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舐められるアスカ

 舐められたら終わりだと。

 そう思っていた。しかし間違いだったと認めざるを得ない。

 舐められたところで、そこで終了ではない。相手の出方がそうであれば、それを後悔させてやればいいのだ。

 舐められっぱなしで終わり。そうならなければ、敗北ではない。


「っく」

「あっしはこっちでもいいんですがね」

 肘の辺りから手首にかけて、濡れた芋虫が這い回るような感触に怖気立つ。


 白い……いや、日焼けしているので別に白くはないが、精神的に純白と言ってもいい肌を、不愉快なぬめった感触がなぞる。

「この」

 腕を掴んで自由を奪う者の顔を睨みつける。

 糸のように細く閉ざされた瞼の間から、泥のように濁った瞳が覗いていた。

 狙っていた獲物を手に入れた廻躯鳥のような色だ。濁っているくせに、何の感情も持っていないかのようにも見える。


 気味が悪い。

 こんな気持ち悪い生き物に、大切な自分の肌が舐められているなんて。

「やめなさい、よ!」

「おっと、おっかねえ」

 ツウルウは、アスカのばたつかせた足をひょいと避ける。

 身軽なのは見た目だけではなかったらしい。


「アスカ!」

 叫ぶフィフジャは、別の男たちに纏わりつかれている。

 纏わりつく。

 その言葉通り、周囲にいる連中は戦いに慣れたものでもないし、まともな武器も持っていない。

 それでも6人もの人間がフィフジャに向けてタックルを仕掛ければ、狭い所では避けようがなかった。


 室内。

 薄暗い小さな個人食堂のような建物。

 みすみすそんな場所に入ってしまった理由は単純だ。

 黒鬼虎の毛皮を、裏ルートで買い取ってくれる当てがあると。そう聞いたから。

(信じて……違う。油断してた。こんな)



