苦い記憶とワンピース
狼や猫が子供を産むには、父親と母親が必要なのだということくらい芽衣子だって知っている。
健一や日呼壱は、芽衣子がそんな性的なことを知らないという風に接することが、芽衣子には少しおかしかった。
現実に成長することで、女性としての体の仕組みになってきて、その為に下腹にT字帯を巻いている時期もある。無論、そういう洗い物については日呼壱たちの目に触れないようにやっているのだが。
「――って、日呼ちゃん赤くなっちゃっててさ。もう、別に気にしなくたっていいのに」
「あの子は変なところが真面目だから……あったわ、この辺ね」
異転前に立て直された納屋の二階は物置になっている。
まずこの納屋を建て直して、そこに母屋にあった荷物で捨てないもの――捨てない、まだ使えると判断された物が多かったが――をこの物置に放り込んで、母屋の改修をした。
その際、日呼壱だけでなく他の古着なども詰め込まれていて、美登里の古着もそれなりにあった。
「もう若くないから着ないかと思っていたんだけど、芽衣子ちゃんが着てくれるなら捨てないでいてよかったわ」
「これ可愛い。あー、でもちょっと動きにくいかな?」
美登里が並べていく衣類を楽しそうに手にとってみて、しかし森で実用的かどうかと考えてしまう。
そんな芽衣子に苦笑を浮かべて、
「たまには家で着てみたらいいんじゃないの。日呼壱なんてすぐに真っ赤になっちゃうわよ」
「えーそうかなぁ」
「ほら、この下着とか。古着で申し訳ないけど、実際に着たの二度くらいだから」
「わぁぁ、おばさんすごぉい」
決して機能性が優れているとは言えない薄いランジェリーを手にとってきゃいきゃいと笑う。
「お下がりでいやじゃない?」
「別に平気。っていうか、平気じゃなかったらノーパンになっちゃうし。それはさすがに女の子的にイヤなわけで」
「そう言ってくれると助かる。ああ、こっちはあまりにデザインがダメ過ぎて穿かなかったやつだわ」
「3枚色違いセット? 何で買ったの?」
「通販で、もう少し買えば送料無料だったから。だったと思う」
なるほど納得、と未開封の袋に入ったブラとパンツのセットを見てみる。
今の芽衣子にはまだ少し大きいような気もするが、これから使うのに支障はないだろう。
デザインは確かに布地が大きすぎて中高年向けだが、他の誰かに見せるわけでもない。学校の体育で着替えるわけでもない。
「そういえば日呼壱の中学校の体操着とジャージのほとんど新品があるはずね。あの子、クラスで一番小さかったのに急に大きくなるんだもの」
納屋の中は宝探しのようだった。
新品同様の体育館シューズなどもあった。これも運動靴として使える。森での探索で靴の傷みは顕著だ。
もらいものや何かのおまけのタオルやら何やらと、使わずに放り込んであったものも多い。
食器や鍋などの調理器具も、結婚式の引き出物やらの箱に入ったままの新品が見つかる。
「あっちの方は?」
先ほどから美登里が手をつけようとしない方の一角を指すと、美登里は軽く首を振った。
「あっちはお爺さんのものがほとんどね。亡くなったお婆さんのとか。ああ、黒板なんてなんであるのかしら」
古い箪笥などがいくらか並んでいる。源次郎とその妻住ヱの物が詰まっている。
その箪笥の向こうに、あまり大きくはないがキャスター付きの黒板があった。学校で不要になった備品でももらってきたのだろうか。
源次郎は、自分が死んだら捨てていいと言って、改修工事の時には捨てなかった。
こうなってみると、捨てないでおいてよかったと改めて思うが。
「着物とかもあるわよ。お婆さん、学校の行事とかで着物を着ていくことがあったから」
「着てたら走れないと思うんだよね、着物って」
可愛いとか綺麗とかの前に、この森で生きていくための運動性を優先する芽衣子。
不憫だと思うこともあるが、たくましいとも思う。
「芽衣子ちゃんは本当にいい子ね。頼もしいわ」
「えぇ、そうかなぁ」
「日呼壱をよろしくね。あの子、たまに抜けてるから」
「森では頼りになるんだよ。ほんとに」
