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幸せな日々

 日呼壱と芽衣子が結婚して、離れの部屋で暮らすようになった。


 目まぐるしい日々が二人を、そして家族を巻き込んでいく。

 最初の大事件は、翌年の秋の出産だった。

 病院も専門医もない状態で、経験者といえば美登里のみ。

 大きくなるお腹とともに、さすがの芽衣子の不安も大きくなっていった。

 なぜか伊田家には、妊娠出産に関する本が数多くあるのだった。



「今だから言うんだけどね。日呼壱には、あなたより少し上の妹がいたかもしれなかったのよ」

 出産関連の書籍を読みながら、美登里はふと芽衣子に言った。

「え、と?」

「その時は流れちゃって、ね。でもどうしても女の子がほしくて、こういう妊娠とか、次は失敗しないようにってたくさんの本を買って……まだ都会にいる時にね」


 何度も読み返した形跡があるその本は、美登里のものだった。

 だから美登里は、今更読み返すまでもなくほとんどの内容が頭に入っている。

 妊娠したら、時期によってどうしたらいいのか、何を避けた方がいいのか。

 もし医師のいないところで産気づいたらどうすべきか。

 大昔の出産はどうだったのか、なんてことも、本編ではないが余談として書かれているものも多い。

「知識だけだったら、私ちょっとした助産婦さんよ」

「うん」


「あんまりにね。自分を追い詰めちゃってたんだと思う。あの頃は」

 本を閉じて、当時を思い出すように呟く美登里の言葉を芽衣子は聞き入った。

「お父さんが、都会暮らしをやめて田舎に行こうかって言った時に、急になんだか、開放感っていうか……なにかしらね、必死になってた自分をバカみたいに思って」


「そんなことないよ」

 自嘲気味に言う美登里に芽衣子が首を振る。

 子供がほしくて真剣だった美登里の努力がバカみたいだなんてことはない。絶対に。

「ええ、そうね。でも本当に、私のこういうことを知らない土地でゼロからやっていくのなら、悪くないかなって思ったのよ」



 おそらく健一は見ているのが辛かったのだ。

 お腹の子供を失い、どうにか取り戻したいと躍起になっていた様子の美登里を、見ていられなかったのだろう。

 どうにもしてやれないことで、せめて何か意識を変えられないかということでの帰郷。


「あんなお父さんだけど、あのまま本社にいたら、定年までには本社の部長くらいにはなっていたかもしれないのよ」

「うーん、それはよくわかんないけど、すごいの?」

 日本で社会人としての生活を経験していない芽衣子には、美登里が自慢げに言ったことが理解できない。

 仕方ない、と美登里は苦笑した。


「そうね。今のグループの地域の子会社なら社長……副社長くらいかしら」

「すごいじゃん、見直しちゃった」

 例えが社長とか副社長なら、わからないなりに凄いと思うものなのだ。

 まあ、それもたらればの話だが。


「まあ、色々とあったけど、結果的にはこうして可愛い娘も出来て、孫も生まれるっていうんだから。これもいい人生だと思っているのよ」

 この本も役に立つし、と笑う美登里。



 捨てられなかった。

 諦められなかった想いがあって、引っ越してくる時にも捨てられなかった。

 これを捨てたら、自分が望んだ命を、諦めてしまうような気がして。

 数奇な運命の巡り合わせで、芽衣子の出産の助けになることが出来る。


「清潔な布とか、他の道具も熱湯で消毒しておいたりとかして、今出来る万全の状態でやるから。だから芽衣子ちゃんも信じて頑張ってね」

「うん、お母さん。ありがとう」




 難産ではなかった。

 という形に分類されるのが信じられないと日呼壱は思った。

 12時間だ。

 産まれそう、と言って脂汗を流し始めたのが夜半のこと。

 慌てて、というほど慌てたわけではない。もうじきだと思って準備を進めてきていたわけだが、とにかく暗い。


 美登里と健一を起こして、母屋の一室で布団に出来る限り清潔にしたタオルを何枚も敷いておいて、あと腰に挟むクッションなども用意したりして、その芽衣子の様子を見守った。

