一人、北へ
湖の北、小川の始まりの木に黄色いビニール紐で目印を掛けてから、川沿いに北に進んだ。
リュックサックには、ペットボトルに水筒、ステンレス製ナイフ、片手鍋、摩天楼の絵の金ライター、黄色のビニール紐が2束とはさみが入っている。
他にも、雨ガッパや替えの軍手に寝袋と懐中電灯。食料として日干しした川魚や、乾パン、ビンに詰められた謎果実のジャムなどもある。
右手には杖代わりの石槍。ここに来てからこの槍には色々と助けられたし、ずいぶんと手に馴染んできていた。
最初に目印にした木に、ナイフで文字を刻んだ。
『出発』
それから、目印を見失わない程度の間隔で、紐を掛けていった。
100mも進んだら目印が見えなくなるので遅々として進まないが、それでも目印を10箇所以上掛けていくと、もうすっかり湖の場所は見えなくなっていた。
「……」
不安がないわけはない。危険な生物がいるかもしれない。
ただ、寛太はここ数日、妙な感覚を覚えていた。
(あの猿程度の生き物なら、たぶん大丈夫だ)
石槍を握る右手の握力が増す。負ける気がしない。
根拠が何なのかわからないが、そういう確信があった。自信とも違う。
それでも未知の森で一人という状況に不安を覚えないわけではない。
このまま夜を迎えたら、怖くてたまらないのではないかと。
それとは別に、薄らいでいく不安もある。
(……美登里さんの風呂を覗いただなんて、なあ)
なぜそんな気になったのか、欲求不満だったのだろうかと。
彼女は四十五歳と中年ではあるが、自己管理がきちんと出来ている体型の、年齢よりも魅力的な女性だとは思う。
だが、健一の妻でもあるし、寛太からすれば八歳年上なこともあり、日本にいる間にそんな気になったことはなかった。
そうなっていたら色々と不都合だ。
こういう状況で不満も溜まり、健康な成人男性としての欲求も溜まっていたのかもしれない。
人は、所属する集団の中で性的接触の対象となる相手を探してしまうものだとか。
芽衣子が対象になるわけもないのだから、消去法だったのか。
そうでなく、美登里に女性としても魅力を感じていたのだとすれば……
「それは、やっぱりまずいよなぁ」
寛太が単独行動したいと言い出した理由のひとつは、自分の自制心に自信がなかったからでもあった。
無論、人里を探したり帰る方法を探したいというのも嘘ではない。
罪悪感。それもひとつの理由になっていた。
つい風呂を覗いてしまったのは、日呼壱が芽衣子の風呂を覗いた云々の話があったから、そういう思考に至ったわけで。
芽衣子を親身になって看病してくれる美登里に、不届きな思いを抱いてしまった。
そんな状況がいくらか重なった結果だったとはいえ、寛太はもともと善良なタイプの人間だったので、逃げ出したくなってしまったのだった。
「はあ……情けない父親だよな」
落ち込む。
芽衣子に合わせる顔がない。
そうした罪悪感の埋め合わせもあって、何か目に見える成果を出したかった。
――手柄を焦るから失敗するんだぞ。
「まあ、そういうもんだよね」
健一の言葉を思い出し、ますます落ち込んだ。
しかしうなだれていても仕方ない。
『進むしかない』
目印のビニール紐を掛けた幹に、ステンレス製ナイフで刻み付けた。
この木は、白樺のような滑らかな木肌をしている。
別の針葉樹の幹は、木肌がごつごつしていて、紐はひっかけやすいが文字を刻みにくい。
幹とは別に蔦のような枝が垂れ下がる木もあった。これに傷をつけると濁った樹液が溢れ出る。樹液はしばらく放置すると固まるので、接着剤に代用できそうだった。
文明社会を離れても、生きていく為に必要最低限のものは自然の中にあるようだ。
無人島に流れ着いた人が何十年も生き延びるという話も聞く。
環境に適応して生きる能力は、日本に暮らしている間は忘れがちだが、本能に備わっているのだろうと思った。
「こうして一人になったら、もう余計なことは考えなくていいか」
ここでは、覗きも強制猥褻もない。生きるか死ぬかだけの大自然だ。
問題をなおざりにしているとも思うが、孤独は案外と寛太の気を軽くしてくれた。
「所詮、人間も自然の中じゃただの獣ってことかね」
しがらみもルールもない冒険に、寛太は初めてその身を委ねるのだった。
夜の闇を、火を焚いて過ごした。
雨合羽を下敷きにして、寝袋を開いた状態で肩に羽織って木に寄りかかる。
神経が鋭くなる。
闇の中、物音でどの程度の大きさの生き物が、どの辺りにいるのかが感じ取られる。
(そんな特殊なサバイバルスキルは持ち合わせていなかったはずだけど)
この世界に来て、狩猟をして過ごすうちに身についたのか。
