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続く日々

「あはは、良かったよぉ。本当に良かった。すごいね、生きてるってすごい」


 目じりに涙さえ浮かべながら、興奮したような笑顔。

 感動と、喜びと、驚き。

 そんな感情をどう伝えていいのか戸惑う少女に、どんな言葉をかければいいのかわからない。

「ああ、すごいね。本当に、なんだか言葉にならない」

 日呼壱も、言葉にしてみて初めて、自分も芽衣子と同じ状態なのだと自覚した。

 言葉が出てこない。

 語彙がなくなって、ただ感嘆の言葉だけが口に上る。


「はぁぁ~、息するの忘れてた。あははっ」

 言われてみれば日呼壱もそうだった。

 安堵と共に深呼吸。そんな二人をよそに、源次郎はマクラの頭を撫で、美登里はさくらの背中をさすっている。

 そのさくらは、生まれたばかりの我が子を舌で舐めて綺麗にしていた。

「えらかったね、さくら」

 芽衣子が褒めると、さくらは小さく鼻を鳴らした。



 出産。

 季節は秋に近づき、伊田新田の稲穂が徐々に大きくなってきた頃に、さくらは納屋で3匹の子狼を産んだ。

 出産直後で健康状態もよくわからないが、とりあえず犬の形をした桃色の肌が目立つ生き物だ。毛が生えていない動物の赤ちゃんはこんな感じなのか。

 父親は、マクラなのだろう。

 異郷の犬と狼だが、繁殖は可能だったようだ。


(叔父さんが言ってたみたいに、やっぱり何か、遺伝子の初期プログラムを作った神様みたいなのがいるのかもしれない)

 この宇宙に、同系統の生命体を進化させるような、そういう意図を持った超文明の存在がある可能性。

 そういう話を寛太が言っていたことを思い出す。

(叔父さん……)

 戻らなかった彼のことを口には出せない。



 泣きじゃくる芽衣子を思い出す。

 一週間経っても帰らない父親。二週間経っても、一ヶ月が過ぎても。

 気丈に振舞うときもあれば、ふとしたはずみで涙が止まらなくなってしまう時もあった。


 どうにか芽衣子を元気にしてあげたい。

 夏になり、あの湖が泳いでも問題ないか、日呼壱と健一で少しもぐってみたところ、危険な生き物は見当たらなかった。

 なぜ伊田家にあるのかわからない芽衣子のサイズの水着を用意して、湖で遊ぶ日を作った。

 その日はその湖畔で小さなキャンプファイヤーもしてみたのだが、これがまずかった。


 ――パパ、ここが見つけられるかな?


 芽衣子は泣いてはいなかった。

 だが、聞いていた日呼壱が号泣してしまった。

 キャンプファイヤーを見つけた寛太が帰ってくるのではないか、と。


 儚い希望だとわかっていながら呟いた芽衣子の前で、日呼壱は堪えることが出来なくて、大泣きした。

 それまで芽衣子には、きっと無事だからと根拠のない慰めを言っていたくせに、その希望があまりに切なくて。

 結局、全員で泣いてしまった。



 その芽衣子が、本当に心から嬉しそうに、楽しそうに、さくらの出産に立ち会っている。

(さくらには助けられてばかりだな)

