森の長の住処
目を覚ます。
夢を見ていたような感覚と、幾夜もの時が一瞬で過ぎたような感覚にとらわれ、覚めたはずの目が廻る。
「う、ん……と……ここ、は?」
見知らぬ天井。
彼の記憶にはない建物。粗末ではないが、豪奢でもない。ちゃんとした屋根の下だ。
白い壁と、獣の臭い。
獣――
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
頭のすぐ上に黒鬼虎が迫っていて、慌てて転がってその襲撃を避ける。
『クゥンンッ』
何かにぶつかり、それが迷惑そうな鳴き声を上げた。
黒鬼虎のものにしては細い声だ。
「……?」
自分が寝ていた場所に、あの豪腕から繰り出される一撃が――襲ってこない。
改めてその姿を見る。
壁に立ちふさがるような巨体。間違いなく黒鬼虎の成体だ。
「……皮、だけ?」
毛皮を剥いで、壁に飾ってあるだけだった。
なんて人騒がせな、と一人で騒いでおいて勝手なことを思う。
「って、これを狩ったのか? ええと、あの子供……か」
混乱していた記憶が戻ってくる。
フィフジャ・テイトー。22歳。
仕事でズァムナ大森林に探索に入り、不測の事態により隊が壊滅。遭難して数十日間森をさまよっていたはずだった。
逃げ回り、眠り、また彷徨う。
森で見つけた食べられるかどうかもわからない物を口にして、腹を下したりしていたが、何とかここまで生きている。
そして、最後の記憶は――
「黒鬼虎に襲われて、女の子と、狼……ってあれ幻じゃなく銀狼だったのか? 人間と一緒に?」
フィフジャの知っている常識では考えられないことだった。
銀狼は、人間になつくことのない魔獣と言われている。主にこのズァムナ大森林と、北西のユエフェン大陸の北方テムの深い森と呼ばれる森林地帯に生息する。
進んで人間や家畜を襲うわけではないが、縄張りに侵入したものには容赦はしない。
過去にその子供をさらって飼いならそうとした者もいたそうだが、結局慣れることはなく失敗に終わったと聞く。
それが、子供と一緒に黒鬼虎と戦っていたというのは、簡単に信じられることではない。
『ウォンッ』
「っどわぁぁっ!?」
不意打ちに声を掛けられて、また腰砕けに転んで後ずさる。
長く眠っていたせいなのか、バランス感覚がおかしくなっていたこともある。
人間になつかないと言われる銀狼に、自分のすぐ後ろから吠えられては恐怖も感じる。
尻餅をついて、手足をばたばたしながら後ろに下がると、黒鬼虎の皮が吊るされた壁にぶつかった。
「う、おぁ……」
『クウ?』
怯えるフィフジャを、不思議そうに首をかしげて見守る銀狼。
その茶色の瞳に敵意は感じられない。大丈夫? と心配しているようだ。
起き掛けに転がった際にぶつかったのもこの銀狼だ。怒っていないのだろうか。
「OKITANO?」
「わっ!」
がらっと扉が……ガラスのはまった金属の扉が開けられて、声を掛けられた。
(って、ガラス? こんなに透明度の高いガラスの、引き違いの戸? ってどんな金持ちなんだ)
改めてその場所の特異性に気がつかされて、声を掛けてきた存在のことを一瞬忘れてしまう。
「……DAIJOUBU?」
目の前でぱたぱたと手を振られ、はっと気がつく。
「あ、あっ、あのときの、女の子……」
「……」
困ったような顔をする少女。年のころは、10歳は過ぎているだろう。
フィフジャの胸くらいの背丈で、黒髪を後ろで束ねた、深いブラウンの瞳の少女。
非常に整った顔立ちで、気品があるとは言わないが、どこか大人びた知的な印象を受ける。
そこらの学のない村娘という雰囲気ではない。衣服も、かなり変わっているが、ぼろきれなどではなくきちんと縫製されたものだ。
服の色も赤く染められていて、不思議な記号が編みこまれている。貧乏人に購入できるような服ではない。