視野が広く、冷静な判断が出来る日呼壱がいるから、芽衣子が割りと思い切った行動が取れる。
お互いに補い合ってうまく歯車が回るのが楽しい。うまくいってるときのチームスポーツのような感覚だ。
たまに失敗もあるが、致命的な失敗はこれまでしていない。失敗を活かして次に繋げている。
「みんなさ」
不意に、ぽつりと。
「私がここで不便な生活していてかわいそうって顔するじゃない」
「そうね」
「そんなことないんだよ」
納屋の中を漁りながら、美登里と顔を合わせないようにしながら芽衣子は言った。
「本当はね、たぶん一番日本に帰りたくないって思っているのが私だったんだから」
「……どうして?」
芽衣子がそんなことを言い出すのは初めてのことだった。
顔を合わせずに言うのは、本心だからなのだろう。面と向かったら言いづらい本当の気持ち。
「私……クラスで、ちょっと居づらいっていうか……仲間外れになってたから」
「…………」
「最初はね、5年生の終わりごろに、クラスの男子に好きだって言われたんだけど。私はそうでもなかったから興味がなくて」
「ええ」
「そしたらその話がクラス中みんなに伝わっていてさ。その男の子のことを好きだった女子から、いじめ? みたいな嫌がらせされて」
やや早口になるのは、つらい記憶だから。
「芽衣子ちゃんは何も悪くないのにね」
美登里の心が痛む。
今だから、三年も過ぎた今だから、何でもないように話しているが、当時の少女の心情はひどく追い詰められたものだろうと。
「うちの学校ってさ、5年と6年だとクラス替えしないから、それが続いてて。ママは、連也のことで苛々してることも多かったし……」
「芽衣子ちゃん」
「だからね。こうしてここに来た時も、帰れないって時も。パパが……帰る方法を探すって言った時も、私は……このまま帰れなくてもいいって、そう思っていたから……だからパパが……」
「芽衣子ちゃん!」
途中からは涙声だった。
叱りつけるように名前を呼んだ美登里の目からも涙が溢れていた。
顔を上げて、美登里を正面から見る芽衣子の目にも涙が溢れる。
「全部、あなたのせいなんかじゃない。そんな風に言わないで」
「でも……でも、パパは……」
「芽衣子ちゃんのせいだなんて、あなたが悪いなんていうことは私が許さない。寛太君だって同じはずよ。誰も、芽衣子ちゃんでも、芽衣子ちゃんが悪いなんて言うのは許しません」
美登里は芽衣子をぎゅっと抱きしめてそう言った。
「私たちも、悪かったわね。あなただけ可哀想みたいな扱いをしていたわ」
「おばさん……」
「ごめんね、芽衣子ちゃん。でも、もう私たちは家族なんだから。家族を不当に悪く言うのは、家族でも許さないわよ」
「……はい。ごめんなさい」
「寛太君のことも、あなたが悪いんじゃないわ。あれは……」
私のせいね、と言った美登里の真意を、芽衣子が知ることはなかった。
ただ、三年間ずっと誰にも言えなかった心残りを話すことが出来た安堵で、なかなか涙は止まらなかった。
その日の夕食の芽衣子は薄い黄色のワンピースだった。
日本でなら珍しくもない格好だが、大抵は長ズボンにトレーナーのような格好だった芽衣子のスカート姿に、日呼壱は見ていいのか戸惑う。
なるほど、女の子だ。
ディナーの時くらいオシャレな格好をしたいと思うこともあるかもしれない。
普段があまりに野生的な生活に特化しすぎているだけで。
落ち着かない日呼壱の様子に、美登里と芽衣子は顔を合わせて笑うのだった。
※ ※ ※
森での暮らしに慣れてしまうと、それほど不便には感じなくなっていった。
食料はなんとかなっている。調味料には不足があるが、食材は有り余るほどの量があり、お金がかからない。
手に入らない主要な生活必需品は衣類などと鉄製品。
狩猟した獣の皮をなめして、靴の形に整えて、藁を編んだもので包んでみたりした。
歩けないこともないが、クッション性が弱く足が痛くなるし、すぐに藁が千切れてしまった。