 この森で出会った日から、さくらは日呼壱たちを助けてくれていた。


 お腹が大きくなりかけたのに気がついたのは美登里だった。

 犬や猫の妊娠は、人間ほど大きく目立たない。それでも気がついた美登里の観察眼を褒めるべきだろう。

 おそらく身篭ったということで、さくらは納屋に部屋を用意された。

 森の木で枠を作り、納屋にしまいこまれていた古い布団を敷いて、そこで安静にするようにと言われたさくらは少し困った様子だった。


 森での生活にも慣れてきて、さくらの助力がなくてもウシシカを狩ったり、畑での野菜の収穫などもある。

 一度だけ、石猿の群れが近隣に現れたことがあったが、健一と源次郎で二匹を仕留めると、残りはどこかへ散っていった。

 今回の群れには大きなボスのような個体は見当たらなかったとか。



「さくら、よくやった。頑張ったな」

 日呼壱もさくらに声を掛けて、子犬の毛づくろいをするさくらの邪魔にならない程度に首を撫でる。

「自分でちゃんと産むように出来とるもんじゃ、生き物ちゅうもんは」

 源次郎は過去にも犬や牛の出産にも立ち会ったことがあるという。

 そういえばマクラも、知り合いの猟師のところで生まれたのだと言っていた。

 そうは言っても心配だったのだろう。すっかり家族の一員となったさくらの一大事が無事に終わり、マクラを撫でる手が少し(せわ)しない。


「あっ、シャルルやめなさい」

 美登里の脇からするっと木枠の中に入り込む銀色の猫に、やや慌てて声を掛ける。

 出産直後の赤子に触れようとすると、母親は攻撃的になるかもしれない。

 そう思ったのだが、さくらは気にしないのか、子犬を舌で毛づくろいするシャルルを容認していた。

 前から共同生活をしていたような二匹だ。それなりの信頼関係があるのかもしれない。


(猫の舌はザラっとしていて痛いかもしれないけど……そこは優しめに舐めているのかな)

