岩千肢
最初に異変を察知したのはグレイだった。
それまでアスカのやや後ろを歩いていたのが、小さく唸り声とともに速度を上げて近くの少し高い岩に飛び乗り、前方を見据えて低く唸る。
朝から進み始めて一刻ほどのところで、グレイの警戒の声に空気が張り詰めた。
「どうしたの?」
尋ねながらも危険が迫っていることは明らかだったので荷物を下ろして鉈を手にした。
他の同行者も同様に、身軽になってそれぞれの獲物を手に周囲を警戒する。
「ちっ、岩千肢だな」
岩陰からちらりと黒っぽい艶のある何かがアスカにも見えた。
20メートルほど先の岩の裏側にそれは潜んでいた。日陰側にいるのは日差しのせいなのか、黒い体を隠すのに適しているからなのか。
こちらの気配を認識したのか、ギチギチと音を立てながら姿を現す。
図鑑で見たムカデのような節のある長い体。長さは八尺――240cm――を超える。
岩千肢。手足がたくさんあるという話だったが、その通りだ。
「……ASYURA」
百足ではない。三本指の長い腕が三対、六本生えていて、そこから後ろは短くなっている。
鎌首をもたげる頭にはピンク色の歯茎が剥き出しになっていて、黒ずんだ臼歯が並んでいた。
頭部の半分以上がその口で占められており、その唇にあたる部分にいくつも黒い粒がはめ込まれている。それが目なのだろうか。
首に該当する部分にはうにょうにょと蠢く太い体毛が生えていて、先端にオレンジ色の球状の器官があった。
「ボンルさんよりでかいんだけど」
「おお? おぉ……」
苦々しく言ったヤマトにボンルも言葉が出てこないのだろう。震えた声を返すだけだ。
想定外の事態。
(こうなるんじゃないかとは思っていたけどね)
まあ想定内の事態とも言える。
体の太さはアスカの体と同じくらいだ。節のある黒い甲殻で出来た体で、頭部の大きさもアスカと近い。
腕の太さもアスカの腕と同じくらいだが、その長さもアスカの身長くらいある。
アスカは阿修羅と言葉にしたが、腕が長細いので造形としては千手観音像の腕に似ているかもしれない。
アスカが日本の昆虫に詳しければトンボの体の対比と似ていると思ったかもしれないが、現物を見たことがなくて連想できなかった。
「他にもいるぞ!」
フィフジャの声に視線を向けると、追加で二匹の岩千肢が別の岩陰から姿を現した。
「ぶぇ、でかいぞぉ」
「こんな大物が三匹も出るなんざ聞いてないですぜ」
追加のうちの一匹は最初のと同じような大きさだったが、もう一匹はさらに大きい。十尺はあるのではないか。
『グルルゥゥ』
ギチギチと、動く際に関節をぎしぎしと軋ませる岩千肢にグレイが低く唸る。
「フィフ、弱点ある?」
「わからん。あー、泥沼とかだ」
以前に相手にした時のことを思い出したのかそう言ってくれるが、残念ながらここは渇いた岩場で沼みたいなものはない。
足が短いので沼に足を取られると身動きが取れなくなるのかもしれないが。
「それは参考になりそうね。ありがとう」
「俺に怒るな」
わかっている、八つ当たりだ。
「僕が一匹は相手にする。後は頼む」
「ばっ、坊主!」
一番左手の一匹に向かって槍を手に突っ込むヤマトにボンルが静止の声を掛けるが、ヤマトは止まらない。
あまり近づきすぎると身動きが取れなくなる。
「爪に引っかかれると火傷みたいに痛むぞ!」
「わかった!」
最低限の敵の情報を耳に入れて、ヤマトは槍を鋭く突き出した。
アスカの目から見ても、その突きのスピードは尋常ではない。グレイが時折見せる獲物を狩る刹那の一撃に匹敵するレベルだ。
そうは言っても、攻撃が来るとわかっている岩千肢にとっては避けられないわけではなかった。
体の関節をくねらせ、人間にはおよそできないような体勢で突きを躱す。
躱すと同時に、縮めた関節をバネ仕掛けのようにして弾丸のような速度で打ち出してヤマトに噛み付いた。
「ヤマト!」
「ぬぁぁっ!」
フィフジャの叫び声は遅い。