一般庶民が着るような服は、縫製が荒く、染色などされていない白から茶色のくすんだ色の布地のものだ。柄入りなど有り得ない。
「WAKANNAIYA」
少女の言葉が、フィフジャには理解できない。全く知らない言語だ。
おそらく少女にとってもそうなのだろう。意思疎通が困難で困惑する。
(大森林の奥地で、こんな高い技術で作られた家に住んでる人たちがいるなんて……)
人類未踏の地のはずだったのに、どういうことなのだろう。
遥か神話の、超魔導文明の生き残りの集落だったりするのだろうか。そんな夢物語が実在するのか。
「ええっと、あの……助けられたんだよな、多分。これは、君たちが?」
とりあえず身振りで、黒鬼虎の毛皮を指差してから、その女の子を指し示して、首を横に傾ける。
「SOREWA WATASHIJANAIYO」
身振り手振りでわかったのか、首を横に振る。
どうやら肯定、否定の示し方は同じのようだったとフィフジャは安心する。
「ああ、そうだよね。いくらなんでも子供がこんなの仕留められるはずがないか」
フィフジャが気を失った後に、集落の戦士か誰かが来て仕留めてくれたのだろう。
だが命を助けられたことには変わらない。
「何にしても、ありがとう。本当にありがとう」
深く頭を下げる。
少女はにっこり笑って頷いた。
そして、先ほどフィフジャの様子を窺っていた銀狼を手招きして、ぽんぽんと頭を撫でる。
「ああ、そうか。お前が俺を見つけてくれて、助けてくれたんだな。ありがとう」
最初に救援に来てくれたのはこの銀狼だったのだ。
命の恩人――恩狼になる。
「GUREI」
「……グ、レイ?」
頷く少女は、銀狼を撫でてもう一度、同じ言葉を発する。
「そうか、グレイっていうのか。ありがとう、グレイ」
しゃがみこんで、銀狼に礼を言う。
言葉は通じないかもしれないが、気持ちは通じるだろう。
銀狼は軽く喉を鳴らしてフィフジャに応えた。
「UN……DEMO CHYOTTO KUSAINAA」
フィフジャには少女の言葉がわからない。
だが、指を指されてから、少女が鼻をつまんで手を顔の前で振れば、いくらなんでもわかる。
臭い。
それはそうだろう。何十日も森を彷徨っていたのだ。
途中、ちょっとお漏らしもしたままだったし。ちょっとだけだけど。
「KONOMAMA NAKANIIRERUNOWA IYADAKARA」
開いた手の平を突き出される。そのまま静止。待て、というのか。
フィフジャは自分の足元を指差し、
「ここに、いればいいの?」
「SOU」
頷いて、少女はぱたぱたとどこかへ走り去る。
グレイがその後を追いかけようとして、何事か言われて戻ってくる。見張っていろ、とでも言われたのだろう。
しかし最後の言葉はだいたいわかった。
「たぶん、肯定って意味なんだよな。きっと」
今は状況がわからない。
少なくともこの集落には黒鬼虎を倒せるだけの戦力があって、フィフジャは土地勘も体力も何もない状況だ。
言われる通りに従った方がいいだろう。決して害意がある様子でもない。
(まあ害意があるんだったら、わざわざ保護してくれるわけもないよな)
行き倒れの見知らぬ男を助ける理由などない。ただの善意だとか、珍しさだとかそういうことのはずだ。
改めてフィフジャは周囲を見回す。
基本は木製の建物だが、所々に見える柱や梁が綺麗な断面に整えられている。
丸太を適当に削って組み立てた建物ではない。また、壁面は真っ直ぐに塗られていたりして、庶民の建物とは思えない。
大きさはそれほどでもないが、床もまた丁寧に真っ直ぐに固められている。
(石作り……? こんなでかい石を真っ直ぐに削って? いや、粘土みたいなものを塗って、こんなに綺麗に仕上がるのか?)
