始まりの日_晩餐
甘くない事態はまだ続いた。
狼は、捕らえた獲物を群れ(伊田家)に入れてもらう手土産として譲りたかったようだ。
ボスに獲物を献上するという意識だろうか。
その死に掛けたキジのような鳥を、家の斜面下の東側に持っていった。
そちらには先ほど簡易に整備して、雨水排水用の側溝に誘導した湧き水が流れ落ちてきている。
汚水になる生活排水は西側に流れ、湧き水や雨水は東側に流れ落ちるように。こちらは綺麗な(?)生水ということになる。
「日呼壱、ちゃんと抑えといてな」
源次郎から声を掛けられて、その鳥の体をぎゅうっと抑える。
軍手の布越しに、生き物の感触が伝わってきた。野生生物を触るのは中学生の途中頃から以来なかったことだ。
「っ!」
短い息と共に、鉈が振り下ろされた。
「うあぁぁぁっごめんなぁごめんっ!」
首が飛び、痙攣するようにその体が暴れる。それを抑え付ける日呼壱は思わず謝罪の言葉を口にしていた。
頭を失ったというのに、その体は波打つように震えが続く。
まるで恨みを忘れないというかのように。
「――っ!」
間違いなく死んでいるのに、日呼壱の手の中でそれは暴れる。
奥歯を噛み締めて押さえる自分の手も、びくびくと痙攣していた。
「……」
気がつくと、動かなくなっていた。
「大丈夫かの、日呼壱?」
源次郎は上から降ってくる湧き水で鉈を洗いながら孫を横目で見た。
「だ、大丈夫……」
「そぎゃん風には見えらんが」
「じゃない、かもしれない。けど、俺が手伝うって言った、から……」
途切れ途切れに言葉にする。
抑えているのに体力はそれほど使ったはずではないが、汗でびっしょりだった。
うっすらと涙も浮いていることに気が付いて、袖で拭う。
必死だった。
マクラたちを連れ帰り、この鳥を捌くと言った時に手伝いを申し出たのは日呼壱だ。
異世界で生きていくときに、獣の肉を処理するというのはよく聞く話だった。
「……」
吐き気はなかった。
聞き知っていたことと、体感したこととのギャップは大きかったが。
「ほれ、しゃんとせい」
源次郎が日呼壱の手の甲を叩く。
鳥を抑えたときのままそこで硬直していた。命が消えていく鳥の感触が日呼壱の手に残っていた。
まだ硬直している日呼壱の手から源次郎は獲物を抜き取って、血を流し出すように逆さにして落ちてくる水で洗う。
血抜きせんと肉が臭くなる、と言いながらその羽を毟っていく。
「爺ちゃん、すげぇ」
「昔は鶏を絞めたりとかしとったが、最近の子はせんのかのぉ」
手際よく、ためらいなく進めていく祖父に、改めて感じる心からの尊敬。
その手順を覚えようと、祖父の動作に目を皿にする。
「……」
十数分もすると、血がほとんど出なくなり、その羽もほとんどがなくなると、見知った鶏肉のような姿になっていった。
一匹丸ごとというのはクリスマスの頃でもそうそう見ることもないが、とりあえず鶏肉らしくなった。
「こうやって、普段食べてた肉とかも、誰かがこうして捌いていたんだよな」
「最近は機械かもしれんがの」
先ほどまで生きていた鳥が、その命を奪われて食べ物になる。
そういう工程を目の当たりにして、普段何も考えずに食べていたことを重く感じた。
「どこかの学校では食育とかって言って豚を育てて食べるとか言う話だったけど、結構重いなぁ」
「しゃんこともわからず飯を食っとるんはだらずじゃ」
だらず――考えが足りない、と言われて返す言葉もない。
「なんも難しいことはねえ。米も野菜も肉も、命をいただいとるってそんだけだ」
単純な真理。源次郎は何でもないように言いながら、鳥の腹を割いて中の内臓を出していた。
内臓を破らないように注意しながら、下腹に薄くナイフを入れる。そこから腹を割いていくと、途中でぷるんっと内臓が飛び出してきた。
腹圧というらしい。うっかり内臓を破ってしまうと、中に詰まった排泄物で肉がダメになってしまうので注意するのだと源次郎が説明する。
出した内臓は赤黒く、少し大きめの金属のバケツに入れられた。
「あとで焼いとかんと、血の臭いでもっと悪いのが寄ってきよるがの」
裏の畑あたりで焼くつもりなのだろう。
この辺に放置して、死肉をあさるような獣が集まってきたら困る。
源次郎は、やることの理由を日呼壱に示しながら作業をした。
(そういえば畑仕事を手伝う時も、何でこうするのかって話しながらやってたっけ)
作業の根拠を知っている場合と、知らずにただ労働するだけの場合では、その精度は違う。
何度も同じような話を聞かされて嫌気が差すこともあったが、それだけ繰り返し学習してきたということだ。
