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始まりの日_3



 とりあえず、さしあたっての作業を終えて庭に戻るとバーベキューセットが出ていた。

 主として野菜が焼ける匂いが風に乗って漂う。


「コンロは使えなかったわ」


 電気コンロは使用出来なかったらしい。



「停電時の出力は100v1500wまでだから200v機器は使えない。電気が送られてるのは冷蔵庫と井戸ポンプと、非常用コンセントくらいだ」


 電気工具メーカーの健一は、太陽光設置に反対したものの説明は聞いて理解している。井戸水ポンプは健一の勤め先の関連会社の製品だったりもする。

 ふーん、と美登里は理解している様子ではない生返事を返していた。



 太陽光設備を強引に設置した源次郎はそんな会話に自分は関係ないという様子で、バーベキューの網で焼けたタマネギを食べていた。


「ほふ、このタマネギは甘いの。どこで買ってきたんじゃ?」

「いやですよ、お爺さん。うちの畑でしょう」


 からからと笑う義父と嫁。血液はさらさらだろう。



「ほら、芽衣子ちゃん。お肉食べなさい」


 美登里が、焼けた肉を芽衣子の皿に乗せる。


「ありがとう、おばさん」

「いいのよ、育ち盛りなんだからいっぱい食べてね。お肉は、次に買いに行けるのがいつになるかわからないし」


 今ある食材がなくなったら、どうしようか。

 なんとなく全員の視線が、表の椅子に立てかけられた猟銃に向かう。


 狩猟生活。

 必要であれば、そういうことだろう。



「猪ならわしが捌いてやるがの」


 頼りになる猟師もいる。


「適度な獲物になりそうな生き物がいたら考えてみるか。あとは、川でもあれば釣りしてみるかな」



「日本に帰れれば問題ないんだけどなぁ」

「……」


 寛太本人にとっては、何の気もない呟きだったのだと思う。


 早く日本に帰りたいと、この一同の中で最も強く思っていたのが、尾畑寛太だったから。

 それゆえのぼやき。

 ごく自然な、本当に当たり前の言葉だった。



「……」


 少し遅くなった昼食の席に、重い沈黙が流れる。

 責めているのではない。

 ただ、そう言葉にすることで、それが叶わないような気がして、それぞれが何となく口にしなかった言葉。



 ――日本に帰れたら。


 ごく当然の希望の言葉が、逆に今の現実を強く認識させる。

 帰ることができるのか、と。


 その方法にあまりにも見当がつかない。思い当たる手段がない。

 またあの雷が鳴れば帰れるというのか。



 雷――というのも正しくない。

 皆が聞いた轟音を雷とは言っているが、その時に稲光はなかった。


 数秒間に渡って大気を震わす轟音と震動。それに身をすくめて、ようやくおさまったかと思ったらこの状況。

 家ごとまるで見知らぬ土地に送り込むなどというのは、雷というありふれた現象とは違う。




「ああ、帰りたいよな。すまん寛太」


 今回のこの事態は、とりあえず見える範囲では伊田家だけの出来事だ。

 たまたま来訪していた寛太と芽衣子を巻き込んでしまったような気持ちで、健一は言葉少なく謝った。


「あ、いや、そうじゃなくってさ。ほら、もしかしたら他の家とかうちの家とかも、この森のどこかに来ちゃってるかもしれないし。ああ、ここだけとは限らない話だろ」


 先ほどの希望とは全く逆のことを並べる寛太に、芽衣子がその背中の裾を掴む。



「あ……ごめん。ごめんな、芽衣子。連也とママが心配してないかと思って」


 尾畑連也(おばたれんや)は芽衣子の弟だ。

 まだ1歳の連也は、当然のことだが母親にべったりだ。

 母親はそんな連也にかかりきりでもあり、その育児によるフラストレーションも溜まる。


 お勉強よりも活発な活動が好きな芽衣子の子供ながらの失敗に対して、過敏な反応を返すこともしばしばあった。

 それもあり、ここ最近はどちらかというとパパ寄りな姿勢になっていた芽衣子だ。



「ママ、怒ってるかな?」

「心配してるだろう。大丈夫、パパがちゃんと説明するから」