 健一はずっと湯を沸かし続けて、時折様子はどうだと聞いたりしていた。

 さすがに犬猫たちはシャットアウトだ。愛すべき家族ではあるが、決して清潔だとは言えない。


 日呼壱は、どうすればいいのかわからずに、芽衣子の手を握って大丈夫だ大丈夫だと囁き続けて、逆に芽衣子が苦笑して大丈夫だから安心してと気遣われていた。

 情けない。

 陣痛には波があるということで、強くなったり治まったりを繰り返しながら出産へと近づいていく。

 赤ちゃんの頭が見えたと美登里が言った後は、もう日呼壱は何がなんだかわからない状況だった。



 結局、生まれたのは昼になった頃。

 夜半から昼間でのおよそ12時間。初産では、これは平均的なことらしい。

 臍の緒を鋏で切って(無論熱湯消毒済み)、祖母の箪笥から出てきた白い布で赤ん坊を包み、美登里が抱き上げる。


「元気な男の子ね」

 ふぎゃあふぎゃあと声を上げる赤子の顔を向けられると、疲れきってぐったりとした芽衣子が嬉しそうに頷いた。

「あり、ありがとう、芽衣子……頑張った、すごい、がんばった」

「ん、ふふ……日呼壱の方がへとへとじゃん」

 ぼろぼろと泣きながら芽衣子を労う日呼壱に、改めて芽衣子が苦笑する。


 自然分娩の場合、色々な要素はあるが、骨盤から赤ちゃんを押し出す筋力が弱いと難しいことがあるという。

 そういった点では、芽衣子の筋力、体力は決して弱い方ではない。現在の日本の同世代の中ならトップクラスではないだろうかと言える。

 日々、森を走り回って獲物を狩るような女子は、そう何人もいないだろうから。


 体力があるからと言っても、さすがに12時間の戦いを終えては体力の限界の様子だった。

 そのまま2時間ほど眠ってしまい、気がついたらすぐ起き上がったのだが、ちょっと失敗だった。

 胎盤とか繋がった臍の緒などが、ずるずるっと出てしまい――まあその話は置いてよいだろう。



 それから授乳や、誰が抱っこするだとかで揉めたりだとか、一般的などこにでもあるような光景が繰り広げられたのだった。

 そんな話はまたの機会に。




大和(やまと)