「次も、手伝うよ」
「そげだの」
バケツと解体用の道具を手にして、祖父と二人家路につくのだった。
※ ※ ※
晩餐。
水は、結局井戸水を使った。
地震対策での買い置きのペットボトルもあるが、その水を使ってしまえば数日も持たない。
生水を飲んだ猫たちの様子も、数時間置いても全く健康を害した様子がなかったので、熱を通せばまず問題なさそうだと判断した。普通に流れている水はH2Oなのだろう。
少し焦げた部分も見える野菜炒めと、ソーセージの入ったスープ。それとやはり焦げ跡のある白米。
やはり屋外で焚き火で作った料理になる。焚き火でご飯を炊くのは、若干難易度が高かった。
「いただきます」
日呼壱の口から、いつもより心の篭った言葉。
源次郎も、普段より手を合わせている時間が長かったように日呼壱は感じた。
豪勢な食卓ではないが、全員でキッチンのテーブルを囲んで食べる。
冷蔵庫の電源と食卓のLED照明の電源は同じ系統だったので灯りは点いてくれた。
健一曰く、蓄電池が日中溜めた電気がなくなればこの電気も消える、ということだった。電気を大切にしないとね。
「――今日、わかったことはこのくらいか。あの二匹はよくわからんが、本当に狼と猫なのかどうか」
「日本で狼を見たことがないからなぁ。動物園にはいたっけ?」
いたのかもしれないが、日呼壱は思い出せない。芽衣子も、いたかもと言うくらいで確信はない様子。
「あの胡桃もどきと一緒で、それに近い何かなんじゃないかと思うよ」
似たようで違うもの。寛太の判断に特に異論はなかった。
「警戒心がないのは人間を知らないからかしらね」
「それにしては懐きすぎじゃないかと思うけど」
もともと飼い猫でした、と言われた方が納得いくような気がする日呼壱だった。
解体した謎の鳥の肉は、ある程度火を通して狼と銀猫に与えられた。
解体してすぐ食べる必要もない食材だが、これもひとつの実験だ。
食べて害がないのだろうか、と。
本当は狼と銀猫だけに食べてほしかったのだが、マクラが横から割り込んで食べてしまった。
(火を通す必要はなかったかもしれないけど、とりあえずがつがつ食ってたな)
庭先で与えられた食事を食べた後、狼は表の斜面の赤土のエリアに座り込んだ。
入り口の見張り番を引き受けるように、森を見ながら丸くなっている。
銀猫の方は、納屋の方に勝手に入っていって中でくつろいでいた。働く気はなさそうだ。
「一応、切断されていた引込み線(電線)は、漏電しないよう軒裏に丸めておいたが。こう暗くなってからは何も出来ない。明日からは生活のリズムを変えた方がいいな」
健一の言葉に、一同窓から見える屋外を見る。
カーテンはしていない。隣近所が気になることもない。むしろ、外の様子が気になって見張りたい。
「日呼ちゃんの言ってた通り、地球じゃなかったね」
寛太が、遠くを眺めながら口にした言葉は、ここにいる誰かに向けた言葉ではなかった。
どこか心ここにあらずといった響きだった。
「お月様が二つあるなんて不思議」
芽衣子の言葉の通り、夜空には月が二つ浮かんでいる。
黄褐色の月と、その左隣やや斜め下に銀色の月。
少なくとも今確認できるその二つの月は、銀色が丸く、黄褐色の方は半月だった。
月明かりで、その周辺には星が見えにくかったが、離れた方角には多くの星も見えた。
「二つだからなのか、夜でも割と明るいね」
庭のあたりは月明かりである程度見えるくらいには照らされていた。さすがに森のほうは真っ暗だが。
「こういうのも結構素敵ね。別荘なら悪くない物件よ」
「本宅だぞ、母さん」
妙なテンションの母親に呆れ半分に言葉を返す日呼壱。
「今日の日めくりカレンダーの言葉なの。ないものを願うより、あるものを喜びなさいって」
名言などを集めた日めくりカレンダーの一文なのだろう。
なるほど、今の状況には適した言葉だと日呼壱は肩をすくめた。
「そげだの。だんれも怪我もせんとおまんま食べておられる。こんな辺鄙な場所で、幸いなこった」
「辺鄙って、うちは元々田舎だろ」
「ウチは田舎じゃないヨ。とってもいいトコだヨー」
日呼壱の意見に、なぜか片言で言い返してくる芽衣子。
「メイちゃんちもうちと変わらないだろ」
「ウチは田舎じゃないヨー。って外国の人がテレビで言ってた」
にへっと笑う芽衣子。
テレビは当分は見られないかもしれないが、芽衣子のこんな笑顔が見られるのは喜ぶべきことだろう。
「そうだね。メイちゃんが元気なのは幸いだったよ」
寛太に頭を撫でられている芽衣子に、伊田家の面々が感じる安堵。
よそのお嬢さんだ。こんな事態に巻き込んでしまった責任を強く感じる。
