嫌いな臭い
悪いとは思うのだが、何となくむしゃくしゃする時があったりするのは人間だから仕方ない。
そんな苛立ちをつい他人に向けてしまうのも、年齢特有の反抗期として許されてもいいと思っている。
(体臭がイヤなんだよね)
臭いに対する感覚は男女差があるという。
ボンルは体毛が濃い体質らしいが、関係があるのかわからないが体臭も強い。
風に乗って鼻をつく刺激臭がアスカの気に障った。そんなボンルがアスカを取るに足らないクソガキ扱いをしたことで敵と認定した。
(さすがに体臭がきついからなんて理由で殺しはしないけど)
臭いというだけなら、森で普段から狩猟していた獣の方がきついと思う。
だが、汗が乾いてこびりついたような独特な臭気は獣とは違う。
男臭いそれが気分を害するのだ。
「お前、本気で殺したりするなよ」
「馬鹿ね、ヤマト」
アスカの視線の刺々しさを見咎めたヤマトの忠告に、呆れた返事を返す。
「やるときは本気でやるに決まってるでしょ」
「やめろって言ってんだって」
冗談だ。
べ、と舌を出して見せる。
臭いから殺した、なんて悪役のセリフは別に趣味ではない。
(んー、そういう悪女風路線も悪くはないかも)
「さすがに殺人はしないよ」
「当たり前なんだけどな」
とりあえずアスカの言葉に安堵したのか、ヤマトがふうと息を吐く。
(危害を加えてこなければね)
ヤマトと自分の違いをアスカは理解している。
兄は、必要なことでも自分の常識に外れることは躊躇するだろう。襲ってくる人間を殺すことを迷うタイプの人間だ。
アスカは違う。自分たちに危害を加えるような相手には相応の対応をする。迷わずに。
この世界は、両親が育った日本とは違う。隙を見せたらどういう目に遭うかわからないのだとフィフジャも言っていた。
アスカはその言葉を事実として理解しているつもりだが、ヤマトはその実感がない。
これまで会ってきた竜人族が友好的だったのは運が良かったと見るべきなのだが、ヤマトはそれを標準として認識してしまっている。
人が善すぎる。そんな兄の美点を知っているのだが、それはこの場合必ずしも良いとは言えないので。
「建物が見えてきたな」
フィフジャの声に視線を向けると、地平の先にいくつか木造の建物が見えていた。
「ノエチェゼ?」
「いんや、まだまだだ」
アスカの質問に答えたのはボンルだ。否定されてむっとするが、事実なら仕方ない。
ではあの建物は何だろう。
「ありゃあ農園の建物だ。ノエチェゼはでかい港町だからな。近くにいくつか農園があって食べるもんやらを育ててるんだぜ」
食料生産拠点、ということだった。
「リゴベッテやユエフェンに運ぶ香辛料や薬豆なんかも作っているんだよな」
フィフジャが後に続けて説明してくれた。
「こうしん……コショウ?」
「そういう種類の作物だな。気候のせいか土地のせいか、リゴベッテで育てても収穫量が少なく風味も薄いものしか出来ないから」
だからこちらから輸出していると。そういう貿易が成り立つから、定期的に船が出るのだと。
決して安全快適ではない海路を運行するのは、それだけの利益があるのだろう。
「薬豆って?」
「名前の通り、薬になる豆ってことだけど」
今度はヤマトの疑問に、ぼやっとした返答を返すフィフジャ。
それを聞いていたツウルウが、にやにやとした顔で振り返った。
「いくらか用途はありやすがね。頭がぼうっとなったり、痛みが軽くなったり。流産をさせたりってのもあったり」
「やめとけよ、ツウルウ」
ヤマトとアスカの表情が曇ったのをちらと見て、ボンルがツウルウの説明を遮る。
「そういう使い方もあるって話だが、傷が膿んだりするのを止めたりするやつもある。まあ色々だ」
「奥の歯を抜いたとき、痛くて暴れるからって噛んだなぁ」
