母と子と
玄関から先は、素足で入る約束のようだった。
そこまで裸足だったフィフジャは、再び濡れた手ぬぐいで足を拭かされてから本宅に上がることになった。
「NEKO MITAI」
くすくすと笑いながら少女が言った。
ちょうどそこに、開いた玄関からするっと進入する、小さめの白い獣があった。
少女はそれを素早く淀みない動きで捕まえて、今しがたフィフジャの足を拭いていた手ぬぐいでその足を拭く。
「NEKO」
『ナア』
声を上げてから、解放されて逃げていく白い獣。この家の住民らしい。
(ああ、あれと同じだと……あれと同じレベルだって言われたのか)
文化のない蛮族のごとき扱い。仕方ない、出会った時点では浮浪者なのだし。裸足でうろうろしたのだし。
「ネコっていうのか」
入ってきた白いネコと、家の中には別の茶色のネコがいた。フィフジャを見てから、すぐに奥へと走り去っていく。
小さく素早い生き物だ。と思ったら、別の所ではだらしなく寝そべっている灰色の縞のネコもいた。
他ではみたことがない。ネコという呼び名も初めて聞く。
色とりどりで同じ種族だとは思えない。
普通の動物ならほとんど同じ体毛か、オスメスで色が違うかくらいなのだろうに。珍しい生き物だ。
このあたりにだけ生息している動物なのだろう。
そんなものを見ていると、通路の戸の前で少女が中に向かって声をかけた。
「OKAASAN HIROTTEKITA OJISAN KITAYO」
「EE DOUZO」
中から、大人の女性の声がする。
それを受けて少女が戸を引いて開けて中に入った。
続いてフィフジャが、その後ろから少年が入った。
「AH SONOFUKU HIKOCHANNO……」
中には女性がいた。ベッドから体を起こしてフィフジャ達を迎えるその女性は、少年少女たちの母親のようだった。
彼女の瞳が、何かとても懐かしそうにフィフジャを見つめる。
「あ、と……」
言葉はわからない。
言葉が出てこない。
その女性の、儚げな美しさと、とても強い意志を持った瞳に圧倒されて、言葉が出てこない。
(なんて……綺麗な人だ。人か……な?)
喋ろうにも言葉が通じない。それにしても何か言うべきだろうに、その存在感の薄さと強さという相反する雰囲気に気圧されてしまう。
「HONTOUNI HITOGA ITANONE」
噛み締めるような呟き。
彼女は、ゆっくりとした動作でベッドから立ち上がり、そっと礼をした。
「HAJIMEMASITE IDA MEIKO DESU」
挨拶だ。
おそらく挨拶なのだろうが、何を言われているのかわからない。
困惑するフィフジャに笑顔を浮かべて、彼女は自分の胸元をそっと自分の手で差して、
「IDA MEIKO」
「あ、ええと、イダ・メーコ、さん?」
頷く彼女に見とれてから、はっと気を取り戻す。
「ああっと、ええと、俺……じゃなくて、自分は、フィフジャです。フィフジャ・テイトー」
彼女がそうしたように、自分を指し示して名前を告げる。
「フィフジャ」
「FIFUJASAN?」
「フィフジャ……うん、フィフジャ」
「ひふじゃ?」
女性と、少女がフィフジャの名を呼ぶ。伝わっただろう。
「ふぃふじゃ……YOBINIKUI HENNA NAMAE」
「YAMATO!」
何かを言った少年に対して、声量は大きくないが叱責の声を掛ける女性に、少年は何やら謝罪の言葉を返した。
おそらくフィフジャの名前を、聞きなれない妙な名前だとでも言って怒られたのだ。