不便な状況で、葉っぱでお尻を拭くなんて話も面白いと笑ってくれる少女の元気さに救われている。
なんとか母親の元に返してあげたいと、そう誰もが思っていた。
「……」
黙って芽衣子の頭を撫でている寛太は、外の月を、その向こうの地球を探そうというかのように眺めていた。
夕食後は、いろんな作業で汗もかいていたので風呂に入りたかったのだが、浴室の照明がつかなかった。
せっかくソーラー温水器で湯は出る状態なのに。暗がりで入るのも怖いので翌朝に、ということにする。
明日以降は、明るいうちに風呂や夕食を済ませることになった。
朝日と共に起き、日暮れと共に眠る。日本では出来なかった健康的な生活習慣のような気がした。
夜の見張りをどうするかという話題も出たが、あまり気を張りすぎても体が持たないだろうと寛太が言った。非常時での経験は彼が一番頼りになる。
とりあえずは狼が見張り番を引き受けてくれている様子だ。信頼していいのかは不明だが。
一階の窓は雨戸も閉めて寝ることにした。
懐中電灯は使える。ゲーム機用に多めに買っていた単三の充電池が日中の太陽光発電で充電出来たので、当面は心配なさそうだった。
テレビにラジオ、インターネットも電話機も通信することは出来ない。
リフォームの際、停電時に電源を供給する電気配線を、冷蔵庫、井戸水ポンプ、廊下などの通路とトイレの電源となっていた為、この状況でも暖房便座が使える。
あまり温度設定を高くすると蓄電池の消費が早くなってしまうので低めの温度設定だが、野生児ではない伊田家の人々にとっては幸いだった。
日呼壱は自分のベッドで横になって、その二階の窓から月を眺める。
物心ついて以来、もっとも静かな夜。
……というのは言いすぎか。元々が四方を田んぼに囲まれたような田舎暮らしだったのだから。
妙に静かに感じるのは、この状況のせいなのだろう。
「異世界、か」
望んでいたと言ったら過言だが、夢物語として憧れていた言葉だ。
ただ、憧れていたのは、そんな異世界で特殊な力に目覚めて大活躍してエルフ娘やお姫様から好意を寄せられる、そんなシチュエーション。
そこに肉親の姿が一緒にあることなど、想像もしていない状況。
ああ、最近の異世界物語には親同伴みたいなものもあったかもしれないが。それだってもっと彩の良い異世界の女の子が出てきているはず。
現実には肉親や親族の他はペット関連の姿しかない。かわいい獣耳娘はいない。
(何一つ説明もなければ手がかりもない。地球に帰る方法だって、この世界で手探りで使命を果たせっていうのか……)
どうしたら帰れるというのか。そもそも帰れるのか、考えれば余計に可能性がないように思えてくる。
(最近の異世界ものだと、帰れないってパターンも多いからな)
こんな異常事態にパターンが当てはまるのかどうかわからないが。
(意外とあっさり、たとえば明日の朝になったら地球に戻ってるとか。または、困難だけど帰る方法があるのか、あるいは帰れないか。だいたいその三つくらいだな)
この世界が夢だったとしたら、目覚めたらいつもの自分の部屋――いや、今も自分の部屋のベッドだが、座標が地球に戻ってるということもあるかもしれない。
夢と思うには、この森の匂いや土の感触、解体した鳥の命の感触も生々しすぎる。この現実感が夢だったとしたら日呼壱の精神状態がかなりヤバいかもしれない。
(リアルな生活感がありすぎ、だよな。異世界ファンタジー感が少なすぎる。こんな異世界は誰も望んでいないだろ)
といっても、誰かが望むから世界がそうあるなんて、そんな存在があったら神だ。
神ならぬ人の身であれば、世界の在り方に合わせて生きていかなければならない。
文明社会であれば、その文化の中で。戦乱の中であればそのように。大自然の中であれば、その自然と向き合って。
窓から覗くこの世界の月――銀色の月に祈る。
「とりあえずみんな誰も、怪我とか死んだりしないよう見守って下さいますように」
なんとも中途半端な願いだったが、それは本心から出た言葉でもあった。
布団を被る。
異世界にきても自分のベッドで寝ることができることは、日呼壱の知る異世界物語にはない好条件だったと安堵を感じながら眠りについた。
狼も、月を眺めていた。
その後ろに、いつの間にか銀猫もいる。
何かを言うわけでもない。言ったところで鳴き声でしかない。
ただ、静かに夜空と森を眺める二匹。
しばらくの時間そうして、やがて銀猫は飽きたように納屋の方に歩き出した。
「ヌァォン」
去り際に、一言だけ鳴き声を残していく。
狼は軽く尻尾を一度振った。
※ ※ ※