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赤い実と世界の常識



 だらしなく涎を垂らして眠っているフィフジャの顔に、やはりヤマトは警戒心を持てない。


 母は用心しなさいと言っていたが、やはりこの男は間抜けでお人よしの系統にしか思えないのだ。

 ヤマトもアスカも起きて身支度を整えているが、目を覚ます気配がない。


(よくこの森を生きて抜けてこれたと思うんだけど。もしかしてすごく運が強い人かな)

 起こさないようになるべく静かにしているのは、きっとフィフジャが心配して夜遅くまで見張りをしてくれていたのだと思っているからだ。

 だから朝寝坊をしている。仕方ない。



 アスカは、釣り糸を適当な木につけて川で釣りをしている。既に何匹か釣り上げているので、朝も昼も食べ物の心配はしなくてよさそうだ。

 釣りの前に、まだ暗いうちに水浴びもしていた。ヤマトに見られても平気だろうが、さすがにフィフジャの前では恥じらう気持ちもあるらしい。


(危険な獣の気配なら、すぐにグレイが気がついて吠えるから大丈夫なんだけど)

 フィフジャに説明したくても言葉が通じないので方法が思い当たらなかった。


 コミュニケーション能力に長けている妹はさっさと寝てしまったし。

 どうしようか考えて、難しそうだったからヤマトも寝ることにしたのだ。二人とも寝てしまえば、そういうものだと理解してくれるかもしれないと楽観的に考えてみた。



 とりあえず眠ったままのフィフジャを放置して、釣りをしているアスカの方に行く。

「起きた?」

「いんや」

 短い確認の言葉を交わしている間にも、アスカはまた一匹のヤマメを釣り上げる。


 身体能力ではヤマトが上だが、直感の鋭さや機転ではアスカに勝てる気がしない。

 戦闘訓練としてアスカと組み手をすることがあったが、アスカが十歳の頃に一度敗北を喫してから、今では三回に一回ほど負けるようになった。


 父が何を思って対人の訓練をさせたのか。


 ――もし他の人間と遭遇しても、友好的な相手だとは限らない。


 普通に獣を相手にするにしても、練習として年の近いアスカと戦闘訓練するのは自然なことでもあった。

 ただ、それとは別に、関節を極めて相手を制するとか、投げて背中から叩き落すことで行動不能にさせるとか。


 それはおそらく、人間を相手にした際に殺さない程度の対応が出来るように、という考えだったのだろうと思う。

 別に伊田家に護身術に詳しい人間がいたわけではないが、柔道の教本は家にあったので、それを読んで鍛錬してみたのだ。


 幸いなことに、森での生活で身体能力は鍛えられていたので、下手の横好きというよりは身についていた。

 ヤマトとアスカに至っては、幼い頃からそんなことを続けてきたので、かなりのレベルで習熟している。


 伊田家所蔵の漫画にあった闇の鬼人衆という集団が使うような技も練習してみたりしたが、さすがに漫画の技は習得できなかった。まだ諦めてはいない。



「これ以上は腐らせちゃうよね」

 十匹ほど釣ったところで、アスカは釣り糸と針を木から外した。

 この釣り糸も釣り針も貴重だ。荷物になってしまう竿は家に置いてきたので、その辺の木の枝で代用している。


 物心ついて以来、この森で利用できる物は何でも使って生活してきた。こんなことには慣れているというより、いつもの生活の一部でしかない。

「まあ十分じゃないか。ああ、見てたらお腹空いてきたよ」

「はいはい、じゃあフィフを起こしてあげて」



 釣った魚は耐水性の袋に入れて持っていく。父や母はプールバッグと呼んでいた。本物のプールを見たことはないが、プールに行く際に使うらしい青い手提げバッグだ。

 《い田 日こいち》 と名前が書かれているのが嬉しい。父が漢字を書けなかった頃など想像もできないのに。


「フィフ…フィフジャ、そろそろ起きて」

 ヤマトが声を掛けると、寝ぼけた目で周りを見回してから、謝罪らしい言葉を口にするフィフジャ。

 気にしないでいい、と言って、焚き火で魚を焼いているアスカを指差した。

 彼はもう一度、すまなそうに言った。


(ごめん…っていう言葉かな。たぶん)

 頭の中でそれを反芻して、口の中で小さく呟いてみた。

 少しでも早く言葉を覚えたい。


 頼りないフィフジャだが、自分たちはその彼よりもあやふやな存在なのだから。

(ぼやぼやしてるとアスカの方がさっさと覚えちゃいそうだし)