ウォロがぼんやりと言ったのは、痛み止めの麻酔として使ったということなのだろう。
その薬豆とやらも需要があって作られていて、リゴベッテに輸出されている。
「他には何を積んでいくの?」
大して興味があるわけでもないが、他に話題もない。
知っておいたら何か役に立つこともあるかもしれないと思いアスカが質問すると、ボンルは機嫌良さそうに答えた。
「宝石だぜ、お嬢ちゃん」
いら、としなくもないが、答えてくれたのでとりあえず攻撃はしない。
「ズァムーノ山脈で取れる宝石は、とにかく綺麗な深緑色って評判よ」
「なんて宝石?」
「ハウタゼッタ石って呼ぶな」
自分の知っていることを話す時には上機嫌になる。相手が生意気なガキだと思っている相手でも、知識をひけらかすのは気分がいいのだ。
嫌々ながらもボンルたちと会話をするアスカの様子を見てヤマトの表情が和らいだ。
そうこうしているうちに農園の建物の近くまで歩いてきた。
既に日が傾きかけている。
どうしようかとフィフジャがボンルに尋ねた。
「あとどれくらいでノエチェゼに着く?」
「普通に進んで丸一日半ってところだ」
思ったより遠い。
そうするとボンルたちは、アスカ達が休憩していた物見櫓まで、ノエチェゼを出ておよそ二日ほど掛かった計算になる。
「なんであんなに遠くまで来ていたの?」
「木を仕入れにですぜ」
ノエチェゼ近隣の木々は、町の発展に伴ってほとんどなくなってしまった。
今は近場の山脈側の林を、鉱山とともに町の有力者が管理していて、勝手に切って持ち出すことが出来ない。
近隣の農園でも木材を使うので、慢性的に不足なのだとか。
建物は石造りなどにもなっているが、それでも木材も必要になる。造船や船の修理にも必要だ。
なので、少し遠出しても管理されていない山から状態のよい木を切り出してノエチェゼに持っていけば、そうそう悪い稼ぎではないのだとか。
並みの木であればウォロなら一人で三本担げるというのだから、町でくすぶっているより良いのだと。
日本であれば、加工もされていな丸太の材木なら数千円という程度なのだが、流通も需要も違うこの世界では価値が大きく違っていた。
「ほかにも、木を切ってくる人たちもいるんだな」
ウォロが頷きながら言う。それであの辺りからは道がある程度踏み均されてしていたのだと理解する。
ただ夏場は港でもっと他に仕事もあるし、何より暑いので数日掛けてまで林業に勤しむ人は少ないのだとか。競争相手が少ないから稼ぎも良い。
「ここに宿を借りられるところはあるか?」
「いいとこ納屋に寝泊りってとこだな。ババリシーとブーアのクソの臭いがひでえけど」
(自分のことは気にならないのにね)
一応、心の中でつっこみを入れるだけで済ませておく。
町とかそういうものではないので、作業人がすし詰めで寝泊りするところと、庄屋というか名主のような人たちが暮らす家くらいしかないらしい。
こんな労働環境で、およそ100人くらいが暮らしているようだ。
「まだ日は暮れちゃいねえ。このまま進んでちょいと近道すれば、明日の夕方にはノエチェゼまで行けるぜ」
不衛生な寝床を確保するくらいなら、野営でもいいかもしれない。
アスカとすれば、臭いがきつい場所ではゆっくり休めるとは思えないので、さっさとノエチェゼまで行ってこの三馬鹿と早く縁を切りたい。
そんなアスカの気持ちを察したわけでもないだろうが、フィフジャはボンルの言葉に頷いた。
「早いほうがいいだろう。ヤマトもそれでいいか?」
「うん、任せる」
「何で私には聞かないのよ」
「アスカはその方がいいんだろう?」
「そうだけど、そう言われると違うって言いたくなる」
「アホか」