その時点で既にヤマトは、槍の石突で飛び掛ってきた岩千肢の顎――顎なのか頭なのかわからないが、噛み付こうと伸ばしてきた頭部を思い切り殴り飛ばしていた。
「んなっ!?」
「ボンル、前を見なさい!」
ヤマトの動きに目を奪われたボンルに岩千肢が迫るのを見てアスカが叫ぶ。
ボンルから少し離れた位置にいるから、その動きがよく見えていたのだ。
視線を戻したボンルの目に、一番の巨体の岩千肢が関節を凝縮させて飛び掛るエネルギーを溜め込み終わった姿が映る。
フィフジャは、グレイと共にもう一匹の岩千肢に向き合っていてそちらに気を配る余裕がない。
「しまっ――!」
十尺を超える岩千肢が、砲弾のように飛び掛るエネルギーを受け止めることは出来ない。
躱すべきだが、反応が遅れている。
そもそもこの異常な状況に身が竦んでいた。思い通りに体が動かない。
「だああああぁぁぁぁ!!」
間一髪で躱したのは巨大岩千肢。
猛烈な勢いで振り下ろされた大斧がその進路を叩き割っていた。
飛び掛った体を、地面についた一番後ろ側から数本の足で固定して無理やり引き戻す。
そのまま飛び掛っていたら、ボンルに食らいつくことは出来たかもしれないが、大斧で甲殻を割られていたか、関節を切断されていたか。
「ボンルさんはすごいんだぞぉ!」
「助かった、ウォロ」
礼を言うボンルだが、アスカはそんなことより脅威を感じていた。
飛びかかろうとしていた、のではない。
飛びかかっていたのだ。とてつもない速度で。
そこから、後ろ足での強引な回避運動。
今のタイミングでのウォロの攻撃を躱す瞬発力と強靭な膂力。巨体に似つかわしくない尋常ではない挙動。
先ほどヤマトが普通ではない反射神経で岩千肢を薙ぎ払ったのと、同じくらいの反応がこの巨大な岩千肢に出来るのかと。
関節を凝縮させてからの突進攻撃の速度は、あの《朱紋》のカタパルト式空中殺法に近いのではないかと思うスピードだ。
その速度で突進しておきながら、危険とみるや強引に回避まで出来るなど、《朱紋》を超える脅威に思える。
「何が岩千肢の一匹や二匹心配ない、よ。とんでもないじゃない」
「こんなでかいのは見たことねえよ! 速さも段違いだ」
筋力が違うのだ。
この大きさにまで育った岩千肢は、それに比例して体を支える筋力が発達している。
体重も増えているはずなのだが、それで素早さを損なっていないのは体の仕組みのためなのか。
「ウォロ!」
地面に突き刺さった大斧を抜けずにいるウォロに巨大岩千肢が再び仕掛けようとした所を、ヤマトが間に入って牽制する。
ヤマトが相手にしていた岩千肢は、頭部を打たれた衝撃からかふらふらと距離を取ろうと背を向けていた。
「ツウルウは何やってるの!」
「あっしはこんな荒事は無理でさ」
何の助けもしてこない同行者に苛立ちの声を上げるアスカだったが、当の本人は悪びれた様子もなく軽く答えてみせた。
一人だけ、全員よりいくらか後ろに位置して、いつでも逃げられる体勢だ。
「いい、ツウルウは周囲を見ていてくれ!」
フィフジャの判断は冷静だった。脅威がこの三匹だけとも限らない。荒事に不慣れなものを参加させるより、集中して敵に対峙するために周囲の警戒の役割をしてもらったほうが有益だと。
ツウルウの手持ちの武器は短剣だし、筋力もそれほど強いとは思えない。岩千肢に有効な攻撃手段はないだろう。その判断が正しい。
アスカは鉈を両手持ちにして、短く息を吸い込んだ。
「っ!」
狙いはヤマトに意識を割いている巨大岩千肢。こいつが最大の脅威なのは間違いない。
ヤマトに口顔を向ける岩千肢の横から、踏み込みと共に鉈を振るおうとしたアスカの踏み込むタイミングで、巨大岩千肢の尾がアスカの方へ薙ぎ払われた。
「っそぉ!?」
嘘だ。見ていなかったはずだ。
咄嗟に鉈を体の前に構えて岩千肢の尾を防ぐアスカだったが、一番尻尾に近い部分の足が伸びてアスカの腕を掠める。