 それは兄としてみたらずいぶんと居心地が悪いことなのだから。



「あと五日で夏至だったかな」

 フィフジャたちがどういう暦を使っているのか、言葉が通じるようになったら確認しなければと、考えることは山ほどあった。



   ※   ※   ※ 



 川沿いに北に向かう。


 山脈の他には川くらいしか目印になるものがない。そのまま十日間進んだが、相変わらず行く先で目印の紐が巻いてある。家の近くのものよりは新しいようで、黄色い紐だった。

 他の川と合流したり、むしろ辿ってきた川の方が細い支流で、本流に合流したようで、川幅は次第に大きくなっていく。



 家を出てから十一日後。

 少し大きめの川が合流して、周囲が開けたところで彼らはそれに遭遇した。


「WAAA」

「OTOUSANGA ITTETANO KOKODA」

 二人が声を上げる。


 川の周辺が野原のようになっていて、毒々しいまでに赤い実がごろごろと転がっている。

「なんだ、これ」

 新鮮な血のような赤。見たことのない果実……なのか、フィフジャにはわからない。


 この周辺だけ木々がないのは、おそらく合流した支流などの影響で樹木が流れたり、土砂が堆積したりした場所なのだろう。

 半径1000歩ほどの空間が野原になっている。


「えっいや、それ食べるの?」

 真っ赤な実など、劇薬になるものか激しい苦痛を起こすものしかない。少なくともフィフジャは、赤い植物は食べないと教わっている。


 だが彼らは無造作に転がっている実をもぎ取ると、川で洗ってから躊躇なく口にした。

 そして、口を尖らせた顔をして笑っている。


「……」

 決して美味しそうではない。

 だが楽しそうだ。

 ヤマトが、笑いながらフィフジャにもそれを差し出す。


「たべ、らる」

「だいじょ、ぶ」

 二人で、覚えたての覚束ない言葉でフィフジャに勧めてくる。

 実際二人が食べているのだから大丈夫なのだろうが。


「ん…こんな、赤いけど…ええい、わかったよ」

 手にとって、彼らの拳くらいの大きさのその実にかぶりつく。

「んん? すっぱぁぁ…けど、うん…すっぱい」

「す、っぱぁ」

 けらけらと笑うヤマトとアスカ。


「君ら、わかってて勧めたな」

 半眼で睨むフィフジャ。ここまでで、この程度のコミュニケーションが取れるまでには意思疎通が出来るようになっている。


 アスカは荷物から塩を出して、自分がかぶりついたその実に少しだけ振りかけて食べる。ヤマトもそれに習って、そのまま全部食べてしまった。

「塩をかけると…うん、まあこれは、なんだろう。けっこういける」


 最初はすっぱいと思った赤い実がなんだか甘く感じる。塩をかけたのに甘く感じるというのもおかしな話だが。

 なるほど、珍しい植物だが毒ではない。

 肉や魚が中心の食事が続いていたが、さっぱりとした味わいが新鮮で好ましい。



 本当にいろんなことを知っている子供たちだ。

 もし森で迷走中にこの野原に出くわしていても、フィフジャは口にしなかっただろう。


 周辺に獣の気配もない。この実はこんなに成っているが、獣たちの意識でも、この実は食べ物として認知されていないのだと思われた。

 臭いもほとんど出していない。潰れた実から、ややすっぱい臭いがするくらいだ。


 その日はまだ日中だったが、そこで休憩をすることにした。開けていて視界もいいし、食べ物もある。



 アスカが水浴びをしたがったので、ここらで一度休息を入れてから次に進もうということになった。


 ついでに着替えの洗濯などもしてしまう。毎日着替えているわけにもいかないが、さすがに着たきりというのも落ち着かない。

 そういった衛生面では子供たちの方が敏感だった。下着だけは毎日替えているのだから。


 毎晩、寝る前には木の枝を加工した歯ブラシで歯磨きも欠かさない。森にある清々しい匂いのする葉をすり潰して、歯磨きをしている。

 寝る前に下着を洗って、焚き火の近くで干して寝ている。翌朝には渇いているように。

 子供たちに習ってフィフジャもそうするようにしていた。


 夜には、赤い果実を潰して魚と一緒に鍋で煮てみた。格別な味わいではなかったが、珍しい味で悪くはなかった。

 翌朝、ヤマトたちはいくつかの実を収穫して、また北に進むのだった。



  ※   ※   ※ 



 野原の北から、また森が始まる。

 そこには、斜めにクロスするように、黄色い紐が掛けられている。

 掛けられた木には、何かの記号と言葉が刻みつけられているが、これまでと少し様子が違う。


「OTOUSAN…」

 アスカのその言葉が、父を呼んでいるということはフィフジャもわかってきた。


 寝てしまう前にも言葉の勉強などをしているので、言葉を教えながら逆に彼らの言葉もいくつかの単語はわかってきた。


 OKAASANは母親のことで、メーコ。

 OTOUSANは父親のことで、ヒコーチと言う名前らしい。あんなに綺麗な妻を残していって、心残りが多かっただろうと同情した。


「めじるし、ない」

 ヤマトがたどたどしく言って、クロスした紐を掴み、それから森の奥を指差して、手でバツをつくる。


「ここから、先は、目印がないのか」

 あえてゆっくりと喋るようにしているのは、ヤマト達に言葉を覚えさせる為だった。ヤマトは理解したのか強く頷いてみせる。


 彼らの父が探索したのはここまでだったのだろう。

 一人でここまで来たのだとすれば、フィフジャにしてみれば驚異的な人間だと思うのだが。

 そういえば黒鬼虎も一人で倒したとか、そういう人物だったようだし。


(凄い戦士だったんだな。わかるよ)