 周囲を取り囲む男どもがフィフジャに抱き着くようにしがみつき始めた時、何が起きたのかわからなかった。

 もしかして何かの挨拶かと戸惑う。そんなアスカを一番後ろから入ってきたツウルウが拘束した後になって、自分の油断に気が付いた。

 拘束ついでにアスカの体をまさぐるツウルウに激しい嫌悪感を覚えるものの、体格では圧倒的に小さなアスカの体は宙に浮いて踏ん張りが利かない。

 掴まれた腕にツウルウの舌を這わされ、思わず息を飲んだ。心臓が止まるほどの不快感。

 こんな下衆に肌を舐められるなんて、死にも等しい屈辱だ。


「うぅ!」

 ふら、とツウルウの体勢が崩れる。その膝の後ろ辺りにしがみつくクックラ。

「っと、こんガキ」

「っ!」

 揺れたおかげで、ほんの少し向きがが変わる。


 建物の中は広々としているわけではない。小さな食堂くらいとなれば、数人が入ればやや手狭な程度。

 その壁に、アスカの足が届いた。

「ぬああああぁぁつ!」

 思い切り蹴る。壁を。

 不十分な姿勢だったので十分な力ではなかったが、体勢を崩しかけていたツウルウの細い体躯を押すには十分だった。


「ちぃっ」

 転んでしまうことを嫌って、アスカから手を放して距離を取るツウルウ。

「ありがと、クックラ」

「ん!」

 フィフジャにまとわりついているのが戦力にならない人間の塊だというのなら、クックラもそうだ。

 必死にツウルウの足に体当たりをしてアスカを助けてくれた。


 自由になったところで、敵に向けて殺意を込めた視線を送る。

「この、裏切り者!」

「あっしはあんたらの仲間ってわけじゃあないんでね。ウォロ!」

「っ!」

「このっ、どけよ!」

 フィフジャがしがみついてくる男どもを殴り飛ばすが、彼らはまた起き上がってフィフジャの腰辺りにしがみつこうとする。

 殺意を持って襲ってくる相手ではないので、フィフジャ自身もやや戸惑っているようだった。

 金で雇われただけの貧民。

 まともな戦力でもないくせに、フィフジャの動きを阻害するためだけの障害物として。


「ウォロ、あなたも裏切るのね」

「うぅ、だってなぁ……」

 ドアの外から入ってくるウォロに、アスカは冷たい視線を向ける。

 段取り次第では外に出たアスカたちを襲うために屋外で待機していたのだろう。


 舌打ちしながら左手の内側を服の腹あたりで拭う。さっき舐められたところだ。

 服が重い。屋外の小雨のせいで水分を吸った服を絞るといくらか水が落ちた。

「ボンルさんがなぁ」

「…………」

 ボンルが裏切ったということか。

 手下二人にこんな罠を仕掛けさせて、当の本人はどこにいるというのか。

(卑怯者)