空気に触れると固まる樹液でその簡易の靴の底を固めてみると、それなりの弾力と耐久性のある靴が出来たので、その応用でよりよい靴が作れないかと美登里が試行錯誤していた。
数年を過ごした段階では、まだ日本で使っていたものが使えるが、それらもいずれ消耗する。
さすがに布を作ることまでは出来ないが、森の中に綿が取れる植物があったので、集めて紡いでみたところ、それなりに強度のある糸を作ることが出来た。
細くすると切れてしまうのでタコ糸ほどの太さだが、それでも今後必要になることもあるだろう。
日本にいた頃なら、どこかの紡績工場で作ったものを買うだけだったが、作ってみると意外と楽しいと美登里は思っていた。
娯楽もない世界だが、こうした日々の作業があまり苦にならない性分で、人生を楽しむのだった。
健一と日呼壱は、マクラとその子狼のハナを連れて湖で釣りをしていた。
「こないだ仕事に行く夢を見たよ」
「へぇ」
何でもないような話に、気のない相槌を返す。
湖は穏やかだった。
「夢の中で、やばい何年も仕事さぼってたって焦ってるんだよな」
「まあそうだね。実際、仕事に行ってないし」
「ものすごく焦って仕事に行こうとして、何て説明しよう何て言い訳しようって考えて」
健一の釣竿がくいっと引っ張られる。
それに応じて、力を入れすぎないように竿を引きながら苦笑を浮かべていた。
「目が覚めて、ああ行かなくていいんだって……安心しちゃってさ」
逃げようと左右に振られる力にあまり逆らわないようにしながら、少しずつ糸を引いていく。
「父さんなぁ。こんなこと言ったらお前や母さんには怒られるかもしれないが、けっこう今のこの生活が気に入ってるん、だっ」
「…………」
ざばっと水を撥ねながら吊り上げた魚を手繰り寄せて、健一はにかっと笑った。
その表情は子供のようで、思わず日呼壱は言葉を紡げなかった。
ぷいっと当たりの来ない自分の釣竿の先に視線を向けて、
「……俺もだよ」
異世界と言っても、全然ファンタジー感のない未開の地での生活。
だが、息苦しさはないこの暮らしには社会生活でのストレスやプレッシャーはない。
間違えれば命の危険はあるが、それも何とか解決できている。
何かしなければと思って生きていた頃と違い、明日は何をしようかと、何を出来るだろうかと考えるようになっていた。
「母さんには内緒だぞ」
「わかってる」
ここでの生活は、誰も何も保障してくれない。
だが、誰も何も制限もしない。
たぶん、この不自由な生活こそが自由な暮らしなのだと感じた。
「母さんは多分、そういうのお見通しだと思うけど」
「そうだろうなぁ。でも言わない方がいいこともあるだろう」
こういう気遣いはストレスにはならないのかな、と日呼壱は思ったが、多分それも含めて夫婦の関係なのだろうと納得することにした。
釣果は、だいたいいつも健一の方が良かった。
それについては父親に花を持たせているのだということにしている。
「今日は調子が悪かった」
そうだなという健一の勝ち誇ったような笑顔は、やはり子供のようだった。
※ ※ ※
五年目を迎えると、猫が増えていた。
シロとシャルルの間に生まれた子猫たちは、伊田家の転移に巻き込まれてついてきた子猫たちと共に成長して、また次の世代を産んでいた。
生まれた猫は、また色々な柄をしている。
そういえば普通の野生動物は同じ種族でこんなに色とりどりではないのに、猫というのは不思議で愛らしいものだ。
新しい発見もある。
川沿いに時折生えている長細い葉がしな垂れた木に、鎮痛剤のような効果がみつけられた。
怪我をした石猿が、その木の枝を折って口にしていたのを見て、何か効能があるのかと思ったのだ。
葉ではなく木の幹のほうを削って煎じると、非常に苦いのだが痛み止めの効果が認められた。ちなみに葉の方を摂取したらお腹を壊すことも体験済みである。
適当な盆に水を入れてその枝を入れておくと、枝が入っていない方はカビが繁殖したが、枝が入っているとカビの発生が明らかに抑制されていた。
抗菌作用なのだろうか。とりあえず有用なその木については重要なアイテムとして記録された。