 フィフジャは納得して頷いた。

 ここから先は、ヤマト達にとっても未知の領域ということになる。


「注意して、進む。周りを、よく、見て」

 手振りを加えながら話す。

「よく、みる」

 アスカが答える。指で丸を作って目に当てているので、わかっているのだろう。


 見ろ、とか、見る、とかそういう指示語と動詞の活用も、少しずつだがわかってくれている。

 最初の頃に、走る、と、走れ、を教えたからなのかもしれない。


 何か危険があった時に、止まれとか逃げろとか、そういう指示を理解してもらう必要がある。

 人間と言うのは必要に迫られると出来るようになるものだという。それにしても理解が早いのは、おそらく彼らがもともと一定以上の水準の教育を受けて育っているお陰だ。



 あの家で過ごした短い日々の中でも、納屋にあった黒い板に、石灰岩のようなもので文字を書いたりして意志伝達を図っていた。

 不思議な文字だったが、一から九、そして零の数字なのだとわかったので、それに対応する文字を教えたりした。零だけは、表記は同じ丸だった。


 まともに文字が読めない庶民でも、数字だけは読めるものも多い。

 彼らはあっさりとそれを習得してしまった。まだ100とか1000の言い方までは覚え切れていないが、文字に書くだけなら問題がない。


「周りを、よく、見ろ」

 非常に覚えのいい教え子たちを頼もしく思いながら、フィフジャは先頭に立ってその黄色い紐の印を越えて進むのだった。




 手斧で、枝や草木を払いながら進む。

 整備された道路ではないのだから、草木は好き勝手に生えている。


 いまだに危険な獣に襲われたりしていないことは良いことのはずだが、逆に何もないのが怖いとも思うのも事実。

 木々が開けた野原から侵食した蔦が鬱蒼とした茂みとなっている。

 日が入るので、野原と森との境界あたりが特に茂みがひどかったが、奥に進むにつれて足元の草は減っていった。


 木の枝が邪魔をするのと、降り積もった葉が腐った土が軟らかく、歩きにくい。

 枝を切り払いながら、目印の川の流れを見失わないように進む。柔らかい土を流れが削っていくせいか、この辺りは地面よりだいぶ低い場所を流れている。

 川に近いところを歩こうとしたら、かなりぬかるんでいて危なかったので、川と山脈との間あたりの位置をキープしながら進むようにした。



 オタネト山脈、と呼ばれているズァムーノ大陸中央を縦に分断する大連峰。

 越えることができないという意味だとか、そういう話だが、フィフジャは詳しく知っているわけでもない。


 ズァムーノ大陸だって、ズァムナ大森林があるからそう呼ばれるようになったのだとか、どっちが後先なのかはっきりとした記録はないらしい。

 神話の時代にガズァヌという巨大な神が大陸を割った功績を称えられて、その名にちなんだ名前なのだとか。


 なぜ大陸を割ったら功績になるのか、理解できない。

 ただの神話だが、このズァムーノ大陸は確かに真ん中が裂けている。この山脈の西側は断崖絶壁で海になっていて、その断崖の向こうに大陸の残り半分がある。


 イモを、真ん中辺りで上から割ったような形をしている。今いるのはその右側の中央森林。

 南端は地続きになっているが、今度は種族的な問題で東西に分かれている。


 この森を南に抜けた場合には――抜けられたとしてだが、その時はフィフジャは間違いなく死ぬと思っている。

 人間は生きていけない土地柄だ。運がよければ奴隷や見世物程度になれるかもしれない。


 森の北も、フィフジャにとって生きやすい土地柄ではないが、問答無用で殺されるような場所でもないはずだった。