否定は出来ない。自分でもバカらしいと思うのだが、心情としてはそういうものなのだから素直に言ってみただけで。
明日出発にしてみたところで、どちらにしろ野営が必要になるのなら早いほうがいい。
農園で働く人々は、ここを通過する人間は大して珍しくもないのか、話し合っているアスカたちにはあまり関心を示さない。だが連れているグレイを見て表情を変えていた。
「ん、時間は短いほうがいい」
この三馬鹿と一緒にいる時間は、短いほうがいい。アスカ自身の精神衛生上。
「そうと決まればすぐ出発だ」
「その前に、飲み水を補充しときたいんだが」
「ああ、そうだな。よし、ツウルウ。一緒に井戸に行ってやんな」
「わかりやした、こっちでさ」
ツウルウに案内されて農園の井戸がある方に行く。
井戸には見張りのような人がいて、フィフジャがいくらかの金銭を渡すと水を汲んでくれた。
フィフジャ、ヤマト、アスカの水筒に補充すると、ツウルウが自分やボンル、ウォロの分の筒にも水を補充する。
井戸番の人は特に何も言わない。
フィフジャが払った金で、ちゃっかりツウルウたちも水を補充しているのだが、特に咎めないということは細かい決まりはないのだろう。
(小狡いとは思うけど、私が文句言うのも了見が狭いかもね)
フィフジャが何も言わないのだからアスカがいちいち腹を立てることでもない。
一緒に井戸に行けといった時点で、ボンルはこうなると知っていたのだろうと思うと少し苛立つ気持ちもあるが。
(あんな奴の行動に苛々してたら私の健康に損だわ)
アスカの機嫌が悪化したのを察したのか、フィフジャとヤマトは視線を合わせて肩を竦めるのだった。
※ ※ ※
「こっちだな」
農園を出てしばらく進むと、ボンルは道とは異なる方角を示した。
真っ赤に染まった夕陽に照らされているのは、ごつごつとした岩場地帯。
川はその岩場を流れていくが、道はその岩場を避けるように大きく東に迂回していくようだった。
道と川が交差するところには石造りの橋がいくつか架けられている。
「真夏の日中だと岩に照り返す日差しで参っちまうが、ちょうど日暮れだからな。夜の間にこの岩場を抜けるのが近道だぜ」
「危険はない?」
「坊主、心配しなくっても俺がいるんだからよ。岩千肢の一匹や二匹くらいなんともねぇさ」
ヤマトの質問にがははと笑って答えるボンルだが、フィフジャが渋い顔をした。
「岩千肢が出るのか」
「いわちしってなぁに?」
知らない生き物の名前だ。岩場に生息していそうな生き物の名前だ。
「俺も一度しか見たことはないけど、黒くて、長くてな。固い体表で、たくさん手足があるから、岩千肢って呼ばれている」
「足がたくさん……ええと、あれ。森の出口くらいで見た、バムウ?」
「バムウは長くなかっただろ。丸くて薄い茶色だ」
足がたくさんという所からアスカが思い出した生き物がそれなのだが、まるで違った。
「バムウなんて何年も見たことねえぞ。ありゃあ厄介だ」
なぜだか先ほどまで自信たっぷりだったボンルが焦った声を出す。
「へえ、バムウなら七匹くらい狩ったよ。ねえ?」
「だったかな。あの時は色々と忙しかったから」
ボンルの表情が面白くて、つい言わなくていいことを言ってしまう。
やかましい自信家の顔が引きつるのを見て、アスカの気持ちが少しだけ穏やかになる。
「マジかよ。バムウの肝は極上だって噂だけどどうなんだ?」
「いや、食べてないから知らないけど。あれって食べられたの?」
「あの状況じゃなければだけど」
ヤマトが残念そうにフィフジャにたずねると、彼は苦笑しながら頷いた。
「昔食べたことがあるけど、確かに肝も肉もうまかった。柔らかいんだが煮崩れしない肉だったな」
「バムウは群れで行動しやすし、尻尾の毒針と鉄でも噛み砕く歯があっておそろしい魔獣なんですがね」