(それはまあ、お互いに地域が違うから仕方ないことだよな)
違う部族の名前なんて、どこか妙に聞こえるものだ。
フィフジャはこのズァムナ大森林のあるズァムーノ大陸の生まれでもない。奇妙に聞こえて当然だ。
「IDA YAMATO IYASHIOOYASHIR☆§%&**”……」
少年が何かを言うが、早口で長すぎて聞き取れない。
「あーえっと、ちょっと待って……」
まくし立てるように言う少年の頭を、ぺしりと少女が叩く。
そして何事か言い合い、むうと少年が口を尖らせた。
「IDA ASUKA DAYO」
言い合いを切り上げて、少女がフィフジャに向かって自分を指して告げる。
「イダ・アスカ・ダヨ?」
「AA! CHIGAUCHIGAU …… IDA ASUKA」
何か取り直すようなことを言ってから、再び名乗りなおす。
「イダ・アスカ?」
にっこりと頷く少女。それに続けて、
「IDA YAMATO」
「イダ・ヤマト」
にっと笑って、親指を立ててみせる少年。間違っていないということなのだと判断する。
イダ、というのは家名なのだろう。
「ええと……メーコ、アスカ、ヤマト?」
名乗られた順番に再度確認すると、それぞれ頷いた。
メーコは、立っているのがつらいのか、ベッドに腰を下ろす。
病気なのだろうか。
「フィフジャ・テイトー……フィフ、フィフ」
自分を指差して愛称を連呼する。そんな風に呼ぶ相手は過去に一人だけだったけれど。
「フィフ?」
「そう、フィフって呼んでくれたらいい」
どうやら伝わったようで安心する。
どんな相手でも、知性のある者同士なら、コミュニケーションをとることは不可能ではないのだ。
メーコはやはり病らしく、ベッドに背を持たれかけてフィフジャと話をした。
話と言っても、何かしらお互いのことを喋ってみるのだが、伝わっているのかどうかはわからない。
フィフジャがわかったことは、ここには三人しかいないということ。
周囲には誰もいない。集落などない。
アスカが持ってきた絵本――こんな上質紙の絵本なんてものはフィフジャは初めて目にしたが――それを使って質問をされる。
――市場で人々が集まる絵。町の大通りの絵。城や軍隊の様子。
どこかにあるのか、と。
フィフジャは、自分が通ってきたはずのずっと北の方角――森で迷っていたにしろ町の南に大森林があるのだから――を指差して、市場や村、町があると頷く。
それを聞いた時、メーコの目から涙が溢れ出してしまい、フィフジャは困ってしまった。
なぜ泣くのだろうか。
この世界に、自分たちだけしかいないとでも思っていたのか?
他の人間は滅びたとか。
理由はわからなかったが、悲しくて泣いたわけではなさそうだった。
他にも、見たこともない硬貨や、緻密な絵の描かれた札なども見せられた。
貨幣や何かのことなのだろう。
フィフジャは、自分の荷物は既に失っていて何も持っていなかったが、貨幣で物を交換するということは可能だと伝えてみた。
だが、彼らが持っている硬貨は見たことがない。
やはり古代に滅んだといわれている超魔導文明の最後の生き残り、というのが真実味を帯びてきた。
(いや、それにしては……魔術を使っているような形跡はない。この家には、魔術の道具があるみたいなのに)
魔術のような気配のする物品はある。
だが、彼ら自身には魔術を行使している様子がない。
ちぐはぐな存在だ。なぜこうなったのか説明がつかないまま、結果だけがあるような。
(これは……もしかして、これが目的で、送り込まれたのか?)