(まあ生きやすい場所なんてないわけだけど。評判通りなら、この山脈の西側に行けたらまだ楽なのに)


 オタネト山脈西側は断崖絶壁で海なわけで、その海を越えた先にある地域。

 大陸の西側は、多少腕に覚えがある人間なら生活できるだろうという。荒事中心になるので長生きには向かないが。


 フィフジャとて知識として知っているだけで、このズァムーノ大陸に来たのは初めてのこと。

 大陸西側は草原地帯が多く、大きな統一国家があり、南端での異種族との戦いに明け暮れているような土地らしい、と聞いているだけだ。

 戦える者であれば南部防衛隊に志願すれば衣食住の保障はされる。命の保障はない。


 ズァムーノ大陸東側は、現在地であるズァムナ大森林で南北を完全に分断されている。

 その大森林の南側――つまりこの大森林を南側に抜けた先は、魔人族と呼ばれる異種族の領域。それが南端で人間国家との小競り合いから大きな戦を続けている。

 同じ魔人族の間でも争いが多いという話だ。



 およそ八百年ほど前には、魔王を名乗る異常な強さの魔人の王が率いる軍団によって西側の国家は壊滅し、さらに海に進出して北西ユエフェン大陸、北東のリゴベッテ大陸まで戦乱が広がった。

 遥か昔の戦乱の歴史で、正確な記録はほとんど残っていないが。


 このズァムーノ大陸の北西にはユエフェン大陸。

 ユエフェン大陸北方は人跡未踏の極寒の山岳地、その麓にはテムの深い森。その南には色々な生活習慣の部族や小規模な氏族国家が多くあるらしい。



 もうひとつ、ズァムーノ大陸の北東、リゴベッテ大陸。

 フィフジャの故郷というか、生まれ育った大陸だ。


 ユエフェン大陸と違い、リゴベッテ大陸には多少歴史のある国家がいくつかあり、最も繁栄している地域になる。

 魔王の侵攻の際にその進路から最も遠い位置にあったので、被害が一番少なかったために古い国家が残っている。

 逆に、歴史の長い国家だけに面倒くさいことも多いが、安定した生活が出来る地域でもあり、そこの国民は他の大陸のものを見下す傾向もあった。



 人間が集まれば派閥ができるし軋轢が生じる。

 ズァムーノ大陸のように魔人族という具体的な外敵がいない他の大陸では、やはり人間国家、部族同士の戦は数年置きに大なり小なり起きている。

 それが大きな戦乱にならないのは、ある程度のところで仲裁に介入する教会の存在があるからだ。



 ゼ・ヘレム教会。

 教会と言えばゼ・ヘレム教会のことになるし、全てのヘレムという意味をするこの言葉はこの世界と同義と教会は位置づけている。


 全世界すなわちゼ・ヘレム。

 400年ほど前に、真なる龍と呼ばれる強大な魔物が空から現れた際に、人々を守る為に最前線で戦ったのがゼ・ヘレム教会の聖人たち。


 その戦いで散った彼らは神として祭られていて、龍は激しい戦いの末に命尽きて海に落ちたと言われている。

 龍の存在の真偽は不明だが、海には龍の亡骸から産まれたと言われる異形の妖魔がいて、海路に被害を出すことが珍しくない。



 こういったことを、ヤマトとアスカに伝えるまでに、どれだけの時間が必要なのだろうか。

 普通に生きてきたものにとっては常識的に知られていることだが、彼らはその常識の外で生きてきた。


 常識を伝えていくためにも、まだまだ言葉の勉強は必要になりそうだ。

 どちらにしても長い道のりなので、少なくとも退屈だけはしなさそうだとフィフジャは思うのだった。



  ※   ※   ※ 


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