 日呼壱の心配も不要のようで、子犬たちは気持ち良さそうにされるがままになっている。

 シャルルも、新しい命の誕生を歓迎しているのだろう。


 秋の収穫を前に、伊田家には新しい家族が増えたのだった。



  ※   ※   ※ 



 電動丸ノコ用の替え刃に手回しを出来るハンドルをつけて、その下に鉄板を敷いてある道具。

 手でハンドルを回しながらその鉄板に接触させると、かなりの勢いで火花が散る。

 木屑にその火花を浴びせることで簡単に着火できるように、健一たちが自作した道具だ。火打ち石で火をつけるのは難しいだろうと。

 納屋には昔の火鉢があった。冬にはこれを使って暖房にすることになる。


 炭も、試行錯誤しながら作ってみているが、これはまだ不十分だ。燃焼させずに木を燻してみているが、熱しすぎて灰になったり、生っぽかったり。それらしいものは出来た。

 室内で火を使うことになるので、中が煤けたりすることになるがそれはどうにもならない。酸欠にならないように換気も必須だろう。

 暖房として使うのにひとつでは不足するということで、適当な大きさの石を削って同様の物の製作も計画している。


 他にも大きめの岩を、全員で家の裏まで運んできた。上を皿のように削って、他の岩を足場に高い位置に固定した。

 下で火を焚いて、湯を沸かせられるように。樹液で作った栓を抜くと、勾配で家の浴室側に湯が流れていくように樋も用意している。

 冬になれば屋根のソーラー温水器も使えないだろう。その時の為の準備だ。毎日は無理でも、やはり湯船でゆったりとしたい。

 燃料の薪は、十分に用意が出来る。今も車庫に集めている。



 少しずつだが確実に、この森で生活することに順応してきた。

 そうした日々の中で、初めて収穫された米。

 種籾にする分は収穫せずにそのまま残しているが、その他は刈り取った。

 重く頭を垂れ、黄金色に実った稲穂は、金色の野原のようだった。

 乾燥機も脱穀機も何もないわけで、自然乾燥と手作業だったが、その手間が余計に収穫のありがたさを教えてくれる。


「精米もちゃんとできないから臭いが気になるかもしれんが」

 炊かれた新米が並んだ食卓で、健一が手を合わせる。

 全員がそれにならった。

「いただきます」

 食卓を囲んで、神妙な面持ちで全員が米を口にする。


「……うん、なんだろう。ちょっと焦げた感じが香ばしいくらいで、美味しいよ」

「芯までふっくらとしてるわね」

 日呼壱と美登里の感想は概ね良好だった。

「もちもちしてる感じかなぁ?」

「乾燥が十分じゃないから水分が多いか」

 芽衣子が食感について言うと、健一が答えを返した。


 源次郎は黙々と食べていたが、やがて頷く。

「上出来だの」

 生来の農家にも合格をもらえる出来栄えだった。

 選択肢がなく自然農法での稲作だったが、十分な収穫があったので、当面の食料は問題なさそうだ。


 食卓には、魚の塩焼きが並べられている。

 夏の終わりに近づくと、湖で今まで見たことのない大きめの魚が取れるようになった。

 でっかいザリガニのような甲殻類もいたので、これも時折食卓に並ぶことがある。伊勢海老ならぬ伊田海老と命名。

 殻がベージュ色で泥臭いかと思われたのだが、意外とそうでもなかった。湖の中心側の湖底は、岩が砕けた砂のような地質だったので、その為なのかもしれない。


 森の木々の中には、黄緑色をした楕円形の果実が成っている。色が少しずつ青っぽい色から黄色に変わっていくので、熟れたら食べられそうだ。

 他にも、木苺の一粒ずつをもっと大きくしたような、紫色の実も成っていた。

 ブドウなのか、ラズベリーなのかよくわからないが、それに近い果物だったので芽衣子が好んで食べる。

 日本で買おうと思ったら、やや高級なフルーツで千円より安くはないのではないかと。そう思えば、食べ放題で無料というのは贅沢かもしれない。

 他にも、すり潰すと辛さを引き立てる種の植物や、山の清流にはわさびも自生していた。



 こんな異世界での生活で、電力が不十分で娯楽は提供されないが、食事は充実している。

「おかわりー」

 元気に芽衣子が茶碗を差し出すと、美登里が笑顔で受け取る。

「おじいちゃん、美味しいね」

「そげだの」

 顔の皺を深くして、源次郎が嬉しそうに応じる。


 物心ついてからずっと農業をしてきた源次郎にとって、良い収穫を分かち合うことは何より喜びだった。

 そのスキルが、こんな異郷の地でも役立っている。

 若者にそれが伝わることは、現代の日本では難しかったかもしれない。

 不便な生活をさせてしまっていることは申し訳ないが、食べるのに困ることがないような大地の恵みに感謝する。


「ほんと、お米は大事、だよね」

「ありがたいことだの」

 春にこの森に来て、季節は夏を過ぎて秋の日差しになりつつある。

 このままなら冬を迎えることになるのだろう。

 日本の四季とほぼ同じような推移を辿っているので、冬の期間もおよそ90日程度ではないだろうかと予想しているが、これはまだわからない。


 何も説明をしてくれるものがないのだから、まだ手探りで生きていくしかない。