フィフジャがこの大森林に来た理由。
スポンサーから、この森の探索で目に見える成果を持ち帰るという要望。
地図を作って森の状況を確認するというのが第一目的だったのだが、それにしては送り込まれる規模が大きかったように思う。一流の探検家を10人単位となると、下手な兵士を100人集めるより金がかかるはずだ。それでは済まないくらいか。
もしかして計画を立てた誰かは、このイダ一族の存在を知っていたのではないかと。
(どうやって……考えても仕方ない)
どういう目的があったのか、ただの偶然なのか、答えを得るにしても帰ることができなければ何もできない。
メーコたちからは他にも色々な質問、疑問を投げかけられたが、わからないこともあったし、質問の意味がわからないこともあった。
そうして話していて、助けられた理由に合点がいく。
彼らは、この森の外の情報がなかったのだ。
だから外からの来訪者であるフィフジャを助けてくれたのだと。
理由がわかれば、神秘的なだけに思えた彼らのことも、普通の人間なのだと安心するのだった。
※ ※ ※
「良かった。本当に良かった」
芽衣子は33歳になっていた。
一昨年の冬に夫日呼壱を亡くしてから、不安に押しつぶされそうな日々だった。
このまま子供たちをどうしたらいいのか。
日呼壱は、自分が死んだ後は、全員で川沿いにずっと北を目指せと言っていた。
この家を捨てて、戻らない覚悟で。
きっと出口があると。
その言葉は嘘ではなかった。間違っていなかった。北には町があるという。
ただ、もう少しアスカが大きくなってからと思っていた最中に、芽衣子の体に限界が来てしまった。
源次郎は享年75歳だった。健一は58歳。美登里は62歳。日呼壱は38歳で亡くなっている。
日本人の平均寿命から考えたら早すぎる。源次郎はともかくとして、他はなぜこうも早世なのか。持病などがあったわけでもなく、健康的な生活をしていたのに。
その理由が何なのか。
健一が亡くなる前から、自分の左手の中指の爪が灰色に染まっていると言っていた。
その際、芽衣子は爪先ほど。美登里は爪の中ほどまで、やはり灰色に染まりつつあった。
今では芽衣子の中指の爪も、ほとんど灰色になりかけている。
何かの毒なのだろう。きっとこの世界特有の。
代謝が良かったからなのか、若い芽衣子には影響が少なく、健一には影響が早かった。源次郎は、そもそも高齢だったので判断ができない。
芽衣子は、その指を見るのが怖かった。タイムリミットだと思えば見たくもない。
幸いなことに、子供たちにその兆候はない。
だが芽衣子の時間はもう残り少なかった。
このタイミングで、この世界の人間と接触することがあるなんて、奇跡というより作為的だ。
「何でもいい。この子たちが生きていける世界があるなら」
芽衣子のベッドの横に布団を敷いて眠っている二人の子供たち。
愛する日呼壱との子供。ヤマトとアスカ。
子供たちが健やかに生きていけるのなら、それ以上の望みはない。
「日呼ちゃん……私、ちゃんとできたよね……」
家を出なかったことは、アスカが幼かったからなんていう理由ではない。それは言い訳。
みんなで一緒に過ごしたこの家を。
日呼壱が眠る場所を。
「離れたく、なかったんだよ……日呼壱のバカ……」
ごめん、という声が聞こえたような気がした。
もう一度でも、何度でも、聞きたかった声を。
※ ※ ※
「フィフジャさんと一緒に森を出なさい。この家を出て、町で暮らすのよ」
翌朝、芽衣子は二人の子供にそう言った。
春から夏に近づく頃の、静かな雨の日だった。
「でも、母さんが……」
「わかってね、ヤマト」
芽衣子は自分の左手を出して、ヤマトに静かに言う。そっと息子の手を取り、両手で包む。
ヤマトだってわかっている。もう長くないことくらい。
「お母さん」
「アスカ。お兄ちゃんを助けてあげて。一緒に二人で力を合わせて生きていってほしいの」
「……うん」
「できたら、だけど」
そっとアスカの頭を撫でて笑う。