 少しでもいい奴かもしれないと思った昨日の自分を恥じる。


「何のつもりよ!」

 とりあえずフィフジャはいいだろう。亡者のように纏わりつく連中も、いずれ力尽きる。意識を失ってまで動きはしないはず。

 少し時間を稼ごうと問いかける。

 こんな連中ともう語る言葉などないが。


「あんたらは、自分の持ってるもんの価値がわかっちゃいねえ。あっしらがもっとうまく使ってやろうかってんで」

「ふざけたことばかり」

「それに、あんたですぜ。お嬢ちゃん。あっしなら、お嬢ちゃんをお求めのところにうまく運んでやれるかと」

 ひひ、と舌なめずりするツウルウに、夏だというのに寒気を覚える。

 お求めのところというのが何なのか、気にしたくもない。


「フィフ! ()()()!」

 それでも一応は言った。

 言ってから、なぜそんなことを言ったのか自分でも不思議に思うが。

 既にこれは戦いだ。命と財産と尊厳の奪い合い。

 宣言する必要があったのかどうか。

 許可が欲しかったのかもしれない。それは甘えだ。フィフジャに責任を押し付けている。


「あ、ああ。だがアスカ、俺が……ええぃっ!」

「うぎゃあああああああああっ!」

 フィフの苛立った声に被せて大きな悲鳴が上がる。

「う、腕がぁ、うでがァ・・・」

「ひっ」

 腕をへし折ったか、斬ったか。

 躊躇している場合ではないし、相手は本職の戦士などでもない。腕を折られれば戦意も失うだろう。

 ちらりと見れば、完全にあらぬ方向に曲がった腕を床に転がして泣き伏せている男と、怯えたようにやや距離を取る他の襲撃者。

「っとに、何をやってんですかね。その男に噛みつくなりなんなりすりゃいいんだって話したでしょうが」


「……殺す」

 ツウルウにけしかけられる貧民に向けてフィフジャが短く言い放つ。

 今までアスカが聞いたことがない声だ。対象ではないはずのアスカでさえ、ぞくりとするような声音。

 腕をへし折られた仲間と冷たい声音に、取り囲んでいた連中がやや離れる。

 最初に殺されるのが自分というのは避けたいのだ。


「アスカ、俺が」

 少し余裕のできたフィフジャが声をかけたところで、

「っとにしゃあない」

 ツウルウが手にした何かを投げつけてくる。

 撒く、といった方がいいか。腹の辺りから手にした粉のようなものを、アスカとフィフジャに向かって放つ。


 ――毒


 のはずはない。こんな狭い空間でそんなものを使えば自分たちも無事には済まないはず。

 目くらましだろう。

「はああっ!」

 突風が吹き荒れた。

「っ⁉」

 さっきから用意していたのだ。

 隙をつくる為に、大きく空気を振動させようと。

 アスカの小さな手の中に、わずかな水を。


 外の小雨で服に染みついた水を絞って。水分には違いない。

 そこに向けて、瞬間的に強い力を込めた。感電とかそういうことはその瞬間には考えていなかったが、体内に流れる電気風なエネルギーは制御できた。

 その水分にだけ、エネルギーを与える。

 水分が蒸発すると膨張して水蒸気になる。


 音速を超えるレベルでそれが発生した場合には強い衝撃波になることは地々球の落雷事故でもあることだ。

 咄嗟の思い付きではない。実は既に実験済みだった。フィフジャには隠れて。

 ウォロが入ってきたドアが開いている。巨漢のウォロはドアを閉じると窮屈だと感じてちゃんと閉めなかった。

 唐突に膨張した水蒸気が、瞬間的な突風になってドアの外に向かう。


 ちょうどツウルウたちが通せんぼしている方に向かった突風は、ツウルウが撒いた何かの粉も一緒に吹き返していた。

「う、ぉっ⁉ っち、なんつう……」

「クックラ!」

 駆けだす。

 小柄なクックラが、ウォロとツウルウの足元をすり抜けて外に。

 投げた粉を反対に顔に返されたツウルウは前が見えていない。


 アスカもクックラの後を追いかけつつ、足を止めた。

「たぁっ!」

 ツウルウの腹あたりを蹴り飛ばす。

 今度こそ、渾身の力を込めて。

 だが、少し硬い感触だった。何かしらプロテクターを仕込んでいたらしい。

「ぼふぇ!」

 それでも背中を壁に叩きつけられた衝撃は殺せなかったらしく、反吐を吐いて倒れるツウルウを見て少しだけ落ち着く。


(こんなもんじゃ……)

 とどめを刺したい。

 けれどそんな余裕はない。フィフジャが後ろから駆けてきてアスカを外に押し出そうとする。

「ぬぉぉ!」

 目を潰されているウォロだった。

 見えないまま、手探りでアスカを捕まえる。


「こ、このっ!」

 腹を掴まれ、持ち上げられる。

 足をばたつかせるが、その程度で離れてくれるわけではない。

「こ、のおおおぉぉ!」

 全力で引きはがそうとするアスカだが、ウォロの力の方が強い。

「アスカ! ちぃ!」

 助けようとしてくれるフィフジャに、動揺していた貧民の男たちがまた群がってきた。

 このまま逃がしたら金がもらえないと、そう思ったのかもしれない。


「ぅぅう!」

 ウォロの力は強い。

 全力のアスカよりも強い。

 だが、指一本なら違う。

 自分の脇腹辺りを掴んでいるウォロの人差し指を、両手で強く握る。

「こんなのぉぉ!」


 ぐきゃり、と。

「ひっぎぁぁぁぁぁぁぁ」

 悲鳴と共に床に落とされるアスカ。丁寧に下ろされたわけではないので床に転がる。が、すぐに立ち上がる。

 掴まれた際に落としてしまっていた自分の荷物をかき集める。

「ば、デカブツ!」

 視界を取り戻しつつあるらしいツウルウ

 本人は自分が何を撒いたのかわかっていて、突風に対して咄嗟に対応が出来たのかもしれない。

 完全に防げたわけではなかっただろうが。

「アスカ!」

 まとわりつく男たちを振り払ったフィフジャと共に外に飛び出す。




 小雨の中。

 不安そうな顔で、薄暗い建物から出てくるアスカたちを待つクックラ。

 アスカの顔を見て、少し安心したように肩から力が抜ける。

「なにごとだぁ?」

「すげえ声だったけどよぉ」

 野次馬が集まってきている。


 ツウルウが案内してきたのは、町の中心からは外れた外周に近い場所だった。

 あまり品の良さそうではない場所で、門の外の貧民と見分けがつかない者も多い。

 治安の悪そうな場所。裏ルートだというからそういうこともあるかと思ってしまったのが間違いだった。


「って、お前ら」

「っ!」

 その中の顔ぶれに、よりにもよってボンルがいる。

 いや、最初からボンルが仕掛けてきているのだからいて不思議はない。

 子分どもを働かせておいて、自分は成果だけを得ようとしていたのか。


「ボンル!」

「ボンルさん、そいつらぁウォロの腕を」

「あァ?」

 アスカ、フィフジャに続いて表に出てくるツウルウとウォロ。

 ウォロはアスカに圧し折られた指を抑えながら涙目になっていた。


(自業自得なのに)