やはり庶民の住むような建物ではない。この森の主か何かなのだろうか。
銀狼を従える部族の長の家。だとすれば納得できるかもしれない。
飾られた黒鬼虎の毛皮は、よく見たら新しいものではなさそうだった。
右前腕には千切れかけたところがあり、左耳には何か古傷のようなものもある。生きている時に既に古傷だった感じの傷跡だ。
先代の長とかが倒した黒鬼虎の毛皮だったりするのだろうか。
この毛皮は魔よけというか、害獣避けになる。
魔獣の中でもかなり上位の強者であるこの黒鬼虎の毛皮は、他の獣を追い払ってくれるのだ。
だから長の家に飾られているという話であれば至極自然なことだ。いろいろと不自然なことも多いが、少しは納得できる。
鉄板も貫く硬度を持つ鋭い角は、槍の穂先としては最高級品だ。この毛皮丸ごとでかなりの金銭になる。
そんなことを考えていると、少女が大きな桶を抱えて戻ってきた。
「UN、SYOTTO」
掛け声と共に、片足で半開きだった戸を横にスライドさせる。
超高級品の、庶民が数年は暮らせるかもしれないくらいの名品のガラス戸を、惜しげもなく足で押しのけて桶を持って中に入ってきた。
「お湯……?」
置かれた桶には、かなりの量のお湯が入っていた。
少女は布の手ぬぐいを、ずいっとフィフジャに差し出す。多少使い古されているが、その手ぬぐいも普通なら一部の特権階級が使いそうな良質の布地だ。
やはり色々とおかしい。
こんなに素早く、これだけの湯を用意するのは簡単ではないはずだ。魔術士だとしても。
それに、この量の水桶を軽々と運んでくる少女というのも普通ではない。肉体強化をしたとしても。
なんなのだろうか。
「まあ、考えても仕方ないか。恩に着る」
春も中ごろではあるが、水浴びとなれば体温が奪われる。暖かい湯で体を拭けといってくれるのはとてもありがたいことだ。
フィフジャが受け取って、湯で体を拭き始めると、少女はまたどこかへ去っていった。
裸になるのだからと気遣ってくれたのだろう。
というのは間違いだった。フィフジャが全裸で、股間に残っていた排泄の残滓を拭こうとしていたところに戻ってきた。
「わぁっ!?」
「……」
少女はなんとも言えない顔をして、手にしていた衣類を足元に置いてから、手を振って去っていった。
「……最悪なタイミングだ」
人心地ついたはずが、今度は精神的に大きなダメージを受けてしまった。
可愛い少女に、尻の割れ目を一生懸命洗っているところを目撃されるというのは、さすがに経験のない痛みだ。きつい。
経験があるような人はそうはいないだろう。たぶん。
普通の人間なら耐えられないかもしれない。
(って、俺は普通だよ。異常なわけじゃない)
言い訳がましいことを思いながら、少女が用意してくれた着替えを手にする。フィフジャの着ていたものはボロボロだし、汚いし、臭い。
脱いでしまえば、フィフジャだってちょっと触るのがイヤなくらい不衛生だ。
こんなものを着ていた見知らぬ男を助けてくれるなんて、あの少女はもしかしたら神様ってやつなのかもしれないとフィフジャは思った。
「俺なら、見捨てるだろうな」
客観的に思い返してみて、素直にそう思った。不審で不衛生な浮浪者。進んで助けるものではない。
用意された衣類は、やはりこれも見たことのないものだったが上質なものであるようだった。だいぶ着古されたもののようではあったが、悪くはない。
紺色のパンツに、白い肌着。それに灰色のズボンと上着のセットだ。
ところどころ、破れたりしたところを当て布で繕ってある。
動きやすい服だった。
「これも、安物って感じじゃない。布の縫い目がものすごく細かい」