「出たときはどうするの?」
「大森林近くでもなけりゃそうそう見やせんが、火を嫌うんで篝火を数日焚いときゃいなくなりやす」
下手に手を出せば死者が出る。リゴベッテでは異常繁殖したバムウの群れに飲まれて滅びた村もあるとか。
見た目は薄茶色からベージュ色のふにふにした半球体なのだが、かなり厄介な魔獣だということだった。
ただ、水と木が十分にある場所で生息するので、この辺りだと今は見ることがないと。
「倒したの全部あのままにしてきちゃったもんなぁ」
「なんて勿体無いことしてんだ、おめえら。牙だって鋼鉄にでも文字が書けるっていって細工職人に重宝されてんだぞ」
牙と聞いて、アスカはごそごそと自分の荷物を漁る。
「ええと、これ?」
バムウ襲撃の時に噛み付かれたヤマトの鎧に残っていた牙を回収していた。
長さはアスカの小指くらいの白い牙。固く鋭い牙だったので、また何かに使えるかもしれないと思って。
ボンル、ツウルウがそれを見て目を丸くする。
「大将。本物ですかね、これ」
「馬鹿やろう。俺だって見たことねえよ」
珍しいのだろうか。アスカはフィフジャを見上げるが、彼はふるふると首を振った。知らないということだ。
細工職人がどんな素材の道具を使うのかなんて知識はない。
「フィフジャはどうしてバムウを食べたことがあるの?」
「その時は、師匠と一緒にはぐれたバムウを見つけたから。肉はすぐに食べたけど、牙をどうしたかまでは知らない。尻尾の毒針は何かに使うって言ってたかな」
時折、フィフジャの話には彼の師匠のことが出てくる。
フィフジャ自身が体験していないことでも、師匠からはこう聞いているというように。
「お、お嬢さん。こいつを触らせてもらっても?」
「……ダメ」
細目を見開いて物欲しそうに見てくるツウルウの視線が気持ち悪くて、アスカは手の平に置いていた牙をしまいこむ。
牙を触らせることより、その際にツウルウがアスカの手に触れるのがイヤだと思ったので、さっと手を引っ込めた。
「それより岩千肢ってどんななのかよくわからない」
もともとその話だったはずだ。アスカが話を戻すと、フィフジャがあーと呻きながら答える。
「そうだったな。黒くて固くて、足がたくさん……」
「それはさっきも聞いたけど」
「とにかく長いんだ。大きいのは大人三人分よりまだ長いって言われてる」
「そんな大物はいねえって。どんだけでかいのでも、せいぜい俺の背丈と同じってとこだな」
気を取り直してフィフジャの説明に合いの手を入れるボンル。
「実際、剣やらじゃなかなか歯が立たねえからな。松明の火程度なら気にもしねえ」
「そんなのどうやって退治するの?」
「潰しゃいいのさ。ほれ」
ボンルが、それまでぼうっとしていたウォロを親指で差す。
ウォロの持つ大斧、その刃のついていない槌のようになった側で叩き潰すのか。
急に視線を集めたウォロが、愛想笑いのようにえへーと声を漏らした。
「他人任せじゃない」
「その辺は俺の人徳ってやつだな」
呆れたようなアスカに悪びれもせずにボンルが返すと、意味がわかっているのかいないのかウォロが大きく頷いた。
「ボンルさんはすごいんだよぉ」
「……そうみたいね」
ウォロの顔に悪意はない。なんとなく毒気を抜かれてしまって、アスカはやれやれと頷いた。
「じゃあ、この岩場をさっさと進むわよ」
「おお、ってなんでお前が仕切ってんだ」
「その辺は私の人徳ってやつね」
「そうだなー」
アスカの軽口に適当な相槌を入れて進み始めたヤマトを見て、ボンルはわけわかんねえと言いながら早足でヤマトの先を歩き出した。
夕暮れの空と共に朱色に染まった岩場を進む彼らの影が、地面に長く伸びていた。
※ ※ ※