「ああ、そういえば、やっぱり一日3分くらい時計がズレてるみたいだよ」

 一日の時間が、3分ほど長い。

 少しずつ日中と夜間の時間が、家の時計とズレていくのを計算していた日呼壱が言った。


「一年の周期もわからんからな。とりあえずあの日時計で、影の長さだとかを地道に見ていくしかないな」

 田んぼの近くに杭を立てて、その周囲1mに円を描いた。

 石を並べて、影が一番短かくなったところや、一番長くなったところに印をしている。


 一年が何日なのか、一日が何分なのか。そんなことさえわからない世界だが、食卓に笑顔があれば大した問題ではないように思えた。



  ※   ※   ※ 



「この上から踏んでいいの?」

 農作業や狩猟の合間などに樽やタライを作ってきた。

 木材を隙間なく継ぐような技術はないので、大木の幹をくりぬいた太鼓樽と呼ばれるような樽を作った。


 木材によってはヤニが多く使えない材料もあったが、妙に良質なものもある。

 空気に触れてしばらくすると固まる樹液を利用すれば、もっと違う木工も出来るかもしれない。

 だが、今はこれでよかった。蓋も樽の大きさに合わせて作ってある。

 中には、収穫しすぎた謎ベリーの実が詰め込まれていた。



「ああ、芽衣子ちゃんに手伝ってほしいんだ」

 ショートパンツで生足の芽衣子に健一が依頼する。

「うん、しょっと」

 踏み台から樽の中に足を突っ込む芽衣子。

 踏み潰したら搾りかすは簡単に捨てられるように布袋に包んである。


「そのまま踏み潰してみてくれるかい?」

「うん、やってみる。うんしょっはっふっ」

 右左と足踏みをする芽衣子に目を細めて、健一はその場から離れた。



 収穫が終わった田んぼは水が入っていない。湧き水は南北に分けた水路に流れている。

 乾いた田を(すき)(くわ)で日呼壱が耕している。来年の稲の為に土を起こして、蓮華草の種を撒いているところだ。

 蓮華は秋に種まきをして、翌春に花を咲かす。それは稲の肥料となるので、土地が痩せないようにやるのだが。

 一休みして、芽衣子が一生懸命ふみふみしている姿を眺める日呼壱。


「葡萄酒……っていうのか、まあ果実酒なのか。出来るの?」

「さあな、出来たらいいなというところだが」

 材料は森でいくらでも採ってこれる。食べきれるような量でもない。

 物は試しでやってみるだけだ。


「知っているか、日呼壱」

「?」

 一緒に、芽衣子の姿を眺めながら、

「昔の欧州ではな。ああやって葡萄を踏むのは、嫁入り前の娘だという話だ」


「ああ、なんかそんな風な話は聞いたことがあるけど」

「だが実際には、農家の中年おっさんとかが踏み潰していたらしい。割と重労働だからな」

「知りたくない話だよ、それは」

 顔をしかめる日呼壱に苦笑する健一。

 世の中には知らない方がいいこともある。


「ああ、今時はもう足で踏んで作るような手間はかけずに機械でやってるらしいから安心しろ」

 それを飲む機会もなさそうだけど、とは口にはしなかった。

 健一は、特別に酒好きではなかったが、手に入らないと思うと地々球で飲んでいた酒のことを懐かしく思った。

 出来れば、息子と一緒に飲む機会があればいいのに、と。


「父さんが思うにな。おそらく、最初に誰かが売り文句で、うちの葡萄酒は穢れない娘が踏んで作ったと宣伝したんじゃないかと、そう思うんだ」

「なるほど」

「それを聞いた他の売り手も、うちのも生娘が踏んで作った。この地方の葡萄酒は処女が踏んで作る慣わしだ、と増えていったんじゃないかと」


 それでそういう伝統なのか風説なのかが形成されたのではないかと。

 健一は自分なりの所感を言って、ふっと笑った。


「どうせならそういうことにした方が、美味しく飲めるじゃないか」

 日呼壱は、樽に生足を突っ込んで一生懸命に動かしている芽衣子を見て、頷く。

 健康的な小麦色の足が、日差しの中で紫の果汁に塗れて輝いていた。


「ああ、その欧州人の気持ちは、わかるよ」

 酒とは別の価値を感じながら、もう一度頷く。


「わかるよ」


 父と息子は、初めて本音で会話が出来たような、とても穏やかな心境でその光景を眺めていた。



 後で健一は、鼻の下を伸ばしていたことを美登里に見咎められて、出来たワインを飲む度に責められるのだった。変態、変態、と。



   ※   ※   ※ 



 日呼壱は、月の満ち欠けをノートにつけていた。

 銀色の月は満ち欠けしない。黄褐色の月だけが、満ち欠けを繰り返す。30日の周期なのは偶然なのか、何か納得いく理屈があるのだろうか。


 黄月は、銀月の周りを回っているのか、あるいは関係性は逆なのかもしれないが、春の頃は銀月の左側にあったのが、夏の頃には上の方に、秋になると右側に位置していた。

 衛星同士がぶつかったりしないのだろうか、とも思ったが、安定した軌道になっているのかもしれない。

 肉眼ではわからないが、大きさが桁違いで実際の距離は遠く離れている可能性もある。


 日呼壱の視点からは、黄月が満ち欠けを繰り返しながら銀月の周りを円移動しているように見えていた。一度だけ、黄月も銀月も見えない夜もあった。月食だったのか。