 泣くくらいなら最初から悪さをしなければ良かったのだ。

 アスカが泣かせたみたいなことを言うが、アスカは命や色々な危機だった。恨み言を言える立場ではないくせに。


「ってお前ら――」

「お前ら、何をやってるんだ?」

 問いかけようとしたボンルの横から、別の男が進み出てきた。

 赤い帽子のチンピラ。

 この掃溜めのような場所には似合いの、いかにも小悪党といった容姿の中年男だ。


「や、ヤルルー……」

 野次馬の中からぼそりと声があがる。

 この辺りでは有名なのだろう。小悪党として。

(次から次へと、本当に)

 鬱陶しいゴミみたいなのが涌いてくる。

 アスカは自分の荷物をクックラに預けた。少し重いが仕方がないだろう。

 荷物を持っていたら十分に動けない。


「やるっていうんなら相手になるわよ!」

 腹を括ってしまえば、こんな連中なんでもないのだ。

 大森林の魔獣の群れを相手にすることに比べれば。

 殺意を込めて、その男を睨む。

「ほおお、ほおぉ」

 雨の中、赤帽子の目がランランと光る。

 アスカを映して、宝物でもみつけたかのような顔で。


 どいつもこいつも。舐め回すような視線が不愉快極まりない。

「こいつは面白い、面白いじゃねえか。なあおい……ってゾマークの奴は雨だから出かけねえんだったな」

 誰かに声をかけようとしたようだが、応じる者がないことに勝手に納得して頷いている。

 周囲の野次馬は、ボンルでさえ、その赤帽子から少し距離を置いて見守っていた。固唾を飲んで、という雰囲気で。


「いいだろう、お嬢さん。俺がやってやろうじゃねえか」

 楽しそうに、周囲を取り巻く野次馬の中、アスカの正面に立つ。

「偉そうに……フィフ、クックラをお願い」

「アスカ、しかし……」

 不安げな声。アスカの実力は知っているだろうが、成人男性と戦わせていいのかと戸惑うのか。

 それは仕方がないが、この場合はこっちの方がいいだろう。

 偉そうなこの男も、年端もいかない女の子にコテンパンに負けたら負けを認めざるを得ない。

 フィフジャが戦ったところで、終わったらまた乱戦になるだけのように思う。


 圧倒的な勝利。

 それで野次馬を黙らせ、この場を収めてしまえばいい。

 この赤帽子の男には不運なことかもしれないが、血反吐を吐いて当分は立ち上がれないほどには痛めつけさせてもらう。

 今のアスカの機嫌は人生で最悪なレベルに悪かった。

 生贄だ。


「……死んでも文句言わないのよね」

「死んだら文句も言えねえからな」

「…………」

 バカにしている。

 生意気な小娘だと舐められている。

 まあいいだろう。油断してもらっていて不都合はないのだから。


 小雨だった雨が、少しずつ強まってきているようだった。アスカの水色の帽子を雨の水滴が伝い落ちる。

 赤帽子の男は、雨の雫が後ろに流れるように帽子の位置を直した。

「一応、名乗っといてやるか。余所者みたいだからな。ヤルルーだ」

「…………」

 どこかで聞いた名前だったろうか。どうでもいい。

 この小悪党をぶっ倒してさっさとこの場から離れることだけが優先事項だ。


「いい拾いモンだぜ、こいつは」

 これから地獄を見るとも知らないで、中年男は楽し気に舌なめずりをするのだった。


  ※   ※   ※ 


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