西港 警鐘
「うわぁぁぁぁすごいすごい! なんか変な臭いがする!」
アスカがはしゃいでいる。
初めて見る海。大海原。ノエチェゼの北の港から見えるそれは、果てがないのかと思うほど遠くまで続いている。
過去に家の裏山から見渡した地平線と似ている水平線。
風に泡立つ波しぶきと、遠くを飛んでいる名前のわからない鳥のような生き物。
港には大きな船が十数隻停泊していて、それとは別の東側の区画にはもっと小さな船が出入りしている。
漁をしてきた帰りなのか、マストに大きな魚を吊るしている船もあった。
「大きい! すごく広い!」
「本当に初めて見たんだな、お前ら」
全身で感動を伝えるアスカの姿に、ボンルも毒気を抜かれていた。
ボンルたちにとっては珍しい光景でもない。クックラも特に海に心を動かされていることはないようだが、アスカの熱狂ぶりにやや衝撃を受けているようだ。
「森……家は内陸の方だったから、海は初めて見るんだ。これ全部塩水なの?」
「だわな。この辺で井戸掘っても塩っからい水しか出ねえぞ」
大きな樽を二人で運ぶ人たちをボンルが顎で示した。町の南側の井戸で汲んだ水をこちらに運んできているのだ。
そういう雑務で日銭を稼ぐ人たちもいる。
樽を二人で抱えて運んでいるが、荷車を使えばもっと楽なのではないかとヤマトは思う。
家にあった猫車のような手押し一輪車があれば、労力も人手も半分になるし、もっと早く運べるだろう。
荷車自体はこのノエチェゼでも見かけたが、安く製作が出来ないので一般に普及していないのかもしれない。
便利な道具を使っているのは、ある程度金のある商人などだけなのか。
「この変な臭いは塩のせい?」
「魚やらの腐った臭いも混じってやすからね。何の臭いっていうもんでもないんで、強いて言うなら海の香りってところかと」
ヤマトがツウルウに質問している間、フィフジャは静かに海の遠くを眺めていた。
アスカとは逆に静かだが、その様子も何かしら心が揺れているようでもある。
「どうしたの、フィフ?」
フィフジャは少し間が抜けているところはあるが、ぼうっとして隙だらけになるような所は初めて見た。気になったヤマトが声を掛けると瞬きを返した。
呆けていた状態から我に帰ったらしい。
「ん、ああ……うん、帰ってこれたなぁって。一度は死ぬかと思ったのに……いや、一度じゃないけど」
これまでの道程を思い返して、ようやく港町まで辿り着いたという実感に震えていたという。
ヤマト達に出会う前から数十日森を彷徨ったというのだから、感極まったとしても無理もないことか。
「ありがとうな、ヤマト。アスカも、グレイもだな」
フィフジャが少し照れたように笑って言った。
グレイも、初めて見る海に目を奪われたように水平線の彼方を眺めていたが、名前を呼ばれると振り返って一声鳴く。
『ウォン』
「お互い様だってさ」
ヤマトの通訳は適当だが、おおよそ適切な意訳になっているのではないかと。
フィフジャに礼を言われる筋合いではない。ヤマト達こそフィフジャがいなければここまで来られなかった。
ざざぁ、ざざぁと一定の調子で響く波が心地良い。
港に集まる人たちは皆忙しそうだが、そんな中でヤマト達だけが緩んだ時間を感じていた。
──カン、カン、カン。
不意に波音を破るように甲高い金属音が鳴り響いた。
あちこちで作業をしていた人夫たちが手を止めて、一斉に同じ方角に視線を集める。
自然とヤマトたちの目もそちらに向かった。
「鐘?」
「警鐘だな。何か出たか……あっちだな」
視線の先は、ノエチェゼの牙城と言われた巨大建築物の近くに立つ高台――といっても牙城から見たら遥かに小さいが――の上に設置された鐘の方角だった。
見張り台に立つ何者かが、吊るされた金属の板を叩きながら反対の手で北西の海を指差している。
遠目にも焦った様子であることはわかる。
「でかい……鳥? っていうか、WANI?」
ヤマトの目に映ったのは、二対四枚の翼で海の上を飛ぶ、鰐のような生き物だった。
「――っ!?」
ぎゅうっとクックラがヤマトの腕を掴む。爪が食い込むほどの力で。
「った、どうしたんだクックラ?」
小さく震えている。ヤマトは自分の手が痛むことより心配で声を掛けた。