「この世界の暦なら、この月の位置で季節を分けたり、お祭りの日を決めたりしてるのかな」

 文化を持つ生き物がいるのなら、きっとそうしているだろう。中天の満月が祭日だ、とか。


 この辺りは、雨が少ない。

 10日に一度程度の頻度で、土砂降りということもこれまでなかった。

 山の上の方は雪があるが、どうやら山脈の反対側の方が降水量が多いようだ。雲の流れる方角が、ほとんどの日で南西側から北東側に流れていく。

 ゆっくりと山から浸み込んだ地下水が湧き出して、豊かな森を形成している。熱帯雨林とは違う。


 日本にいた頃なら、まるで興味のなかった地理の話だ。風向き、地形、気候。

 社会の授業でいくらか習ったはずだが、日本で生活するのに活用したことがほとんどない。

 天気なら、気象衛星の観測で必要な時に明日のことを知ることが出来たのだし、天気がどうだからと生活に困ることがなかった。


 ここでは違う。

 誰も教えてくれないし、調べることもできない。自分で経験して、予測して、それに合わせて行動しなければ生きるのに支障が出る。

 情報が溢れる生活に慣れすぎていた。


 日呼壱は、自分の目で見て感じたことから仮説を立てて、芽衣子に伝えるようにしていた。

 小学校を卒業していない彼女にとって、筋道を立てて考えるような教導をしてあげられるのは、自分たちだけだ。

 今後、芽衣子が日本に帰れたとしても、そうでなくとも、自分で情報を整理して考える習慣をつけておきたい。


(……まあ、メイちゃんは俺よりよほど賢いんだけどね)

 一緒に話していて日呼壱は、芽衣子の理解の早さに驚くことがあった。

 勘が鋭いというのか、要点を抑えるのが得意なのだ。

 じっくり考えて正確な答えを出す、というタイプではないが、決して愚鈍ではない。


(クラスでは人気の女子だったんだろうなぁ)

 明るく快活で判断が素早い。そして顔立ちも整っている。

 きっとモテモテだったろう。

 そんな少女の健気な姿があるから、この不便な生活の中でも、日呼壱だけでなく伊田家の誰もが少しでも住みやすい環境作りに精を出している。


「結局、ええかっこしいってことか」

 異世界転移。説明もなく放り出されたこの状況。

 家族がいるから、孤独や不安に潰されたり、自分を見失ったりしないでいられる。

 芽衣子がいるから、不平不満を互いにぶつけたり、苦労を厭ってサボったりすることもなく、自分の出来ることを頑張れる。


 この森に一人で放り出されていたのなら、とっくに死んでいただろう。あるいは気がおかしくなっていたか。

 日呼壱は月の観察ノートを閉じて、誰にともなく呟いた。

「ありがとう」



   ※   ※   ※ 



 日呼壱と源次郎は、ある野望を実行に移す計画を立てていた。

「……」

 さくらが、湖畔で一頭のウシシカを追い立ててくる。

 それを待ち構える日呼壱の手には、穴を開けた石を両端に括りつけたロープがある。


 何度も投げて練習した。

 木の枝に対しては、九割ほどの確立で巻きつけることが出来るようになっていた。

 十分に近づいたウシシカの前に日呼壱は茂みから飛び出す。



『キュエェ!』

 驚いたウシシカの口から鳴き声が漏れたが、怯まずに日呼壱はその石付きロープを足元に投げつける。

「っち、い」

 見事に巻きついた。

 ――が、片足だ。両足に巻きつけたかったのに。

 ウシシカは方向転換して森に逃げ込もうとするが、足元のロープのせいか動きが鈍い。


 その首にロープがかけられた。

「ぬぉぉっ!」

 源次郎だった。動きの鈍ったウシシカの首に輪にしたロープをかけて引く。

「爺ちゃん!」

 日呼壱もそれを手伝う。必死にその首にしがみつき、獣臭い毛皮の臭いを嗅ぎながらウシシカを抱きしめた。

 強い力で振りほどこうとするウシシカ。

 二人の力でそれを押しとどめる。


 しばらくそうしていると、不意にウシシカの体から抵抗する力が抜けた。

「……?」

 諦めたのか、暴れる体力がなくなったのか、首をだらりと下げて逃げ出そうとしない。

「捕獲、成功?」

「気を抜かんことだの」

 そう言いながらも源次郎は、先ほどまでより優しい力でロープを引くと、ウシシカはそれに従ってとぼとぼと歩いた。


 その腹の下には、大き目の乳房が垂れている。授乳期のメスだった。

 少し前から、子供に授乳しているウシシカを見ることが多かった。

 捕獲すれば、ミルクが取れるのではないかと。


 納屋にあったロープで捕獲用の道具を作り、計画を立てていたのだ。

 こうして成功するまで、既に4度失敗しているのだが。

「おとなしくなったね?」

「強いもんには従うんかもしれん」

 ウシシカの生態はわからないが、都合は悪くない。



 そのまま家まで引いていって、家の敷地内の木に繋いだ。

 どうにかこうにか、足を押さえて搾乳をしてみるのだが、日呼壱にはうまく出来なかった。

 健一は、過去に牧場で乳搾り体験をしたとかで、意外とうまくやっていた。


 ――ずいぶん慣れているのね。どれくらい揉んだの?