 こんな状況をどう説明するのか。納得させられる自信は全くなかったが、とりあえず寛太は笑ってみせた。



「よし。美登里さん、俺にも肉を下さい。元気をつけて帰り道を探してみよう。案外、近くから帰れるかもしれない」

「そうね、一瞬で来たわけだから帰ろうと思ったらすぐかもしれないわね」


 寛太の空元気に美登里も応じて、とりあえず重苦しくなった食事の席の空気を払う。




 日呼壱は、何となく理解していた。

 ここから帰ることは容易なことではないと。少なくとも人間の力でどうにかなりそうではない。

 そんな日呼壱の様子に、健一も美登里もそれを察してその方向で思考していた。


 伊田家一家はここに揃っている。

 一族郎党というわけではないが、少なくとも家族は全員が揃ってこの未曾有の災難に立ち会っている。


 それに対して、尾畑家は引き裂かれた状態だ。

 妻と1歳のわが子を残してきた夫。

 母親とはぐれた小学6年生の女の子。


 日呼壱の思う最優先は、生存すること。

 寛太が最優先に考えるのは、帰還すること。

 同じ状況に置かれていても、それぞれ違う。



「俺たちも、早く日本に帰りたいよ。こんな時は消防士の叔父さんが一番頼りだ」

「おいおい日呼ちゃん、消防士の職務にこんな事態はないはずだぞ」

「いや、ここで一番体力があるのは寛太だ。頼りにしてるぞ」


 健一も寛太の背中を叩きながら、その皿に肉を乗せた。


「健ちゃんまで……ああ、大丈夫。何としても帰る方法を探すよ」



 後から思えば、この時の昼食会が、それぞれの運命を決めたのかもしれなかった。

 そんなことは知らずに一同は、この異常な状況での初めての食事を摂るのだった。



   ※   ※   ※ 



 午後からは、今度は寛太が、マクラを連れて周辺の探索に出た。


 健一と日呼壱は、裏の湧き水の流れをなるべくうまく誘導できるよう河川工事に向かった。

 その際、西側から別の水音が聞こえてきた。家の排水が嵩上げされた斜面から排水されている音だった。



「ああ、母さんが井戸水使って洗い物してるのか」


 本来は市水道の配管につながっていた給水配管だが、源次郎の強い希望で、断水などの事態の際には井戸水からの給水に切り替えが出来る。

 水道配管工事をした施工者は、市の水道局に怒られるからダメだと言って繋がなかった――ことになっている。あとは自己責任だ。



「斜面で途切れてるパイプが、本来は浄化槽につながっていたんだろうな」


 西のほうに排出されて、斜面の下に落ちていく排水の様子を上から見てみる。


「あの排水、そのままどこかに流れていくように水路掘っておいた方がいいかもしれん。臭いで動物が寄ってきたりとか」

「んー、帰る目処が立たないままで、手が空いたらでいいんじゃない」


 とりあえずは、家の方に流れてくる水を横にそらすほうが先だろう。



「にしても、これ高山の雪解け天然水みたいだ。いや、そのまんまか」


 触れてみた水の冷たさが気持ちよい。


「いい水みたいだな。よい米が育ちそうだが」


 農家らしい感想の健一。



 世間で言われる美味しい米は、寒暖差が大きい山間部のものが多い。

 日中の暑い日差しと、湧き出る地下水の冷たさが良いのだとか。日呼壱はその辺は聞いた話程度しか知らないが。


「土もなぁ。悪くはないと思うんだ。長年の森の堆積物でそれなりにいいと思う。稲作には窒素とかそういう成分も必要だから向いてるかわからんが」


 健一は納屋にある来週植えるはずだった苗のことを思う。



「今ならトラクターも動くし、水はこうしてある。ダメもとでちょっと植えてみるか。放っておいても無駄になるだけだし」

「田んぼつくるの? 大変じゃない」

「大規模なもんじゃなければ、機械もあるからならんこともない気がするが」


 スコップで水路を掘りながら、家の北側に広がる木々のまばらな地面を見やる。水源もそちらからきている。

 うまくいく可能性は高いとは言えないが、この大地でも我が家の米が実ってくれたらと思ったら、前向きな気持ちになれた。