覚醒、という言葉が寛太の脳裏をよぎる。
(そういえば湖の魚の居場所も、なんとなくそれっぽく掴めたような)
元々あった五感が、この状況下でより敏感になったのか。それともこの世界に来て特殊な能力に目覚めたのか。
(そういう特殊能力だとしたら地味だなぁ。魔法とかの方がよかったかも)
日呼壱ではないが、寛太だって必殺技や魔法が使えたらと思わないわけではない。
だが、使い道があるかどうかもわからない必殺技よりも、鋭敏になった感覚は探索の役に立っている。
特殊な能力というより、この環境で必要に迫られて生来の肉体能力が強化されつつあるのだろうと思えた。
揺れる炎を見やりながら、いつの間にか寛太は眠りに落ちる。
夢を見た。
日本にいる、日常の夢。
森での暮らしなんて夢だったんだと、その夢の中で思った。
不意に帰り道がわからなくなり、芽衣子とも、妻の由香利と長男の連也にも、もう二度と会えないと思ったところで目が覚めた。
※ ※ ※
川を進むのは失敗でもあったし、正解でもあった。
平面ではない森林を流れる川を進んでいくと、次第に川が谷のようにかなり下の方を流れるようになっていった。
対岸は、川に合わせて低くなっていく。高低差が大きくなるに連れて、進む岸を間違えたかな、と思い始めていた。
そして、寛太は自分の運に感謝する。
日が高かったために、自分の目の前で地面が陥没していることに気がついた。
「っと、崖……か?」
足元の草もあり、薄暗かったら気づかずに滑落していただろう。
右手を流れる川の本流に、左側の山から合流してくる小さな流れが地面の一部を削っていて、草むらの中で唐突に10m近い落差の崖が出来ていた。
崖を挟んだその向こうは、寛太が歩いてきた高さと同じ程度の高さなので、前のほうばかりを見ていたら気づかずに落ちていた可能性が高い。
崖の手前で、ビニール紐を胸くらいの高さで木から木へと横に張る。
木、三本ほどに渡して巻きつけて、同じように腰くらいの高さにも横に張って、立ち入らないようにした。
改めて出直した時や、別の誰かが探索に出たときに、ここで事故に遭わないように。
そして、その真ん中にある木の幹に、
『足元 危険』
と刻み込む。
薄暗い時間にここに来ても、とりあえずこれを見れば注意するだろう。
時間の無駄にはなったが、寛太はそこから2時間ほど引き返して、川の反対岸を進むことにした。
崖自体は飛び越えられなくもないが、この先にも同じような地形があるかもしれないと考えたのだ。
川の右岸と左岸で高低差が広がる前の分岐点になる場所まで戻り、そこの目印の木に、
『左、崖あり 右に進む』
そう文字を刻んだ。
「なんだかゲームみたいだな」
ヒントやアドバイスが書かれた看板や、情報を教えてくれる村人。それを製作している気分になる。
寛太が子供の頃に遊んだゲームでは、そういった親切なコメントがなく手探りで進めるものが多くあった。
それらは途中で進行できずにやめてしまったりして、それ以降はゲームに打ち込むことも少なくなったが、最近は芽衣子と一緒に遊ぶこともあった。
「最近のゲームなら、オンラインマニュアルとか次の進行とか案内があったりするのに」
今の状況は、寛太が遊ぶより昔の世代の、説明書も満足にないパソコンゲームのようだった。説明書きを作っているのが現状なのだ。
ひとつひとつの発見を、後で見た時にわかるように書き記す必要がある。
「無駄にはならないだろう。あっさり日本に帰れて無駄になってもいいんだけどさ」
日本に帰ってしまえば不要になる労力。
それならそれでもいい。芽衣子にソフトクリームを買ってやれる方がいいと思う。
「丸山高原のソフトクリームか。先月の春休みのことなのに」
家から車で2時間ほどの高原に、天気の良い休みに家族四人で行ったのは、4月始めのことだった。
もうはるか遠い昔の出来事のように思えた。
芽衣子が高熱から回復して言ったのは、その高原で食べたソフトクリームのことを思い出したからなのだろう。
「やっぱり、何とか帰る方法を探さないと」
どうにか生きていけるとは言え、不便でもあるし、文明的でもない。
こんな状況にいつまでも芽衣子を置いていたら可哀相だ。ゲームやTVもないし、オシャレだって出来ないのだから。
分岐点まで引き返したという徒労感で、そこで休憩しながら独り言が多くなっていた寛太は、よしっと立ち上がる。
ロスした時間を取り戻そうと、少し早足になって進むのだった。
探索二日目の日暮れも近くなってきた頃。
穴を掘っているデカリスに気がついた。
(……巣を作ってるのか?)