 という美登里の質問には聞こえない振りをしていたが、何か疚しいことがある素振りなのは明らかだった。

 とりあえず絞ったミルクを桶に溜めると、一応殺菌の為に湯煎すると裏に持っていった。


「ごめんな、なんだか」

 日呼壱から見て疲れた様子のウシシカに謝罪の言葉をかけて、稲藁をウシシカの目の前に置いてみると、もそもそと食べ始める。

 餌はこれで良さそうかと、一緒に水の入った桶も置いておく。


 乳牛なら、毎日搾乳することが可能だ。野生動物でも授乳期なら毎日授乳するわけだから、食料さえ与えておけば明日もミルクは取れるだろう。

 与える餌によってミルクの量が変わるかもしれないので、そこらへんもまた検証することにした。



 採ったミルクを冷凍庫である程度まで凍らせて、甘い果肉と混ぜ合わせてシャーベットを作る。

 それは芽衣子に感動を与えてくれた。

「おいしいぃーっ♪」

 その笑顔を見ることが、日呼壱と源次郎の計画だったのだ。他にも、ミルクがあるのなら試したい料理はある。


 後日、ミルクが出なくなったウシシカは、解放することになった。

 食べようかという話にもなったが、出産後の獣の肉は美味しくないとか。

 それに、もう十分食べさせてくれたさ、ということで。



  ※   ※   ※ 



 そうこうしているうちに、冬が来た。

 雪が降る日もあったが、豪雪という日はなかった。

 うっすらと森が白く染まる。

 燻製などにして保存食にしていた肉や魚と、冬の野菜で食事に困ることはなかった。


 幸いだったのは、ティッシュ代わりにしている葉っぱが冬でも枯れない常緑樹だったことだ。

 ウシシカなどが食べてしまうのか、低い位置の葉はなくなってしまっていたが、脚立を立てて高い枝から回収できた。

 柔らかい緑の葉なのに常緑樹とは、地球ではみない植物だが、そういうものなのだと理解する。


 井戸水は、冬でもある程度の温度がある。14度くらいだろうか。

 洗い物をするのに手が凍りつくような冷たさではなく、気温より高いので温く感じる。

 石釜で風呂を沸かすのはかなりの労力だったが、冬は狩猟に出かけることも控えたので、その分の労力を回せば可能だった。

 沸かす火で暖を取りつつ、炙った干し肉を食べた。火の近くに石を敷き詰めてイモを焼いてみたら、これが思いのほかうまかった。


 