「まあコシヒカリは環境に強い品種だっていうし、多少実りが悪くてもやってみる価値はあるかもね。その前に日本に帰れるかもしれないけどさ」

「保険だな。最悪、ここで冬を越すことになったとしたら、保存できる食料が必要だ。しかし、今年メインで植えるのはコシヒカリじゃないぞ、日呼壱」


 健一が息子の間違いを正す。


「コシヒカリもあるが、稲の原種に近い赤米が半分くらいだ。古代米を育てて地元の観光用にって、何年か前からやっていたが。割と評判が良かったから、今年はちょっと多めにやることにしたんだ。お前だって赤いご飯食べていただろ」

「あれって赤飯じゃなかったんだ。もち米っぽくなかったけど」


 稲作に興味がなかったので、そんな説明は聞いたようで聞き流していた。

 言われてみれば、普通の白米より少し硬めでしゃっきりした感触だったようなと思い出す。



「原種だからな。痩せた土地でも育ちやすいし、種籾にするにも適しているはずだ」

「何にしても米食えないのはイヤだもんなぁ」


 このままここで何年も過ごすことになったとしたら、今ある稲の苗は命綱になる。

 他に有用な食料が確保できればいいが、そううまくいくだろうか。

 それに、やはり日本人として、食卓に米がないのはイヤだ。精米が出来ないから玄米で食べることになるが、それでも米を食べたい。


「お米は大事だからね」


 源次郎の経験も借りて、今の苗をうまく育てられるよう出来るだけの準備をしてみようと思う二人だった。



  ※   ※   ※ 



「油断するとすぐに遭難するな」


 一方で、マクラのリードを引きながら森に下りた寛太だったが、大自然の驚異を改めて認識していた。


 寛太は消防士だ。

 地元の山で遭難した人を探しに入ったことも幾度となくある。


 知っている山で、万全の装備をしていても、事故や二次遭難には十分注意をしなければならない。

 道を外れたら人間社会の領分ではないのだから。

 ましてやここは最初から道などない、地球の常識が通じるかもわからない世界だ。



「マクラ、頼りにしてるぞ」


 声を掛けると、何か用? というように寛太の顔を見る黒犬。

 割と頻繁に出入りしているので、家族に準ずる相手だと認識されているのだ。あるいは芽衣子の父親だと認識されているのかもしれない。



「お前ならさ、日本の臭いとかどっちからしてるとか、わかんないかな?」


 くぅ、と鼻を鳴らす。

 無理なお願いをしているのだと、寛太は苦笑した。

 この森のどこからか日本の気配がするのだとすれば、背中にある伊田家より存在感があるものは他にないだろう。


 もし近くに、同じくここへ転移してきた日本人がいるのなら……



「大声で呼ぶのは……よくないかもしれない」


 呼びたくないものを、呼び寄せることになる可能性もある。

 普通に遭難者を探す時なら、班に分かれて声を出しながら捜し歩くわけだが。


「とりあえず今はやめておこう」


 危険な生き物に対して十分な備えもない。怪我をしても病院に行くことさえままならない。

 傷薬くらいなら、伊田家には不必要なほどにたくさん準備があるだろうが。


 畑仕事に生傷は絶えない。

 健一は自社製の電動工具で日曜大工をして犬小屋なども作っていたが、木の断面などで擦り傷を作ることもよくあった。薬箱はいつも充実させている。



「しかし、これは本当に日呼ちゃんの言うとおり、地球だとは思えないな」


 周囲を見回す。

 木々も草も、どれも寛太の見知っている植物と大なり小なり異なる。中には寛太くらいの大きさの葉の植物もある。

 物によっては似通っていなくもないが、微妙な差が違和感を強くする。


 そこらに生えている木の半分ほどが、寛太の両手で抱えきれない程の太さ。目に入る範囲でいくらかはそれの倍以上の巨木もあった。


 意外と、幹は真っ直ぐに育っているものが多い。

 日照の問題で、上に上にと育っていった結果なのだろう。



(木を伐採するような人間……人間じゃないのとかも、何十年、何百年とここには来ていないってことか)