岩千肢の固い甲殻で打たれるのは防いだが、腕の表面に赤くミミズ腫れのような後が一筋残った。
「あ、つ・ぅ……」
切れたような痛みではない、熱い感覚。
だが、痛かったのはアスカだけではない。
「砕きやがったのか!」
岩千肢の節のある長い体の、尻尾に近い部分の甲殻に切れ目が入っている。
先ほど、アスカが鉈で防御した際に当たった場所だろう。
日ノ本製の鉄の鉈の切れ味は、手入れをしてきたお陰で切れ味はそう悪くなっていないようだ。
『マアァァァァヤァァァァァ』
自分の体に傷をつけられたことで怒ったのか、あるいはアスカを危険と判断したのか、巨大岩千肢の首周りの髪がうねりながらアスカのいる方に向けられる。
鳴き声は、見た目と違ってぬめったような声だった。
「髪の毛じゃなくて何かの感覚器官ってわけね」
オレンジ色の球体がついた太い体毛。
先ほど口顔はヤマトの方を見ていたはずなのにアスカの動きを正確に察知していたのは、このオレンジの球体が何かを感知しているからだ。
(嗅覚か、そうでなければ熱や電気を感知してるんだと思う)
視力ではない。不安定に揺れる体毛の先についている器官が視力だとしたら獲物を正確に感知するのは難しいはず。
かすり傷を負った腕がじんじんと痛む。傷の度合いよりも明らかに苦痛が強い。
『ヨオオオォォォォォオォォッ!』
絶叫。
それは巨大岩千肢ではない。フィフジャとグレイが相手にしていた別の岩千肢だ。
ちらと見れば、グレイが岩千肢の体を噛み千切っている。
中央辺りの甲殻を噛み砕き、その内側の肉に食らいついて尾に向けて引きちぎるように肉を裂いた。
筋肉の繊維を牙で捉えて裂くついでに、下の甲殻も何枚か引き剥がしていた。
悲鳴をあげたその頭に、フィフジャが手斧を叩き込む瞬間を確認して、すぐさま巨大岩千肢に意識を戻す。
(グレイ、あの足に引っかかれてた)
噛み付いて攻撃する以上、たくさん生えた足に絡みつかれてしまうのは避けられない。大丈夫だろうかと心配になるが、今はまだ脅威が目の前にいる。
最初にヤマトに殴られた岩千肢の姿は見えない。逃げ去ったのだろうか。
「あとはこいつを……」
ヤマトが言いかけた時、巨大岩千肢が大きく体を起こした。
尻尾の方の足三対ほどで体を支えて、天に直立するように体をほぼ真っ直ぐに起こす。
大きい。ボンルの倍ほどもある高さ。
聳え立つような黒い甲殻。
思わず見入ってしまったアスカ、ヤマト、ボンルの前で、その直立した岩千肢の体がふらりと揺れる。
ゆらり、と。
(倒れ――!)
違う。
「危ない!」
振り子のように体を振ってからの、回転薙ぎ払い。
自らの長い体を鞭の様にしならせて、ただ硬度は金属のようなその巨体で周囲の敵を打ち払う。
わずかに遠くにいたアスカは咄嗟に飛びのいた。
元の体長以上の範囲まで届くようなその攻撃は、遠心力も含めて凄まじい勢いでボンルを襲う。
咄嗟に剣を盾に出来たのは荒事にある程度慣れた竜人のボンルだったからなのだが、強烈な勢いの岩千肢の巨体に吹き飛ばされて後ろの岩に打ち付けられた。
ヤマトが立っていたのは、ボンルよりも岩千肢に近い位置。回転薙ぎ払いのやや中心側。
「らぁっ!」
順番で言えばアスカ、ボンルの後に回ってきたその岩千肢の回転攻撃をジャンプで避ける。動体視力も反射神経も普通ではない。
助走もないのに、空高く舞うように避ける。
岩千肢の方も、避けられてそのままではなかった。
一瞬で体をまた戻すと、着地しようとするヤマトに狙いを定めた。
重力に引かれて大地に戻ってくるヤマト。
体勢の崩れた獲物に、必殺の突き。
一直線にヤマトに迫るその一撃は、着地の姿勢では防ぐことも躱すことも出来ない。
「ヤマト!」
「――っ!」
消えた。
岩千肢の感覚では、そうとしか言えない状況だった。
横で見ていたアスカでさえ、岩千肢に貫かれたヤマトの幻影を見たと思ったほどだ。
岩千肢が貫いた空間から、ドロンと。
(忍術?)