 冬には冬の生態系があるようで、白い毛皮のタヌキのような生き物を見かけるようになった。

 夏の間は見たことがない動物だ。

 白狸を捕まえることが出来たので食べてみた。

 翌年、デカリスを狩って食べたところ同じ肉だったので、冬毛というか冬体型なのではないかという結論になった。


 屋内にいることが多くなった芽衣子は、暇つぶしに日呼壱の書棚にあった漫画を読んでいる。

 完結しているものもあれば、未完のものもある。

 日呼壱は、一気に読むことを好む性分だったので、古い世代の漫画シリーズを全巻まとめ買いなどしている物も多かった。寛太の世代で親しまれていたような時代の物だ。

 少女趣味のものはなく、少年漫画やちょっと大人向けの青年漫画ばかりだが、元々活発な芽衣子には恋愛物語よりも好まれた。


 いつになったら冬が終わるのかな、という言葉が出始めた頃。

 山からの吹き下ろす風と、雪が三日間続いた。

 50cm以上の積雪になり、このまま続くと雪掻きなどしなければならないかと心配していていると、前触れもなく晴れた。

 四日目にぴたりと止むと、それからは晴天で穏やかな日が続き、降り積もった雪もほとんど融けてなくなった。


 初めての冬は、こうして明けていった。



  ※   ※   ※ 



 まだ朝晩は肌寒い初春に、シロは子猫を四匹産んだ。産屋はさくらと同じ納屋の古布団の部屋だ。

 日本にいる頃も、毎年冬から春になりかけると発情期になって、なぁーごぉなあぁーごぉぉ、と鳴いていた。

 その度に、発情期が過ぎたら避妊手術に行こうかという話も出ていたが、過ぎると何となく獣医に連れていかないで、ここまできてしまった。

 その結果が、この出産だ。


 悪いことではない。子犬も可愛いが、子猫の可愛さは凶悪な力がある。

 一匹はシロと同じ白毛、それと白茶、もう一匹はなぜか黒猫、そして最後の一匹は銀色。

「銀色はまあ、わかるんだけど。なんで黒猫が生まれるのかね?」

「猫の遺伝子は白が優性で、白の因子があると出やすいのよ。他の模様が出ることもあるみたいだけど」

 日呼壱の疑問に答えたのは美登里だった。


「黒猫には、白の遺伝子が遺伝しなかった。だから、もともとシロの中にあった別の遺伝子で、黒色が表に出てきたのよ」

「おばさんすごい。博士みたい」

 芽衣子の率直な尊敬の眼差しに得意げな笑顔を見せる美登里。

 なぜそんなことを知っているのか。実は美登里が大の猫好きだったからなのだが。


「銀猫は、まあ、父親の遺伝子なんでしょうね」

 父親、と言われて視線を集めた健一が憮然と、俺は無関係だと首を振る。

 シャルルが父親なのだろう。

 当のシャルル本猫は、さくらの出産の時は駆け寄ってきて毛づくろいしていたのに、今は少し離れた棚の上で自分の顔を前足で拭いている。


「ああ、自分の家族のことだと何でもないみたいな態度をする父親なのね」

「……俺は関係ない」

「心当たりがあるのかしら」

 なぜか責められる健一は、旗色が悪いと思ったのか納屋から出て行った。


 子猫たちは母親のシロのおっぱいに吸い付いているが、その目が開いていないので飲みながら眠っているようでもある。

「可愛い」

 思い出したように口元を動かして乳を飲む子猫の姿に、芽衣子が目を細める。

 そんな芽衣子の様子に、日呼壱は目を細めるのだった。



 銀猫の子供はオスで、シャルル・ドゥゼムと名付けられた。

 フランス語で二世だとか言うが、日呼壱にはわからない。美登里の命名だ。

 白茶はオスでチャア、黒猫はメスでマーヤ、白猫もメスでリリィと名付けられた。

 

 猫の出産から10日後、日呼壱と源次郎は湖に、さくらを連れて来ていた。

 寛太の捜索。

 昨年の秋に、健一が寛太を探しに進んだのだが、一晩で断念した。

 森で夜を越すのには相当な神経を使う。目に見えない恐怖や、現実に獣の脅威もある。

 その時もさくらと一緒だったが、翌日も寛太の足跡を追う気力が持たなかった。


 寛太が一人で犬も連れずに探索を強行することが出来たのは、よほど日本に帰りたかったからなのか。あるいは消防士としての慣れがあったのだろうか。

 その答えはわからなかったが、健一には単独で森で野宿を続ける気にはなれなかった。

 二人なら多少は負担を軽減できるだろうという話になったが、男手を二人も割くことは、初めての冬を前に無理な相談だ。無茶な計画になってしまう。

 冬が過ぎたら、二人で出かけるということにしていた。

 今日がその日だ。



「……行こうか」

「無理せんようにな」

 出発、と木の幹に刻まれた文字を前に、張り詰めた面持ちの日呼壱を源次郎が嗜めた。

 今回はキャンプ用の簡易テントも用意している。杭で固定するのではなく、少しひねると傘のように広がってくれる簡単なテントだ。

 さくらと共に、寛太が残していった目印の黄色いビニール紐を追って森を北上するのだった。



  ※   ※   ※ 


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