一生懸命に木の根元あたりを掘っているデカリスは寛太の気配に気づいていなかった。
川は、相変わらず左岸は崖のように高くなっていて、右岸は水が流れている場所と、大小の石がごろごろと転がっている川原になっている。
その川原と森の境あたりの、木の根元。
寛太が歩いていたのも、森と川の間の辺りの比較的平坦になっているエリアだったのでその動物に気づいた。
森で何度か見かけたが、木の上にいるか、すばしっこく逃げていくので捕らえたことがないデカリス。
殺す必要はない。
だが、仕留めれば食べることはできる。
持っている食料は限られている。ある程度は木の実などで自給自足するつもりもあった。
狩猟は、そこまで本格的に考えていたわけではない。
「……」
寛太は少しだけ息を整えて、デカリスまでの距離を目測で確かめた。およそ20mほど。
穴を掘る作業を数秒間続けて、少し休む。また数秒間掘って、休む。
そのサイクルを観察しながら、掘っている時に少しだけ距離を縮めてみる。
掘る作業の間、土の中に頭を半分以上突っ込んでいるせいか、足音に気がつかない。
次の掘る動作に入った瞬間に、寛太は駆け出した。
「――っ!」
掘り始めてから、物音に気がついて振り向くデカリス。
迫り来る寛太に気がついて、即座に木を登ろうとしたその丸い胴体に向けて寛太は槍を突き出した。
どすっと低い音が槍を握った手から伝わってくる。
『ピギィィッ!』
激しくもがくデカリスは、後ろ足の太腿あたりを貫かれ、登りかけた木に繋ぎとめられていた。
悲鳴とも威嚇とも取れる声を上げるデカリスに、寛太は静かにごめんなと呟いてその頭を鍋底で叩いた。
『キュ……』
短い鳴き声を上げてくたりと力が抜けたデカリスの後ろ足を、持っていたビニール紐で縛る。解けないように硬く結んだ。
脳震盪を起こしているが、まだ心臓が動いている。そのまま逆さにして川辺まで持っていった。
逆さに吊るされて頭のほうに血が上っていったデカリスの首の動脈を、ステンレス製ナイフで切る。
勢いよく流れ出した血を、川の水に流してしまう。
源次郎を手伝ってウシシカと、鳥も二度ほど解体した。その時の手順を模倣してみた。
しばらく血を抜いてから皮を剥いでみる。ナイフを使ってやってみたが、いくらか皮の方に肉が多く残ってしまう。
下手なリンゴの皮むきみたいな状態だが、寛太が食べるのに不足のない程度の肉は十分に取れた。
そのまま川辺で、適当な大きさの石を集めて簡単な竈を作って火を起こすことにする。
日も暮れてきたので、今日はここでキャンプだと。
先ほど、デカリスを仕留めた際に抜いた槍は、獲物で手が塞がっていたので仕留めた辺りの地面に突き刺して置いてきていた。
燃やす燃料を取るついでに槍を回収に行く。
「こう、失敗してもいいと思ってる時はうまくいくんだよな」
必死なときほどうまくいかない。
そんな自分の空回りに思いを馳せながら、槍を置いてきた辺りまでくると、
「…………」
何か、奇妙な感覚を感じた。
静かに、地面に突き刺さった槍に手を伸ばす。
『ギッギギィ!』
槍に触れた寛太に、すぐ近くの木の枝に足をかけて空中ブランコのような姿勢で威嚇の声をあげる敵があった。
即座に槍を地面から抜き、軽くその敵に向けて突く。
『ウコゥッ!?』
逆さの姿勢から器用に体をくねらせて回避する、石猿。
寛太よりもやや小柄な、少しだけ赤っぽい毛並みの石猿だった。
「またお前らか」
毒づいて、瞬時に周辺を見回す。
左手の川と、右手の森。森にも木々が密集している場所とそうでない場所がある。
川原側には敵の姿はない。それを確認すると同時に、寛太は木々の間隔が広くなっている方に駆け出した。
いるとすれば、こちらだと。
『ギギャァアアアゥ!』
大音声と共に飛んできた塊を避ける。
寛太が急に迫ってきたせいで狙いが少しズレていた石の塊が、今ほど寛太に牽制していた石猿のいる木にぶつかってその石猿を驚愕させていた。