違った。
ヤマトは着地の瞬間に、槍の石突で思い切り地面を突いていた。落下の勢いを殺して余りある力で。
その勢いと軽く地面に着いた足で、着地とほぼ同時に再度空中にとんぼ返りをするように浮かび上がった。
棒高跳びのように地面に残った槍の柄に岩千肢の顔面がぶつかり、弾かれた槍をヤマトは放さない。
空中でくるりと両手で槍を持ち変えると、真下にいる岩千肢の巨体に突き刺した。
『ムアァァァァァァァァァァァァァァァァ』
痛覚がある。
種類としては昆虫ではないのか。
地面に縫いとめられた岩千肢の絶叫を聞きながら、ふとアスカはそんなことを思った。
「ウォロ!」
ヤマトが声を掛ける。ウォロはもう大斧を地面から引き抜いて肩に構えている。
動きを止められた岩千肢に向けて振り下ろすのに何も問題はなかった。
頭を叩き潰してからも、しばらくは手足をばたばたとさせる姿はさながらゾンビのようでもあった。
そういえば、フィフジャの説明ではこの世界で動く死体はないと。
──死体が動くわけがないだろ。そういうのは怪談の類だ。
同じように幽霊などもいないということだ。信じてる人もいるという話だが、フィフジャはいるわけがないと笑った。
「ウォロ、大丈夫?」
ヤマトが駆け寄って心配そうに声を掛けた。
「ああ、なんでもねえから平気だぁ」
ウォロが巨大岩千肢の頭を潰した直後、まだ蠢く岩千肢の腕に引っかかれていた。
死に掛けの悪足掻き。
赤いミミズ腫れがウォロの腹の左右に三本ずつ残っているが、平気だと笑う。
(お兄様、私も引っかかれたんですけど)
妹のことより丸い巨漢を心配するヤマトにやや納得いかないと思うアスカだった。
前夜にヤマトがウォロに親近感を覚える会話があったことを知らない。
「もう一匹は逃げていきやしたぜ。山脈の方に」
周囲を見ていたツウルウが、取り逃がしたもう一匹の行方について報告する。
「グレイ、大丈夫なのか?」
フィフジャに声を掛けられるグレイ。先ほど戦闘中に岩千肢の手足に引っ掛かれていたはずだが。
『ウォンッ』
元気に返事をして、自分が倒した岩千肢の肉に貪りついている。
フィフジャが心配しているのは、そんなもの食べて大丈夫なのかという意味だ。
岩千肢の甲殻はかなり硬かったはずだが、グレイはそれを噛み砕いていた。焼け付くような爪の攻撃も効果がないようだ。
食べている肉は、鳥のささ身のように筋っぽい繊維質な肉で、外観からは想像もできないほど肉が詰まっている。
「グレイにはこの毒爪みたいなの効かないのかな?」
「HEBIの毒ってINUにはあんまり危険がないって話だけど。MANGUUSUだっけ?」
こちらの世界で対応する言葉がわからない名詞は日ノ本語になってしまう。ヤマトとアスカの会話を、ボンルは理解できないという表情で見ていた。
鶏肉のような肉質で、犬に効かない毒。
見た目はムカデのようだと思ったが、蛇のような種類の生き物なのかもしれない。甲殻だと思っているのは鱗なのか。
地球の蛇と逆で、手足がたくさんというので想像もしなかった。
(大森林に蛇がいなかったのって、もしかして銀狼が食べつくしちゃったからだとか)
アスカが許可する前からがつがつと肉を食べているグレイの様子からすると、好物なのかもしれない。
「んー食べる?」
「ちょ、マジかよ!?」
あまりに美味しそうにグレイが食べているのを見て提案してみただけだが、ボンルたちはぎょっとした顔をして、フィフジャとヤマトは引きつった笑みを浮かべた。
「食べられないの?」
「手足を食べると舌が数日は麻痺するんで。胴体の肉は食べられやすが、ゲテモノ料理って評判だと。中の肉も少ないってぇ話ですがね」
ノエチェゼでも一部の愛好家にしか食べられないのだとか。食うに困るような人間には岩千肢を狩ることも出来ない。
標準的な大きさの岩千肢だと可食部も少ないというのだが、この大物はそうでもない。肉が詰まっている。
結構な強敵だったので、美味しいのではないだろうか。
「アスカ、一応言っておくけど、別に強い魔獣が美味しいわけではないよ。黒鬼虎だって美味しくないという話だし」
「違うの?」
「どんな理屈なんだ」
フィフジャの説明と、ヤマトの呆れた顔。
確かに強い獣が美味しいという理屈ではないけれど、苦労した分だけ美味しかったりするかなと。そんな夢は詰まっていないだろうか。
「お前ら、本当にすげえな。参ったわ」
はあ、と溜め息を吐きながらどっかりと腰を下ろすボンル。先ほど、巨大岩千肢に薙ぎ払われたのだが、大した怪我はしていない。
竜人の戦士の端くれなのだからそれなりに鍛えられている。
端くれ、なんじゃないだろうかとアスカは思っているのだが。
「食い物に困っていたら何でも食うだろうけどな、そうでもなければ好き好んで食うようなもんでもねえぞ」
そんなものを好き好んで食っているグレイが――
「あれ? グレイ?」
先ほどまで食事をしていたグレイの姿がない。
もしかしてやはり毒が回ってふらふらと……?