それ以上に活躍しているのが、当初に薬効を確認された異世界アロエだ。
その果肉部分を搾り出したエキスを、美登里は化粧水のように使っている。
保湿、肌の角質の修繕などの美肌効果があるということで、実際に肌年齢が若返っているように誰の目にも見えた。え、これで50歳すっぴんなの? 的な。
それがこの大森林という環境で直射日光から守られているからなのか、異世界アロエのお陰なのか。
伊田家の畑周辺に移植された異世界アロエは、どうやら水分があればよく育つようで、手間の掛らない植物だ。
「こんなに良いもの、日本にもなかったわ」
ぼそりと呟いた美登里の言葉の妙な真剣さに、日呼壱はちょっと怖くなったりした。
(美の追求は、クレオパトラみたいな太古の昔からあるんだよな)
とりあえず母の望みが満たされるのならそれで別に良いのだが。
日本に持って帰って販売できたらボロ儲けになりそうではある。そう思えばあの異世界アロエは宝物だ。大切に育てよう。水をあげるだけでも。
※ ※ ※
伊田家の周辺から離れていくと、危険な生物が増える傾向があった。
南には、伊田家の排水が流れていく川がある。
その川伝いに南に進むと、牙兎の生息地だ。
その牙兎の生息地を越えて、さらに進む。家を出てから三日間進んだところで、健一と源次郎は巨大な茶色のダチョウに遭遇した。
3mはあるかと思われる巨体で、二本の足がそれぞれ健一の胴体のような太さだ。
意外なことに草食のようで、木の上の方に成っている実を齧っていた。
だが、足元で牙兎が攻撃しようとすると、その太い足で蹴り飛ばしていた。
おとなしい気性というわけでもなさそうだ。
踏み潰されたり蹴り飛ばされたりして、その一撃で牙兎が絶命する。
そんな様子を見て、あれに近づかないようにと健一たちはそれを迂回した。
巨大な生物はあまり多くは生息していない。
以前に見た白熊ワイトベアーもあれから現れることもなかった。
次に見たのは――いや、見えなかったのだが――ムササビというかモモンガというのか、そういう生物だった。
そこで健一が立ち止まったのは、何か耳鳴りのようなものを感じたから。
唐突にさくらが、健一に体当たりして転がした時には何が起こったのかわからなかった。
だが、すっ転ぶ時に頭の上を通り過ぎていく風を感じて、危険なものが頭を目掛けて襲ってきたのだと理解する。
何か平べったいものが、健一の頭を狙って飛んできて、さくらに転ばされた健一は一命を取り留める。
源次郎はそれを視界の端に捉えていた。
「ムササビじゃ!」
通り過ぎていった影は、2m以上あったように見えていたが、木から木へと滑空するその姿はムササビのようだった。
森の木々の奥に飛び去ったそれを、もう一度見つけることが出来ない。
他の方位にもいるかもしれない。
さくらが警戒する方向を中心に、健一と源次郎がそれぞれ周辺を警戒したが、それ以上のことはできなかった。
結局、それ以上先に進むことは難しいと判断して、戻ることにした。
帰り道の途中で、巨大なダチョウが倒れているのを見つけた。
その頭には暗褐色のムササビが巻きついていて、窒息させて獲物を仕留めて、中の体液を啜っているようだった。
「……」
食事中なら仕留められるかもしれないと思って近づいた健一だったが、一定の距離まで近づくとその怪物ムササビは食事をやめて、健一のほうに牙を向けて威嚇してきた。
長く鋭い牙から血が滴るその姿は、吸血鬼のようにも見えた。
接近を諦めて離れていくと警戒を解いて、また食事に戻っていく。
「あれは無理か」
さくらも近づこうとはしない。
巨大な羽の皮膜に包まれたら誰でも窒息しそうだし、跳躍する速さも侮れないだろう。
危険な生物として日呼壱たちにも伝えることにして、その際の南方探索は打ち切ることになった。
帰り道で、今度は牙兎に食われている怪物ムササビの死骸を見たので、何か倒すコツがあるのだろうと思われるが、それを検証するまでの余裕はなかった。
※ ※ ※