「ありゃあ太浮顎だ」
「あれが……そう、なのか」
ボンルの言葉に得心する。でかい、空を飛ぶ、顎。見たままの名前。
港からまだ1キロメートル以上離れた場所の空に羽ばたくそれが太浮顎なのか、と。
色は青黒く、見える限り肌はごつごつしているようだ。
ワニと思ったが、口はそこまで長く伸びているわけではない。近い生き物を図鑑の中から当てはめればそれだと思っただけで。
大きさは遠くてはっきりわからないが、縦の長さは漁船の半分より大きいくらいだろうか。そこらに見える漁船がおよそ全長10mほどだから、5m超えということになる。
翼は体より少し薄い青色で、白い縞模様のような柄もあるように見えた。
大空を舞うクロコダイル。森では見なかった爬虫類の生き物が空を飛んでいる。それが二匹。
クックラがそれを見て怯えるのは仕方がない。つい先日自分が襲われたというのだから。
ヤマトは彼女の小さな手を優しく握り返すことで、少しでも不安を和らげようと思う。
「船が追われてる!」
アスカの言葉を受けて目を向ければ、一艘の漁船が襲撃を受けているようで、必死で櫂を漕いでいる男たちの姿が見えた。
大型の船と違って港にある漁船は帆を持たない人力での推進の船がほとんどだ。
櫂で漕ぐのはかなり体力が必要なはずだが、肉体強化の魔術などもあるこの世界では体力はそれで底上げできるのだろう。
逃げている漁船も、左右に二人ずつの四人で必死に漕いでいて、かなりのスピードが出ているように見える。ほんの数分で港まで逃げ延びることも出来るのではないかと。
もう一人が後方で銛のような長物を手に空から襲おうとしている太浮顎を牽制していた。
「追いつかれるよ!」
漁船のスピードが中々のものだとしても、空を飛ぶ生き物はそれよりも早い。
逃げる漁船を追い抜き、旋回して大きく口を開いて船に襲い掛かる。
――全剣!
五人が乗る漁船に、船体の半分ほどもある巨体が突撃する直前、大声での指示が港にいるヤマトにまで聞こえた。
その瞬間、左右を漕いでいた四人のうち、右を漕いでいた二人が一斉に右に櫂を返して四人で左側を漕ぐ。
全員で左を漕いだ為に、船は瞬間的に大きく傾きながら右側に旋回。そのすぐ左側の海面に太浮顎の巨体が突っ込んで大きく波しぶきを上げた。
「避けた!」
「いや、倒れるぞ!」
大きく傾いた船がバランスを保てずに転覆しそうになった所を、今度は三人で右側を漕いでバランスを取り戻そうとする。
方向転換とバランスを崩したことでのスピードのロスで、もう一匹の太浮顎が船に迫っていた。
大きく開かれた牙だらけの口が漕ぎ手を目掛けて突っ込んだ。
「っ!」
船体の一部が衝突で砕け散り、船が大きく揺らされる。
転覆しないのは、何かしらの造船の工夫の為なのかもしれない。
「あ、あっ……」
アスカの口から焦った声が漏れるのも無理はない。
漕ぎ手の一人の腕を太浮顎の牙ががっちりと捕らえている。距離があって詳細はわからないが、それでも衝撃的な光景だ。
仲間の漕ぎ手が櫂で太浮顎の頭を殴りつけるが、さほど痛痒にも感じていないのか大きく羽ばたいて空に舞い上がった。
舞い上がったその口の端から血を滴らせる腕が見えた。それをぺろりと飲み込む。おやつでも食べるかのように。
「何とかならないのか?」
「もうちっと岸まで来れたらな、ほらよ」
ボンルが視線で示した方角――牙城がある方の岸壁に、いくらか統一感のある服装の人々が集まってきていた。
青を基調とした服装の集団。
赤を基調とした服装の集団。
白を基調とした服装の集団。
それぞれが何かしらを大声で叫びながら岸壁に備えてある大弓のような設備で戦闘準備をしている。
「BARISUTA……?」
「あ? ああ、強弩ってんだ。一人じゃ引くこともできねえ弓だけどな、もうちっと近くねえと意味がねえ」
射程距離外。
「何とかあそこまで届かないの?」
「届くだけじゃあ意味がないんでさ。この距離じゃ勢いが弱くて矢の無駄ってわけで」
アスカの苛立ちにツウルウの答えは合理的だ。
矢だって無料ではない。あの強弩の矢は大きいのだから余計にコストが掛かっているはず。
無意味に撃ちまくるというわけにはいかないだろう。
――っ!