 ヤマトと名付けられた。

 この世界のどこかで、この子が他の人間と接触することがあった時、それがもし何か地球に縁のある相手だったら、日本の名前だと気づいてくれるかもしれない。


 正確な暦はわからないが、誕生日は10月10日ということにした。体育が得意であってほしい。

 この森の日時計で確認する限りの夏至――最も昼間の長さが長い日から数えて110日ほど経っているので、およそ合っているだろう。

 一年は363日だった。夏至から夏至、冬至から冬至を数えて確認をしている。


「異世界に来ちゃった子供の名前なら、ヤマトはありだと思うんだよね」

 とは芽衣子の談だ。

 カッコいい名前だったし、おそらくこの世界で他にこの名を持つものはいないのではないかと日呼壱も賛成だった。


 ヤマトは、家族の願い通り、健やかに逞しく育っていくのだった。



  ※   ※   ※ 



 ヤマトが生まれてから、日呼壱は探索範囲を広げるようになった。

 健一と美登里は家のことを。

 芽衣子もそれを手伝いながら、一緒にヤマトの世話を。

 日呼壱は、さくらとウォルフを連れて、なぜか一緒についてくるようになった銀猫の二代目、シャルル・ドゥゼムと共に探索に出ることが多くなった。


 猫車に荷物を載せて、帰りには採った果物や狩った獲物を持って森を歩き回りながら、家から離れた場所の地図を作っていく。

 なぜそんなことをするのか。

 ヤマトに、外の世界を見せてやりたいと思うからだ。ここで生まれた子供にとって、世界はあまりに狭すぎる。

 だが、最長で2週間の遠征をしてみても、森から出ることは出来なかった。この森はあまりに広すぎた。



 シャルル・ドゥゼムは非常に直感が鋭いらしく、危険な気配がある方向に行こうとする一行を引き止めることがある。

 一度、それを無視して進んで、でかいダチョウの繁殖地に出くわしたことがあり、命からがら逃げ延びたものだった。

 黒い虎――黒鬼虎と名付けたあれには、一度も出くわしていない。


 日呼壱の装備も、色々と工夫をして作成してみた。

 使い道のない車のボンネットを切り取って、胴体を守る前掛けにしてみたり。

 ――日呼壱たちの技術では、カッコいいプレートアーマーなど作れず、鉄の前掛けという程度だ。


 ヘルメットは必ず着用。LED懐中電灯をそれに固定して、両手を自由にしたまま照らせるようにもしている。

 両手、両足には獣の皮で作った厚手の小手やすね当てを巻いて、軍手は必ず着用するようにしている。

 白い石槍と、鉈を主装備に。石で作った手斧はいくらか投げつけられるように準備もしている。

 体力がだいぶついたことと、森での探索に慣れたことで、今の日呼壱は石猿の群れ程度なら一人でも蹴散らせる程度の戦闘力を身に付けていた。

 さくらたちの助力があれば、ほぼ危険がないレベルだ。



 吸血ムササビは、飛び立つ際に特徴的な音を出すことがわかったのと、内側からの刺突にひどく弱いこともわかった。

 顔に巻きつかれる際に、内側にナイフや鋭い爪などを挟んでしまうと、割とあっさりと切り裂いて抜け出すことが出来る。

 牙で噛み付かれる前にその体を裂いてしまえばいいのだ。


 巻きついてから噛み付くまでに、およそ3秒ほどのタイムラグがある。というか、即座に噛み付くと誤って自分の皮膜を貫いてしまうようだ。

 どうしてこんな構造の生き物になったのか疑問もあるが、そういえば地球にもどうしてこうなったのか意味不明な生き物もいた。

 生き物というのは兎角そういう合理性と非合理性があったりなかったりするものなのだと納得することにする。




 森の狼たちは、やはり日呼壱たちに敵対的な姿勢ではなかった。

 川に沿って北に進み続けた時に、日呼壱は遠くの山に鮮やかな鳥の姿を見つけた。

 白い頭に黄色の嘴と尾羽。胴体は赤というか朱色の、遠めにも大きな猛禽だった。鷹のような鳥に見えたが、遠すぎてはっきりと確認できない。

 三色鷹、と勝手に命名してみたりしたが、それ以上の接触はなかった。

 以前、夜中に突風を巻き起こしたのはこの鷹なのではないだろうか。

 そんなことも考えたが答えが出るものでもない。


 鷹のほうは日呼壱たちを見ていたが、近づいてくるわけでもなく、しばらくすると飛び去った。

 大きさはデビルコンドルの倍ほどもあるようだったので、羽を広げたら8メートルということになる。巨大すぎる猛禽だ。

 黒鬼虎が地上の王者なのであれば、空の王者が三色鷹なのだろう。


 日呼壱はそんな風に、見てきたことを家族に伝えるのだった。



  ※   ※   ※ 



 ――俺はこの世界で一番の幸せものだよ。

 ――それは私だから、日呼ちゃんは二番目でした。


 ――日呼壱、見てろ。ほら。

 ――おおっ! 何今の? 一瞬で体がブレたみたい。

 ――足の指で田んぼの泥の中動くだろう。あれの応用で、足の指を弾いて瞬間移動だ。

 ――でも30センチくらいしか動いてないから、役には立ちそうにないけど。

 ――もっと鍛えよう。


 ――冷蔵庫が壊れそうだ。納屋に使っていない冷凍庫あったよな。使えるだろう。


 ――譲ってもらっておいて何だけど、お義母さんの指輪にMIDORIって、おかしくない?

 ――あの人、自分の持ち物に自分の名前を書くもんだと思っていたらしくてね。おかしいでしょう。


 ――このゴムっぽい樹脂を使えば。

 ――日呼ちゃんがそうしたいって言うなら、いいけど……もう、変態。ばか、


 ――南側は予測がつかないことが多い。生態系の分布が違うみたいに思う。

 ――日呼壱、無理をしなくていい。お前に何かあったら芽衣子ちゃんもヤマトも……


 ――また芽衣子があんなに苦しそうにするのを見るのは怖いんだ。

 ――だけど、すごく嬉しかったじゃない。


 ――中指の爪が、灰色に変色してきている。お前もそうか?