 樹齢から考えてそうなると、歩いて一日やそこらの距離に人里があるとは思えなかった。



「あっシロだめ!」


 考え事をしていた寛太の背後から大きな声がして、静かに行動しようかと思っていた寛太の心臓を震わせた。


「っ! 芽衣子!?」


 娘の声だと咄嗟に振り返り、その姿が斜面を降りてくるのを確認する。

 その寛太に向かって疾風のように白い影が向かってきた。



「わっ!? あっ!」


 白い猫だ捕まえなければ、と思った時には既に、伊田家の飼い猫のシロ(6歳メス)は寛太の足元をすり抜けていった。



 玄関が開いた隙に飛び出していく時の俊敏さだ。


「ちゃっあぁっダメだってマクラ!」


 と、その混乱の最中に、リードを振り切ってマクラが白い影を追っていく。



「マクラ待って!」


 続いて、小学生が寛太の足元をすり抜けて、


「ダメだ芽衣子!」


 今度は確保する。

 森の奥へと走り去る犬猫を追いかけようとした娘を捕まえた。


「だってパパ、マクラとシロが……っ!」

「芽衣子、ダメだ。追いかけちゃだめだ」


 右手で強く娘の手首を掴み、左手でその肩から抱きしめる。

 こんな森で、娘を離すわけにはいかない。



「芽衣子ちゃん、大丈夫?」


 背中から声を掛けられた。美登里も、駆け出した芽衣子を追いかけてきていたが、その足はつっかけサンダルだった。

 少し遅れて源次郎も斜面を降りてきている。



「ごめんなさい、シロが急に飛び出しちゃったものだから。芽衣子ちゃん、追いかけなくていいのよ」

「でも……」

「猫は追いかけられると逃げちゃうの。放っておいた方が帰ってくるから」


 美登里が寛太に羽交い絞めにされている芽衣子の頭を撫でると、芽衣子の体から力が抜けた。



「ごめんなさい、おばさん。私が玄関開けたから……」

「違うわよ、シロが狙っていたんだから。いつものことだし、心配しなくていいの」


 芽衣子が開けた玄関の隙間から脱走したのだった。

 だから慌てて、捕まえなければと飛び出してしまったのだ。


「……」


 白猫も黒犬も、その姿は森の中に消えてしまって確認できない。

 他の野生生物も、とりあえず見当たらない。



「マクラは狩猟犬の血を引いちょるけん、なんぞ捕ってくるかもしれん」


 下りてきた源次郎が、猟銃を脇に慰めるように行った。


「芽衣子、とりあえず上に戻ろう」

「……うん」


 自分も、みすみすマクラを離してしまったバツの悪さもあったが、寛太はそっと芽衣子を促して手をつないで伊田家の敷地内に戻るのだった。



 庭まで戻ると、裏にいたはずの健一と日呼壱が戻ってきていた。


「何かあったのか?」


 芽衣子の声が聞こえていたらしい。トラブルかと心配そうな顔をしている。


「あ、ええと」

「シロが脱走して、それをマクラが追いかけて行っちゃったのよ」


 言いよどんだ寛太に先んじて、美登里が簡潔に説明する。


「あー、うん……そうか。ああ、そうだったか」



 ――森は危ないかもしれない。


 失態を責めそうになりかけた健一だったが、しゅんとしている芽衣子を見て言葉を止める。



「まあ、腹が減ったらいつもみたいに家に入れてって帰ってくるんじゃないか」

「さすがに心配だから、俺ちょっと探してくるよ」


 健一の楽観的な言葉に、日呼壱はそれでも飼い猫と飼い犬が気がかりで、鉈を手にして下に降りることにした。


 過去にもこうして脱走しては、しばらくしたら何食わぬ顔で帰ってきて、さっさと玄関開けてくれと鳴くこともあったから、今回もそうかもしれない。

 いつもと状況が違うから、方向を見失うこともあるのかもしれないが。



(一応は犬猫だしな。帰巣本能は普通にあるだろうけど)