「バカか、撃ちやがった!?」
はっと見れば、青い矢羽根の大矢が空に弧を描いて飛んでいく。
先ほど船乗りの腕を飲み込んだ太浮顎が、余裕の様子で羽ばたいて矢の軌道から身を逸らした。
もう一匹、先に海面に突っ込んだ太浮顎も、その横に並んで再度船を目標に定めている。
「チザサの兵かよ」
「手柄を焦ってんですかね。この距離で当てるのは無理ってもんですぜ」
そうだろうか、とヤマトは思う。今のは太浮顎が避けなければ当たっていたのではないかと。
まあ距離がありすぎて余裕で回避できるのだから、やはり当てるのは不可能に近いのか。
ただ、矢に気がついた船乗りたちが、必死の形相で強弩のある方角に向かって全力で漕いでいた。
二匹の太浮顎もそれを追う。
そこにまた、青い矢羽根の大矢が放たれるが、やはり躱されてそのまま後ろの海に消えていった。
港に近づいてくる漁船。
野次馬たちの流れと共に、ヤマトたちもその強弩の備えられた方へ進んでいく。
近づいてきた為に、腕を食い千切られた船乗りの姿や、当初は槍で牽制していた五人目が予備の櫂で懸命に漕いでいる姿がはっきりと見えてくる。
「まだ追ってきてるわ!」
「攻撃されて気が立っているのかもしれない」
港には多くの人間がいるというのに、太浮顎は追跡を止めない。
興奮状態にあるのか。
「この距離ならいけるんじゃないか?」
「だな」
船を追ってくるのだから、当然強弩の射程に近づいてきているのだ。
赤い矢羽根が、弧ではなく直線で、二匹の太浮顎の間を突き抜けた。
『ゴァァァァァッ!』
怒声のような咆哮を上げる太浮顎。
赤い矢はそのまま素通りして波間に消えていった。
「ああっ、もう!」
アスカの苛立ちはわかる。へたくそ、と言いたくなってしまうが、自分がやれば出来るわけでもないのだ。
『グォア!』
突如、一匹の太浮顎が鳴き声と共に大きく羽ばたいた。
上に逃げるように。その翼を青い大矢が掠めて、波しぶきの上にいくらか羽根が舞い散る。
――撃て!
相棒の急旋回に戸惑った様子の太浮顎に白い矢羽根が突き立った次の瞬間、港は喝采に包まれた。
大歓声の中、あちこち傷んだ漁船が岸まで着いた頃には、もう一匹の太浮顎は海の彼方へ。
青系統の体のせいか、波に紛れて見えなくなっていた。
※ ※ ※
「仕留めたのがヘロの兵士ってことだから、あの太浮顎はヘロの獲物ってことなのね」
「筋の通った話だと思いやすがね」
白い矢羽根の大矢を受けて沈んだ太浮顎は、やはり白いバンダナを巻いた兵士たちが引き上げていった。
あの色分けはそれぞれ御三家の兵士の所属を示していた。
青がチザサ、赤がプエム、白がヘロだと。
町で公に兵士を所有しているのは御三家だけ。彼らは町の平和を担っているという。
「チザサの兵士としちゃあ、ここでひとつ稼いでおきたかったんでしょうが」
有効射程範囲ではないのに先走って撃ってしまったのは、そういう理由があるのだろうとツウルウは言う。
稼ぐというのは太浮顎の肉とかそういうことではない。
人気というか、住民からの支持率というようなものなのだろう。
「でも、先にああやって撃ったから船の人たちも逃げる方向に気がついて、矢を避けていたから追いつかれなかったんじゃない?」
アスカの見方で言えば、ヘロは最後に美味しいところを持っていっただけのように見えるのだ。
「結果が全てってことだな」
「その辺も含めて、チザサはツイてないってとこですかねぇ」
そう言われてしまえばそうなのだろう。結局、野次馬たちから喝采を受けたのは白い装束のヘロの兵士たちだった。
青い装束の兵士たちは黙々と強弩を片付けて去っていった。弦を張ったまま潮風に晒していると、次に使う時に歪んでいたり緩んでいたり折れていたりするらしい。
野次馬に囃されているヘロの兵士たちを置いて、黙々と去っていくチザサの兵士に、一人だけ若い男が労うように肩を叩いていた。
逆に、赤い装束のプエムの兵士たちは、チンピラ風の男に拳骨をもらっていた。それを見て手を叩いて笑ってる赤帽子のチンピラその2もいる。
上司なのだろう。部下の兵士の不手際を責めているが、それなら自分でやればいいのに。
「報われないね」
「まあ世の中そんなもんだぜ、坊主」
ボンルの言うことはわかるが、ヤマトとしては努力が報われてほしいと思う。
腕を食い千切られた船乗りはどこかに運ばれていったが、フィフジャの見立てでは助かるかどうか半々だという話だ。実際にはもっと低確率なのかもしれない。
「まあ、それよりか次の船主と、毛皮を売る先の――」
「ここだったか、ボンル! ツウルウも」