木々の間隔が広い、つまり視界が開けて投石のしやすい方角に、最初に見た石猿より頭二つほど大きい、2mはありそうな大石猿がいた。
『ウコッコッココゥ!』
外した投擲に慌てたように次の石を構えなおす大石猿。
その判断が遅い。構えている間に、間合いを詰めた寛太の槍がその喉に突き刺さった。
『ブゴォ、ボ……』
口から血泡を吹いて、息絶える大石猿。
「どうだぁ!」
槍を引き抜いて、周囲をぐるりと睨みつける寛太。
深緑の森の中、最初に牽制してきた石猿と、他にもう一匹を見つける。
睨み付けられた石猿は、びくりと震えてから、慌てて森の奥へと逃げていった。
見送っていると、もう少し小さい石猿がまた二匹合流して、同じ方角へと逃げ去っていく。
ボスがやられたので、その群れの子分が逃げ出したのだろう。全部で五匹の群れだったようだ。
「……赤っぽい毛並みのはメスかな?」
石猿の毛色はほとんど白っぽい茶色だが、若干赤みがかったものがいた。
ボスになるオスと、それに従うメスが数匹。後は独り立ちする前の子供という群れを形成しているのかもしれない。
自分のハーレム以外とはうまく集団生活が出来ないから、それ以上の大きな群れにはなりにくいのかと。
槍についた血を川で洗いながら、寛太はそんな風に推測した。
日も暮れてきた。この辺りを縄張りにしている石猿を、日があるうちに対処できたのは幸いだったかもしれない。
火を起こして収穫のデカリスの肉を焼いて食べてみた。
「うん、結構いける」
塩味だけだが満足できる味だった。自分で捕った獲物だったので、プラス補正で美味しく感じるのかもしれないが。
火を焚いた簡易キャンプの傍の大きな岩に、今ほど思いついた石猿の生態についての推論を、他の石を使って書いてみたりする。
――石猿の群れ。ハーレム形成について。
揺れる炎の光の中で、また誰かが訪れた時にヒントになるように。
「ああ、それと、最初に牽制する役目と、動きを止めた相手に別の方向から投石で攻撃するみたいな連携をしているんだよな」
前回の襲撃の時、日呼壱や健一から聞いていた襲撃のパターンがあった。
それを知っていたから、あの瞬間にボスの大石猿がどこかにいるのだろうと思ったのだ。
投石するなら、射線が取れる配置にいるはずだと。
走った方向は適当だったが、それでどこからかの投石を避けられればそれでいい。
そんな対処方法についても合わせて、岩に書き込んでいくと、結構な文字数になっていた。
水流で滑らかになった岩肌に、日本語で石猿についての情報が削り込まれている。
この川原あたりも、過去には水の底だったのか、今でも雨季などになれば川底になるのかもしれない。
そうしたら、寛太が削りつけたこの情報も、また埋もれてしまうのか。
「……まあ、なんだ。夜になるとマイポエムとか書きたくなるってやつか」
岩に刻んだ石猿情報の最後に、あくまで経験からの推測だが、と書き足してみた。
デカリスの肉は食べきれないほどの量があったので、火を通した後に手持ちのビニール袋に入れてリュックにしまった。
「今日はなんだか冒険した感じだぞ」
崖に行く手を阻まれたりデカリスを狩猟したり石猿と戦ったりと、本当にゲームで体験するような一日だ。
もっと高揚感もあっても良さそうだとも思ったが、疲れていた体は満足感の中で速やかな休息へと寛太を導いた。
夢を見たような気がしたが、朝の日差しに目を覚ました時には記憶に残っていなかった。
※ ※ ※
探索三日目。
森と川の景色は、代わり映えがしなかった。
何十年、何百年か、あるいはもっと遥か長い時間を、この森はこうして続けてきたのだろう。
風に揺れる木々と、小川のせせらぎ。雲の隙間から差し込む日差しが、川原の岩を白々と照らす。
時折、トンボかカゲロウのような昆虫が飛んでいるのを見かける。うっすらと緑色に光る半透明の羽は保護色のようだ。
川幅はあまり変わらない。
目印の為にビニール紐をかけながら進んでいるので、進行速度はあまり速くはない。
