり使えるようだからな。風は僕にある」
追い風に乗っている。
町の人々からの人気も高く、予定外の戦力も転がり込んでくれる。邪魔者も勝手に消えてくれた。
ジョラージュの行く手を掃き清めるように、道が開かれていく。
何かの導きなのではないかと思ってしまう気持ちが湧き上がるのも仕方ないだろう。
「雨に紛れて人手も集められている。貧民連中は食い物さえ用意してあげれば相応に働くでしょうし」
食うのに困っている輩というのは単純で扱いやすい。
そうなるように仕向けてきた部分もあるし、それらがノエチェゼに集まりやすいようにも誘導してきた。
常時養わなければならない兵士というのは、とても金がかかる。
ヘロでさえ三百人というところ。無理をして増やしたら今度は財政に負担が大きい。
チザサの兵士は百人というところ。三倍の戦力差になる。不確定要素のロファメトの奴隷どもも百人を超えるかもしれないが、それはキキーエの方でどうとでもできるだろう。
常駐の戦力の他にも、町にいる雇われの労働者も集めてきた。
スカーレット・レディの事件が起こる前から、既に計画はあったのだ。
決行するかどうかは別として、人手を集める準備をしていたし、どのようなルートでチザサの主要な拠点を制圧するかも考えてある。
今回の船出は、ジョラージュ・ヘロの歴史への船出に等しい。
戻ってくる船団には当然だがチザサやロファメトの傘下のものもあるが、ノエチェゼでの趨勢が決まればそれを逆転するほどの力があるわけではない。
従うか、従わされるか。
いくらかはバカな連中もいるだろうが、多くはないだろう。
いざ戦うとなれば、いかに素早く相手の急所を押さえるか。その為には人数が必要なことも多い。
圧倒的に有利。
いけ好かないヒュテの奴がロファメト邸に向かったのは知っている。今になって少し慌てているようだが、もう手遅れだ。
一人で大人数を相手にするのが得意なヤルルーでさえ、十人を超える兵士を相手にしたら不利になる。
ギハァトの長男、デイガル・ギハァトならそれを超える働きをするかもしれないが、そういうのは特殊な人間だけだ。
人間は激しく動けば疲弊するのだし、疲弊すれば動きは鈍く注意は散漫になる。
延々と戦い続けられるようなものは、伝説に謡われる最強の竜人やらの物語の中だけの話だ。
他に名をあげるとすればリゴベッテの魔導師ラボッタ・ハジロという男。嘘か誠か百人以上の兵を一人で倒したとかいう噂を聞いたことがある。
そんな人間はこのノエチェゼにはいない。
リゴベッテやユエフェンから渡ってくる人間の素性はここ数年調べていた。
半年ほど前にエズモズに渡ってきた探検家の集団は壊滅したとも聞いている。生き残りが一人、この町にいるとか。
それも問題ではない。
「何も問題はない」
計画通りだ。
嵐が過ぎ去り、船出を待つ。
チザサの背後を急襲する。
「……と、僕が油断していると思っているでしょうね。ジョラージュ」
にやり、と。
生意気な少年の顔を思い浮かべて、いつもは不愉快な感情ばかりなのだが、今日は別の感情が湧き上がる。
「わかっているんですよ。この状況をひっくり返そうというお前の考えは」
いつもそうだった。
ジョラージュが会心の首尾だと思ったことを、あっさりと何食わぬ顔で超えていく少年の姿を覚えている。刻み込んでいる。屈辱と共に。
今回だって奴はそう目論んでいるに違いないと思っていた。ある意味、大嫌いなヒュテのことを高く評価していたとも言える。
だから、入念に調べていたのだ。
チザサの本宅はもぬけの空。重要なものは全て町の別の場所に移し終えて、そちらを要塞のように固めている。
町に諜報員を放ち、ヘロが欲望のままノエチェゼを牛耳ろうと争いを起こしたと宣伝する工作も準備しているようだ。
それとは別に、ヘロの金を管理している建物への襲撃も別動隊が備えている。
チザサに襲撃を仕掛け、肩透かしの形になったこちらを反撃で葬ろうと。知らなければ窮地に陥っていたのはこちらかもしれない。
だが把握しているのだ。
今回ばかりは負けることは許されない。今までの敗北は全てこの戦いに勝つための布石。
奴は何も知らない素振りで裏で準備をしていた。
勝利をするりと掠め取り、まるでさも当然のような澄ました顔でこちらを馬鹿にしようと。
それをジョラージュは知っている。
今回は負けない。今までとは違う。
「何度敗れても、最後に勝てばいい。ヘロの家訓です」
違うが。
そうではないが、この戦いが終わったらそうしようとジョラージュは思うのだった。
※ ※ ※