「あなたたちにも、私とお父さんみたいに素敵な相手が出来るといいわね。孫の顔が見られないのは残念だけど、家族が出来たらこの家のことを話してあげて」
この森は、やはり異常に深い森のようだ。
フィフジャの様子からも、ここが人がおよそ来るような場所ではないと知れた。
家を出て、無事に町についたら、もうここに戻ってくることはない。
環境も困難だが、あまりに広すぎるのだ。この森は。
危険な森の中を、この家を探し当てて帰ってくるというのは現実的ではない。
この家は、彼らが出て行った後は、静かに朽ちていくことになるのだろう。
みんなで切り拓いた田畑も、水車も、大樹に刻んだ伊田家の印も。いずれ森の自然に飲み込まれて消えていく。
「あなたたちが生きて、この世界に伊田家の血を残していってくれたら。お爺ちゃんたちも、お父さんも、お母さんも、そう願っているの」
「あの……フィフジャと?」
アスカの質問に、思わず笑ってしまう芽衣子だった。
そういえば、この世界に来た頃の自分と日呼壱くらいの年齢なのかもしれない、と。
「まあ、アスカはもっと大きくなってからね。焦ることないわ、あなたは可愛いからあの人じゃなくてももっと素敵な人が見つかるかもしれないし」
それに、と続けて、真剣な顔をする。
「あの人を頼ってもいいけれど、信じるかどうかはあなたたちがきちんと見て、考えて決めなさい」
初めて会ったこの世界の住人。何もわからないこちらとすれば、頼るしかない存在だ。
悪人のようではない。
だが、人は誰でも善悪で揺れることがある。
「漫画の中でも、いい人だと思っていたら裏切られたり、味方のはずが敵だったりするでしょう」
「でもあのおじさん、間抜けな感じだったけどな」
「それでも、よ。あなたたちはまだ若くて、この世界のことを何も知らない。お金次第で奴隷商人に売ったりするかもしれない」
用心して生きていく、ということを教えることが出来ていない。
社会生活をさせていないのだから仕方ない。
恐ろしい獣に用心することはあっても、他人の悪意を察するような必要は今までなかったのだから。
「今は頼ってもいい。でもその先も信用していいのかどうか、自分の目で確かめて。お父さんの漫画でも、騙されたり盗まれたりしてるのもいっぱいあったでしょう。あのフィフジャさんに限らず他の人だって、どういう人かなんてわからない。無闇に疑うものではないけれど、簡単に信じたらダメなの。特にアスカは女の子なんだから……」
「わかった、お母さん。エッチなことされちゃったりしないように気をつけるよ」
「はあ、アスカが……いや、わかったってば。僕もちゃんと気をつける」
よろしい、と笑う芽衣子と二人の子供たち。
「二人で助け合っていってね。自分たちの為に、あなたたちが幸せになるように生きていってくれたら、お母さんはそれが一番の幸せだから」
ヤマトとアスカの頭を両手で抱いて、彼らの耳元で囁く。
幼い頃に、御伽噺や子守唄を聞かせた頃のように、優しく囁いた。
「ちょっと疲れたわ。ごめんなさい、少しお休みするわ」
「うん、後でおかゆ作ってくるね」
「僕は黒鬼虎の皮を剥いでくるよ。父さんのやつと並べたいから」
それから4日後の、大雨の昼だった。
「ああ、みんなそこにいたんだ」
不意に、芽衣子は安心したような安らかな微笑みを浮かべて言った。
「一緒に、丸山高原のソフトクリーム、食べたかったな……」
こうして、伊田家邸宅の異世界転移に巻き込まれた一行は、その全員が地上から姿を消したのだった。
大雨の中、泥だらけで声を上げて泣きじゃくるヤマトがいた。
母の亡骸の傍で、顔を伏せて泣き喚くアスカがいた。
家を取り囲むように、たくさんの銀狼が遠吠えを上げていた。
猫たちも、その死を悼むように亡骸に寄り添って鳴いていた。
銀色のネコが二匹、親子だろうか、伊田家の屋根の頂点で、雨に濡れることも厭わずに空を見上げていた。
フィフジャは、何も出来なかった。
ただただ悲しくて、だけどこの家族たちの中に踏み込めるだけの理解もなくて、一人で泣いていた。
芽衣子の死を悲しむ声は、そのまま翌朝まで止むことがなかった。
※ ※ ※