水筒の水を呷って、周囲を見回す。今日のところはデカリスも石猿も、それ以外のある程度の大きさの動物も見かけなかった。
用意してきたビニール紐の一束がなくなったのは、昼前の頃だった。
「まだいけるか」
休憩がてら昨日捕ったデカリスの肉をかじりながら、リュックの中からビニール紐の次の一束を取り出す。
先ほどまで使っていたのは、元々家の周囲探索で使っていた残りもの。今度のは未開封の500m巻きなので、十分なストックだ。
川原を歩くのにも慣れてきた。
昼休憩の後も進めるだけ進むことにする。
「……って、そりゃあ、いるか」
休んで食事していた寛太の口から漏れた声は、少し震えていた。
森の方から二匹、姿を現した。
灰色の狼。
「さくらより小さい、からな」
だからなんだと言えば、さくらよりは弱いはずだという確認を口にしてみただけ。
二匹。それ以降は姿を見せない。
狼だとすれば、もっと多くの群れを成しているかもしれない。そんなものに襲われたらとても無事に済むとは思えなかった。
「……」
お互いに警戒して、一定の距離を保って対峙する。
寛太は、立て掛けてあった槍に手を伸ばそうとして、自分の手の中にあったデカリスの肉の余りを思い出した。
「……」
もう一口、齧る。
さくらは生肉よりも焼いた肉の方が好みだったように思う。
食べ物を持つ寛太の手に二対の視線が集まった。
「……食うか?」
自分の食べかけを、二匹に向けて提示する。
そろりと、二匹が一歩ずつ寛太に近づいた。
少し考えて、肉を両手で力ずくで引き裂いて、二つの塊にしてから狼の足元あたりにそっと投げる。
『ヴァゥゥ……』
一瞬警戒して低く構えた二匹だったが、寛太に差し出された肉に興味を覚えたのか、くんくんと臭いを嗅いだ。
寛太と、肉と、お互いの顔に視線をやってから、
『ウォン』
威嚇ではなく挨拶のような鳴き声を発してから、肉を口に咥えた。遅れたもう片方もそれに倣う。
その場で食べるのではなく、森の方に駆け出してから一度寛太を振り返り、また森へと走り去っていった。
「……ふぅぅぅ」
半身に構えていた体から力が抜けて、川原にへたり込む寛太。
「びびったぁ」
今の二匹の狼は、姿はさくらと似ているが、大きさはマクラよりも少し小さい程だった。
それでも野犬や狼は侮っていい相手ではない。
石猿とは違った戦闘力を持つ生き物だ。集団戦闘ならおそらく石猿を上回る厄介さがある。
今の二匹程度ならどうにかできるかもしれないが、四匹以上いたら勝てないと確信する。
さくらくらいの大きさの成体がいたら、一匹でも勝てないかもしれない。
「でも、さくらもそうだったけど、人間をただの獲物って見ている感じじゃあないんだよな」
デカリスなどに比べれば寛太は大きめの哺乳類だが、ウシシカはもっと重量のある生き物になる。
おそらくウシシカは狼にとっては獲物になるだろう。それなら人間も獲物と見做されてもおかしくないが。
獲物に対する行動とすれば、姿を潜めて近づいて、一息に仕留めるのがセオリーだ。
姿をさらして、どういう行動を選択するか見極めるようなことは、普通はしない。しないと思われる。
「過去に人間と共生していたとか、そういうことがあるんだろうか?」
この三日の探索の間も、寛太はこの森に他の人間や文明社会の痕跡を見つけることはできなかった。
人工物と思われるものはなく、ただ自然のままにあるような世界しか見当たらない。
あの狼が、犬のように人間のパートナーとして生きていたことがあるとすれば、人間の生活の跡があってもよさそうなものなのに。
「ただ単に、見たことのない生き物だから興味を持っただけとか。好奇心の強い生き物なんだろうか」
強者ならば、人間を見て危険を感じるより、変わった生き物が何をするのかという好奇心を優先させるかもしれない。
当の狼に話を聞くことが出来ないので、結論は出るはずもないのだが。
「でもまあ、たぶん、今ので正解……だよね」
食料は失ったが、あの狼の信頼を得られたかもしれない。