 飼い猫生活で野生の鋭さなどまるで感じさせないシロだが、時折どうやって登ったのかわからないような高所にいたりすることもある。


 あれは一応は猫科の獣だ。

 先刻、日呼壱たちが見つけたデカリスと同等程度の身体能力はあるのだろう。




 そんなことを考えながら下っていくと、源次郎が猟銃を肩に周囲を見回していた。


「爺ちゃん、どっちの方に行ったの?」

「向こうの方だったと思うがの」


 東の方角、北寄りを指差す。


「ったく、このややこしい時に脱走しなくても。あのバカ猫」


 愚痴ってみるが今更どうにもならない。

 源次郎と並んで、少しずつその方向に進んでみる。



「日呼壱は、怖くないんか?」


 源次郎からの不意の問い掛け。

 うーんと周囲を見回しながら軽く肩を竦める。


「えっと、けっこうびびってるけど」

「そうは見えんがなぁ」


 源次郎からの評価だが、日呼壱にそんな自覚はない。


 こうして家の方角を見失わないよう、すり足で地面に跡を残しながら歩いている。まだ10mも進んでいないが。



「こげな場所に来てからに、もっと不安でわめきちらしたりするかと思っとったが、落ちついとるわ」


 今この瞬間のことではなく、この半日のことを評価していたのだとわかる。


「あぁ、いや……どうだかね。勉強とか学校とか考えなくていいから、現実逃避してるかも」

「立派な学校いくのもええが、しゃんと自分の足で歩ける方がえらいがね」


 現代の日本の社会で生きていくのに、ある程度の学歴があったほうが有利なことくらいはわかっている。

 そういう生き方しか知らないと思っていた孫だったが、こんな非常時に意外と落ち着いていると評価していた。



「俺は、こういう異世界冒険とかの漫画好きだったからさ。今は結構わくわくしてるところもあるかも」

「んははは、それもええ。人生っちゅうのは楽しまんといかん。お米とお金と楽しむ心っていうからの」



 源次郎が持っていた猟銃を日呼壱に差し出す。


「持ってみい」

「いいの?」

「悪けりゃ言わんわ」


 昔は怒られたのに、と思わないでもないが、機嫌のよさそうな源次郎から憧れだった銃を受け取る。



「お、結構重い。あの槍より重たいかも」

「目方は5キロじゃの。今は一発弾が入っとるが、ライフルとはちごうて遠くは撃っても当たらん」


 散弾銃だが、篭められているのはスラッグ弾という散らばらないタイプの弾だった。熊や猪を仕留める時に使う弾だ。

 スコープはついていない。そんなに遠くを撃つような思想ではない。



(それでも、今のこの森では最強の火力だよな)


 日呼壱は漫画やゲームの知識を引っ張り出して、それらしく構えて周囲を見渡してみる。


「人のいる方を向けちゃならんぞ」


 源次郎からの注意が促され、声には出さずに頷く。

 先刻のデカリスでもいないだろうか、と。



(ああいう獲物を取れたら、俺のサバイバルスキル上がっちゃうんじゃないか?)


 飼い猫を探しにきたことも忘れて周囲を見回す。木の上、木陰に動くものがないかと。


(見つけたら、撃っていいかな? 撃って……狩って、いいのかな?)