気を取り直して、という所でボンルの後ろから声がかかった。話しかけてきたのは中年から初老の間くらいの男だ。
ボンルはこの町では顔が広いのだろうか。本人はそんな感じのことを言っていたようにも思う。
アスカとしては、そんな言葉を事実だとは思っていなかったのだが。
「どうしたよ、そんな焦って」
「西七番区のイイソ婆さんだ。最近姿が見ねえなって話してたら、どうも家ん中で死んでるらしくって」
よほど焦っているのだろう。周囲のことも考えずに早口に捲し立てた。
「マジか? まあいつ死んでも不思議じゃねえな」
「中からひでえ臭いと鬱陶しい蠅が大量に出てよ。でもあの婆さんは」
「あぁ、やたら疑り深いから変なかんぬきでドア閉めてんだったっけ」
「それよ、それ」
ヤマトたちを置き去りにしてボンルと男の話が進んでいく。
何となく事情はわかったが。
「開けられんのは小窓だけなんで、まあそんな所にガキを入れんのもちょっとなぁって話で」
「ぶち破りゃいいだろ、扉を」
「それをクソ孫のグェノが許さねえってよ、直す金がかかるからって。あのバカ野郎は婆さんの面倒も見てやらんかったくせに」
「グェノごとぶちのめしてやりゃいいだろうに」
「まあそれも最後にゃやるんだが、出来れば穏便にってな。ツウルウなら開けられるんじゃねえかって」
それでボンルたちを探していたんだ、と。
近所の顔馴染みなのだろう。手先が器用――というか手癖が悪いらしいツウルウなら鍵開けが出来るのではないかということだ。
「あー、そうだな。ツウルウ行ってやれ」
「あっしは構わねえんですが……」
「おいおいボンル、グェノはツウルウを知らねえんだ。お前も一緒に来てやってくれよ」
ツウルウはボンルたちと行動を共にしてからの日が浅い為、その家主(?)とは面識がない。
死んだお婆さんも猜疑心が強いということだったが、孫もそういう気質なのか。歯止め役としてボンルも同行してほしいというのだ。
「ってもなぁ。俺も用事が……」
「ボンル、急ぎのようだからそっちをしてやってくれていい」
どうしようかと迷うボンルにフィフジャが声を掛けた。
「あ、あぁ、でもよ」
「船主の紹介は明日でいい。毛皮を売れそうな商店の場所だけ教えてもらえるか?」
今日はそちらを優先して片付ける。船主の話は明日でも間に合うだろうと。
航行の約束を取り付けるにしても、先に金銭の算段をしておきたいとフィフジャが判断したのだとすれば、ヤマトが反対する理由はない。
黒鬼虎の毛皮を売るだけならボンルたちがいなくても平気だ。
ボンルはやや考えてから、頷いてフィフジャに二箇所ほど店の場所を説明した。
「じゃあ、明日は朝から宿に行くからな」
「そうしてくれ」
「ウォロ、お前も来るんだよ」
「ぶえ? イイソ婆ちゃんはおっかないからやだなぁ」
「だぁら死んでるって話だろうが。お前の馬鹿力がいるかもしれねえんだって」
「婆ちゃんのお化けが出るかも」
「その時はバカ孫とやらを呪ってもらいやしょう」
ぎゃあぎゃあと喚きながらどたどたと駆けていく三馬鹿を見送る。
騒がしい連中だ。
「騒がしい連中ね」
「……ん」
『ウォン』
アスカの言葉にフィフジャとヤマト、クックラやグレイの視線が重なる。全員が同じことを思っていたらしい。
しかし、最初の印象よりは良い評価になりつつある。町の住人としてそれなりに交友関係は良好で知り合いも多いようだ。
良好でない関係の知り合いもいたけれど。
見かけだけで判断してはいけないものだと思う。最初は絶対に盗賊だと思ったのだが。
「あのさ、フィフ」
「どうした?」
ヤマトの質問に顔を向けずに辺りを見渡しながらフィフジャが応じる。
先ほど聞いた商店の方角を確かめている。
「お化けって、やっぱり出るの?」
「…………」
フィフジャの視線がヤマトに戻ってきて、やれやれというように頭を振った。
「出たら怖いだろう」
岩千肢を倒した時にも言っていたけれど。
死体が動くだとか幽霊だとかは怪談だと。
「さっきウォロが」
「だから怪談になるんだよ、普通じゃないから」
「ヤマトってばお化け怖いの?」
「ばか、違うよ」
ちょっと気になったから聞いただけだ。魔術なんてある異世界なんだから、やっぱりあるんじゃないかと。
そんなヤマトの裾をクックラがもしょもしょと引っ張る。
「うん?」
屈んでクックラの言葉を聞こうとしたら、よしよしと頭を撫でられた。
「ん、ん」
「……ありがと」
別に幽霊が怖かったわけではなかったのだが、まあ良いとすることにした。
※ ※ ※