ゲームの進行とすれば今の行動が正答なのではないかと、寛太はそう結論付けて先を進むことにした。
三日目の日も暮れかける。
川幅が狭くなっている場所を左岸に渡った。
北西寄りの川岸は崖のように高くなっているので、ずっと川の右側の岸を歩いてきたのだが、この辺りは左岸も崖との間に平らな地形が出来ていて、林のように木々が育っている。
川原のようになっていないところを見ると、水の流れに飲み込まれない地形なのだろう。
林の向こうは、崖のような山肌が見えていた。
この林の位置なら、崖側からの襲撃は落差の問題で考えにくい。右岸からの襲撃には、渡河の水音で気づくことも期待できる。
野営するのに適した場所ではないかと思えたのだ。
渡った辺りの木の幹に黄色いビニール紐を巻いて目印を作っておく。
休憩に適したポイントかと思い、三重に巻いておいた。
少し林の中に入って、崖から数メートルほど離れた辺りに雨合羽を地面に敷いて座る。
「うー疲れた。結構進んだよなぁ」
足を伸ばして、すねの辺りをさする。石がごろごろしている川原を歩き続けて、筋肉が張っていた。
ここまでに新しい発見はない。一度引き返すべきだろうかと考える。
「……まだ何も見つけられてないんだよな」
成果がないまま戻るのにためらいがある。だが、このまま進んでも何かがあるという保障もない。
荷物を下ろして、そのまま横になって体を休めながら思索した。
第一の目的は、この世界の知的生命体と接触すること。
第二の目的は、この森を抜けること。これは第一の目的にも通じている。
第三の目的は、地球に帰る方法を見つけること。
どれも手がかりすら掴めていない。
意思疎通が可能な生き物は、あの狼くらいだ。だがあれは知的生命体とは呼べない。
何かの痕跡さえ見つからない。山々に巨大な顔像があったり、空き缶が川原に転がっていたりもしなかった。
巨大な人間像が半分埋まっていて、ノオォォと膝をついて泣き叫ぶ場面を思い描いたりしたが、現実にはなっていない。実はここが地々球だったというわけでもなさそうだ。
(戻ったら、もう出るのがイヤになるかもしれない)
何の成果も手がかりもないまま戻って、また危険を承知でここまで来るのかと。
みんなの所に戻って、ある程度の安全と快適な生活が出来る環境で、何かの助けを待ってみてもいいのではないか。
芽衣子も安心するだろうし、美登里だって消防士として経験のある寛太を頼りにしてくれる。
(ああ、ダメだダメだ。だからそういう考えがダメなんだって)
安易な考えだと振り払う。
このまま戻ったら、寛太は自分が怠惰な方向に流れてしまいそうで、それを恐れた。
(少しでも、何か次につながるような手がかりがあれば)
多少なり手応えがあれば、もう少しと頑張る意欲も湧いてくる。
今のように完全に空振りの状態で、次回の探索をという前向きな気持ちになれるのか。
頑張ったからといって結果が約束されているわけではない。スポーツや勉強でも仕事でも、努力の量イコール結果という図式にはならない。
地球でもそうだった。この世界でもそうなのだ。
だが、少なくとも真っ当な結果を出すためにはそれに見合った努力が必要とされる。それもまた同じ。
「こんなところで諦めてられないよな。日本に帰らないと」
意志を固める為に、口に出した。
日本に帰ることを絶対に諦めない。ただ待っていてそんな幸運が転がり込んでくるという楽観は出来ない。
――――――
「……?」
何かが、聞こえたような、気が、した。
空気の震える、音――には、なっていなかったような。
胸騒ぎがして立ち上がる。
知らずに寛太は、腰に差してあったステンレス製ナイフを手にしていた。
周囲を見回す。
薄暗くなりつつあるが、まだ多少の明るさはある。
林は薄暗く、静かだ。川を流れる水の音が響いていた。
崖の方は影になっていてとにかく暗い。
とにかく、暗い。
丸く、ぽっかりと、口を開いたような。
それが寛太が見た最後のものだった。
※ ※ ※