 銃を撃つことを祖父は許してくれるだろうか。

 撃つことで、その生き物の命を奪って、いいのだろうか。


(このままの状況だったら結局どこかでやらないとならない。綺麗事じゃ生きていけないんだから)



「力みすぎじゃの」


 そんな日呼壱の姿に、源次郎は優しげに声を掛けた。


「銃を持つ時にはなぁ、やっちゃならんことがある」


 そっと話しかけながら銃身に手を置いた。

 銃口が、獲物を探していることに気づいたから。



「浮ついた気持ちになっちゃあならん。手柄を立てようと気負うと、思わん失敗をするもんじゃ」


 わしも最初はそうじゃった、と年齢を重ねた顔に皺を浮かべた。

 日呼壱の体から強張っていた力が抜ける。

 源次郎は小さく頷いた。


「お前はええ子じゃ、日呼壱。撃たんで済むならその方がええ。わかるな?」

「うん……ありがとう、爺ちゃん」


 息を吐いて、猟銃を源次郎に返す。

 祖父は、何もこの銃の扱いのことだけを言いたかったのではないのだと気づいた。



(俺が、この異常事態にハイな気分になってるんじゃないかと、気遣ってくれてたんだ)


 18歳という年齢で、子供ではないという自負はあったが、祖父からみたらまだまだひよっこだと。

 そう諭されたようだったが、そんなに悪い気持ちではなかった。



「この銃は、俺にはまだ重いみたいだ」

「そげかの」


 源次郎は否定も肯定もせずに受け取って、代わりに日呼壱に鉈を返した。


「弾には限りもあるが、ここで暮らすならなにかしら狩りは必要になりそうだのぉ」


 言いながら再び周囲の森を見回す。

 森は静かだ。日が落ちてきて、もともと薄暗かったのがさらに少し暗くなってきた。

 森の中で日差しが減ると、視野は思った以上に悪くなり見通せる距離が短くなる。


(こんなこと、ゲームや漫画だけじゃわからなかったな) 