 ――芽衣子が俺を好いてくれるのが、本当に嬉しいんだ。夢じゃないかって思う。


 ――日呼ちゃんに悪い虫とかついてたかもしれないじゃん。私が大人になる前に。そう思えばラッキーだったのかもって。

 ――私としては、芽衣子ちゃんに悪い虫がつかなくてラッキーだったと思うのよね。


 ――ヨーグルト作ってみたけど、味がしないね。固まりすぎる感じだし。

 ――そうねぇ。ジャムとかシロップを入れたら美味しいかしら。

 ――固める前のミルクの段階で混ぜておいたら、牛乳を混ぜるだけのあの究極のデザートみたいなのができるかも。


 ――弾がないから、これももう使えないな。

 ――床の間に飾っておこうよ。爺ちゃんの形見だし。


 ――冷蔵庫は詰まってたほこりでショートしていたようだ。これなら俺でも直せるかもしれん。

 ――マジで? 父さんすげぇや。


 ――もしも、このままだったら、ヤマトが独りでこの森に残されちゃうかもしれないって……


 ――光るふわふわ追いかけてたらびゅーって風が吹いて道がわかんなくなっちゃったんだけど、シロがにゃあって鳴いて教えてくれたの。

 ――もう勝手にどこかに行ったらダメよ。お婆ちゃんすごく心配したんだから。


 ――この子の名前は、アスカでどうかな? 明日香って書いて、芽衣子のお母さんの由香利さんから一文字もらったら……


 ――ヤマト、桃が3個入った袋が三つあったら。全部でいくつ?

 ――ええっと、

 ――指を使うのは禁止。


 ――さくら。今まで本当にありがとう。マクラの隣で、ゆっくりと眠ってくれ。


 ――俺の髭剃り、もう直接コンセント繋いでも動かないか。

 ――こっちを使え。父さんはこれから髭はハサミで切るようにする。芽衣子ちゃんはお前の髭面は好かないだろうからな。

 ――どんなになっても芽衣子は俺のこと好き好きだよ、たぶん。でもまあありがとう。


 ――シャルル、帰ってこないね。

 ――あいつはカッコつけるから、死に様も見せたくなかったんだろう。


 ――カメラ、まだ動いてよかった。プリンターはこれでインクなくなっちゃったね。


 ――部長、明日も仕事は休みます。家族と過ごすので。

 ――大丈夫、ゆっくり休んでいいの。ありがとう、健一さん。


 ――わたの服だとね、いつもよりびりびりーってするの。見えるよ。


 ――アスカったら、四歳なのにもう九九を覚えちゃったのよ。誰に似たのかしら。


 ――北の川のずっと先にさ、トマトが群生してたんだよ。昔植えたのが川に流れたのか、勝手に繁殖してるみたいだ。小さな桜の木もあったよ。

 

 ――ヤマトが石猿をやっつけたって? まだ七歳なのに、すごいな。

 ――調子に乗らないように日呼ちゃんもちゃんと言ってよ。


 ――ハーモニカの吹き方なんて俺も知らないのに。

 ――他に遊びがないから、勝手に覚えたみたいね。結構上手よ。曲は適当みたいだけど。


 ――ああやって私も葡萄酒踏んで作ってたっけ。

 ――あれは父さんが喜んでたな。

 ――自分は喜んでなかったみたいな言い方じゃない。ちゃんと知ってるんだから。


 ――お父さん、怖いよ……

 ――ヤマト、アスカを頼む。もう二度と、この化け物に俺の家族を傷つけさせない。こいっ!


 ――お母さん、お婆ちゃん! お父さんが……


 ――無茶、しないでよ。馬鹿。

 ――俺だって怖かったよ。いたた、そっち折れてるから。


 ――無いものを願うより、あるものを喜びなさいって。ここでの暮らしは、本当に贅沢すぎるくらい幸せだったのよ。毎日、孫と一緒に遊びながら暮らせるんだから。


 ――お父さん、地面が丸くて、ものすごぉく早く回っていたら、アスカ目が回っちゃうと思うの。

 ――それは慣性っていって、ね。アスカにはまだ難しいかもしれないけど……


 ――もしお前たちが日本に帰れたら、ちゃんと言うんだよ。覚えているか?

 ――毎日言ってたから覚えてるよ。わかってるって。


 ――アスカがね、ヤマトのベッドの下からこんな本を持ってきたんだけど、日呼ちゃん何か知ってるかな?

 ――記憶にアリマセン。

 ――今素直に話すなら怒らないであげるけど。本当に知らない?


 ――ヤマトは、もう一人でも狩りが出来るくらいだ。安心した。俺がここに来た頃に比べたら、とんでもなく凄い強さだ。

 ――私は、無理だよ……日呼ちゃん。私は無理だよ。


 ――母さんと、アスカのこと。頼んだぞ。

 ――うん。でも、もっと教わりたいことがいっぱい……あの黒いのが、また出たら……


 ――もしやり直しが出来るとしても、また芽衣子と結婚したい。何度でも、何万回でも。

 ――うん……うん、私もだよ。日呼ちゃん、私も日呼ちゃんのお嫁さんがいい。


 ――日本ではもう、ひとつなぎの財宝は見つかったのかな。

 ――どうかな? まだ探しているのかもね。

 ――ああ……俺のは、ここにあったよ。



  ※   ※   ※ 


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