アスカは心配になってグレイとフィフジャが仕留めた方の岩千肢の方へ足早に駆け寄り、周囲を見回した。
「グレイ、どこ?」
『ウォンッオンッ』
声の様子からは危険ではない。こっちだと誘導する時の鳴き方だ。
呼んでいる方に行くと異臭が強くなっていった。岩千肢の血肉の臭いかと思ったが違う。
「何の臭い?」
「……腐臭だな」
アスカに続いてきたフィフジャが顔をしかめながら言った。
大き目の岩の陰の近くでグレイがアスカを待っている。臭いの原因もそちらだ。
見ればその辺りに何かの生き物の残骸が散乱している。臭いは残された肉が腐っているからか。
「これ、何の死骸なのかな?」
「…………」
フィフジャは周囲を見回して、首を振った。
おそらく今ほどの岩千肢が食い散らかした跡なのだろうが、何の生き物だったのかわかる状態ではない。
「……ぁ、ぁ……」
掠れるような声が漏れる。
アスカではない。フィフジャの声でもなかった。
グレイが待機している奥の岩、その下の隙間から聞こえるのは――
「フィフ、人がいる」
「そう、だな」
岩陰の隙間に身を伏せて震えている子供がいた。
身に付けているのは土で汚れたぼろきれで、髪も肌も同じくらいぼろぼろになっている。
伏せたままわずかに上げた瞳がアスカを捉えていた。
「生きてる、けど」
すぐさま助けようと言わない。アスカは慈善家ではないし英雄などでもない。
そしてこの世界の常識を知らない。この子供にうっかり手を伸ばして危険はないのか判断できない。
死に掛けた振りをして旅人を襲う手段ということもあり得る。
見た目は助けを求める子供にしか見えないが、それだって罠かもしれない。
(ヤマトならすぐ助けるんだろうけど)
岩陰の奥に別の岩千肢などの魔獣がいるのかもしれない。生餌を使ってアリ地獄のように待ち構えている可能性もある。
「……助けた方がいい、よね?」
「そうだな」
いくつかの可能性を思い浮かべてから、アスカはそれでも良識的な選択肢を口にした。
グレイが危険を感知していないのだから、魔獣のようなものが潜んでいる可能性は低い。
この子供の消耗は偽りでもなさそうだ。誰が通るとも知れないこんな場所で、ここまで手の込んだ待ち伏せをするのも非効率的。
「大丈夫?」
「あ、うぁ……」
声をかけて近づいてみると、子供は口を小さく開いて呻いた。
水が必要だろう。だが荷物はみんなの所だ。
「岩千肢ならやっつけたから。動ける?」
聞きながら手を伸ばす。もし不審な動きをすれば即座に対応する心構えで。
そんなアスカの心配は無駄だった。ボロ子供は震える手をゆっくりとアスカの方に伸ばしてくる。
岩肌のように水分のない質感の手。
あまり強く握ると崩れてしまいそうなその手を取って、アスカはふと母のことを思い出す。母ならどうしただろうか。
「もう、大丈夫だから」
根拠はない。
特に意味もない。
ただ、この状況では適切な言葉だろうと思っただけだ。
「う、うっ……」
渇ききっていた子供の体の内側から、搾り出されるように涙と嗚咽が溢れてくる。
「水と食べ物が向こうにあるから。歩ける?」
岩の陰からのろのろと這い出してくる子供をフィフジャと一緒に支えて立たせた。
(あ、女の子だ)
それまではあまりにボロボロの様子でわからなかった。
触れてわかった、わけではない。
体をとりあえず覆っているだけのボロ布では隠しきれていないので、見えただけだ。
年齢は幼い。まだ十歳にもなっていないだろう。どの程度食べていなかったのかわからないが、非常に軽い。
童女の体を気遣いながら歩き始めて、ふと周囲の死骸に気がつく。
(人間だったんだ、これ)
食い散らかされた肉と血、骨の名残。
おそらくこの童女と同じように岩千肢に襲われていた人間の、その末路。
(踏んじゃったし……)
見ず知らずの誰かの死に様に過剰な感情移入はしないものの、人の遺体を足蹴にしてしまったことと、靴が汚れたことをひどく後悔するのだった。
※ ※ ※