 日中では見えていたものが見えなくなってくる。こういうこともあって山での遭難者も後を絶たないのだろう。




「む」


 源次郎が何かに気づいて銃を半身に構える。

 それに倣って日呼壱もその方角に注意を向けた。


「……」


 何もいない。



「……なん、じゃと?」


 薄暗くなりかけた森の奥から、灰色の獣が姿を現した。

 その姿は、力強さをまざまざと見せ付けるようでいて、神秘的なほどの美しさを合わせ持つかのような。



「お、おお……かみ……?」



 灰色の狼は、その茶色の瞳で日呼壱と源次郎を見つめていた。

 静謐に。


「……」


 その存在感に呑まれる二人。

 そんな中で、静寂を破るものがあった。


 その狼の上顎と下顎、牙に挟まれて。



『ギギィ……』


 呻く声。


「マクラ……?」


 思わず声を上げる日呼壱。

 狼の後ろから、マクラが姿を見せたからだ。


「あれは、キジかの?」


 狼の口にはキジに似た獲物があった。まだ息はあるらしく、わずかに身じろぎしている。



 マクラは、自分より大きい狼と日呼壱たちの間に立って、両方の顔をきょろきょろと見ている。


「……ふむ」


 源次郎は構えていた銃を下げた。



「大丈夫そうじゃ、日呼壱」

「爺ちゃん、わかるの?」

「あれは盗人の顔ではないのぉ」


 源次郎は、にやりと笑った。


「ワシが小さい頃には、うちの作物を盗もうとする輩を追い払ったもんじゃ。今も鹿やら猿やら悪さをするもんがおる。わしはもう六十年以上そんなのとやりあってきとる」

「えぇ……」


 祖父の、悪党の顔は見ればわかる理論に、ちょっと引き気味の日呼壱。

 さっきまでは結構頼れる保護者として尊敬しつつあったのに。



「こんな別嬪の犬は悪させん」

「ああ、綺麗だもんね。この狼」


 割と即物的な判断材料だったことに納得する。

 実際、美しい獣だと日呼壱も感じる。


 そうでなくともマクラが何も警戒心を見せない。

 狼の方もマクラに対して牙を剥いたりという顔ではなかった。


 そう、顔だ。動物にも表情がある。

 怯えや敵意を表す様子が見えず、こちらとの距離を保ちながら静かに佇んでいる姿は、危険な獣には見えなかった。



「とりあえず敵じゃない、のかな」

『ウォンッ』


 その通りだ、と同意するかのようなマクラの鳴き声。

 灰色の狼は、その口に鳥を咥えたまま軽く後ろを振り返る。



「まだ何かいるのか?」


 次は何が出てくるのか、と思ってみたら、今回の騒ぎの脱走犯の白い猫だった。


「シロっ、お前……えっと、なんで増えた?」


 飼い猫のシロと共に、銀色の毛並みの似たような種族が歩いてきた。

 長毛の、輝くような銀色の毛並みが、ややオレンジ色になりかけた弱い日差しを照り返して輝きを放つ。



 銀色に輝く猫。

 シロと共に、すたすたと、あるいはシャラシャラと音でも立てそうな毛並みを揺らして日呼壱の前まで歩いてきた。


 まるで獣の王でもあるかのように凛とした佇まい。

 そして、その口を開く。



(もしかしてこいつが、この転移の……)


『ヌァォン』


 普通の鳴き声だった。

 いや、普通というには少し、かなり気の抜けたような鳴き声だったが。



「この場合は、お前が女神様の使いとか言ってこの世界の説明をしてくれるパターンなんじゃないのか?」

『ヌ~?』


 何を言っているんだ、と言わんばかりに銀猫は日呼壱の言葉に疑問符の鳴き声を返して、右前足で顔を洗ってみせる。

 完全に猫だった。銀色で綺麗だけれど。


 すりすりと、日呼壱の足元におでこを擦り付けてくる白い猫。

 脱走して怒られるはずのシロが、ほめてほめてと言うように足元にまとわりつく。



「はぁ」


 溜め息を吐きつつ、とりあえず脱走犯を抱き上げて確保する。


「ノミとかついてないだろうな?」


 差し当たっての心配事はそっちだ。

 異世界のノミだったら、地球にはない病原体を持っていたりするかもしれない。



 そんなことを気にしていると、いつの間にか灰色の狼がかなり近くまで歩み寄ってきていた。


「っ……?」


 思わず半歩下がって身構える日呼壱。

 狼は、源次郎から5mほどの距離で立ち止まった。


「…………」


 見詰め合う狼と猟師。本業は農家だが。



 源次郎は身じろぎしなかった。それでも手は、いつでも銃を構えられるよう予備体勢は取っている。


『ギギュゥ……』


 狼は、口にしていた鳥を地面に置き、今度はその爪で大地に抑え付けた。



 自由になった口。一足で源次郎の首筋を噛み切ることも可能だろう。

 鋭い牙を持つ口先を、抑え付けた獲物の方に落とし、ゆっくりと顔を上げる。


「……お辞儀?」


 会釈をしたように見えた。



『クゥクゥウン』


 その鼻面にマクラが自分の鼻面を擦り付ける。

 犬同士でいえばハグをするかのような対応に、狼もその強靭な牙を見せることなくくすぐったそうに応じる。


 そうしている様子を見て初めて、その狼がマクラよりかなり大きいと確認できた。

 マクラの体高――首や口あたりまでの高さ――が日呼壱の太腿くらいだが、それより頭ひとつ大きく臍を越えるあたりまでありそうだ。かなりの大型犬というか、狼だった。



「やはり悪い犬ではないんじゃの」

「……とりあえず、マクラもシロも見つけたし戻るか」


 祖父の眼力はわからないが、日呼壱にしても危険な相手とは思えなかった。



「それにしても、異世界にきて綺麗な異性との出会いとかって、普通は主人公の特典なんじゃ……」


 この世界は、そんなに甘くないらしい。



「主人公は、猫の方だったりするのか」


 あらゆる可能性は否定も肯定も出来なかった。



 世界は、何も説明してくれない。地球でも同じだったはずだ。



  ※   ※   ※ 

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