どんな手間隙をかけたらこんなに極めの細かい布を作れるのだろうか。やはり超魔導文明の遺産なのかもしれない。
服を着て外に出ると、もう溜め息をつくしかなかった。
「……これ、納屋だったのか」
立派な長の家だと思ったのは、この家の納屋だった。
庭には何か見知らぬ白い花が咲き、本宅には太陽に面して大きな透明のガラスの窓がつけられている。透明すぎてガラスが張ってあるのがわかりにくいくらいだ。
建物の建築様式は、フィフジャは専門ではないが、今までの人生で一度も見たこともない姿だ。
「SAIZU YOKATTA?」
「ありがとう、これ」
自分の胸元を軽く叩き、礼をする。
少女の言葉はわからないが、この服を貸してくれたことには感謝を示す。
「AA HADASHI……」
少女がとがめるような目で見て、軽く溜め息をついた。
何か失敗をしたのだろうか。
「A YAMATOO!」
不安になったフィフジャを尻目に、少女が突然大きな声を出して手を振った。森に向かって。
フィフジャがそちらに目を向けると、黒鬼虎が敷地に登ってくるところだった。
それは、フィフジャを襲ったあの黒鬼虎だった。
「……」
フィフジャは言葉を失った。
巨大な黒鬼虎が、やや下方の森の大地から上ってくる。
だが、ぐったりとしている。
というか、息をしている様子がない。
「死体……?」
それは、フィフジャを襲ったあの黒鬼虎だった。
巨大なそれを、何かに乗せて坂道の下から登ってくるのだ。誰かが。
黒鬼虎の後ろ、坂道の下側なので死角になって見えなかったその存在が、敷地の庭まで上がってきて確認できる。
少年。
手押し車――これもちょっと見たことのないようなものだが、それに黒鬼虎を乗せて運んできたのだ。
黒鬼虎が大きすぎて、頭側を荷車に乗せて、足側を自分の頭に乗せて、手押し車を押して進んできた。だから黒鬼虎が登ってきたように見えたのだった。
獲物を下ろして、ふうと息をつく少年。
背丈はフィフジャの顎くらいだから、おそらく少女の兄か年上の親戚なのだろう。
少女と似ていて端正な顔立ちに、黒髪は適当に短く切りそろえられている。少女もそうだが、若干目つきが鋭い。
(いや、ふうじゃないよ。どんだけの重量を一人で運んでんだ、この子)
やはり色々とおかしい。
一息ついた少年に、少女はなにやら労いの言葉をかけてからフィフジャを指差す。
少年は運ぶのに集中していたのか、そこで初めてフィフジャに気がついたのか、何やら喜色満面の笑みで駆け寄ってくる。
「OJISAN YOKATTA!」
元気な声で、満面の笑顔を向けられて、フィフジャはやはり困惑する。
なぜ彼らは見ず知らずの自分を、こんなに歓迎してくれるのだろうか。
戦力だというのなら、この黒鬼虎を倒せるだけの武力があるこの集落なら、行き倒れの自分など何の意味もないだろうに。
本当に神様の一族だったりするのだろうか。
神様が善行をするなんて、フィフジャは想像したこともないのだが。
だが、年若い少年少女に助けられた挙句にこのような歓待を受けて、悪意などおきるはずもない。
「ああ、ありがとう」
もう一度頭を下げて、礼をする。たぶん、彼もフィフジャを助けてくれた一員なのだろう。
「BOKUTACHIMO KOREDE TOUSANNI CHIKAZUKETAKARA」
何を言っているのかはわからない。
少女はフィフジャに向かって、少年と自分を指差して、黒鬼虎の死体に向かって突き刺すような動作を見せる。
――二人で、この黒鬼虎を、やっつけた。
「……はあ?」
やはりどうにもおかしいことが多すぎて、フィフジャは考えるのをやめた。
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